ヒンドゥー教において、宇宙の根本原理は「ブラフマン」と呼ばれ、そのブラフマンを超えた至高の存在は、「パラ・ブラフマン」と呼ばれます。ヴェーダ時代の文献であるウパニシャッドでは、このブラフマンについての思想が発展します。その中心が、梵我一如の思想です。それは、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、個人の根本原理であるアートマン(我)が同一となる時、私たちは解脱に至るのだと説かれます。
ウパニシャッドに専心するヴェーダーンタ学派は、あらゆる現象とその可能性の背後にある原理を持つブラフマンを、究極の真理として説きました。タイッティリーヤ・ウパニシャッドでは、それを「サッティヤン・ニャーナン・アナンタン・ブラフマ(ブラフマンは、真実、全知、無限である)」と説きます。
このヴェーダーンタからは、いくつかの分派が生まれます。その一つであるアドヴァイタ(不二一元論)は、ブラフマンは形、属性、特性のないものとし、その至高の存在を「ニルグナ・ブラフマン(形のないブラフマン)」としてあらわしました。ヴィシュヌ神やシヴァ神といった存在は、アドヴァイタにとって「サグナ・ブラフマン(形のあるブラフマン)」と捉えられます。ニルグナ・ブラフマンを究極の真理と考えるアドヴァイタにとって、形、属性、特性のあるものは、すべて真理ではありません。
このアドヴァイタの唱道者であるシャンカラは、現象世界はブラフマンから生じたマーヤー(幻影)に過ぎないと説きます。そして個人がそれを理解する時、マーヤーの覆いがとれ、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、個人の根本原理であるアートマン(我)が同一となると説きました。
一方、ヴィシシュタードヴァイタ(制限不二一元論)は、現象世界はマーヤーに過ぎないというアドヴァイタにの概念に反論します。唱道者であるラーマーヌジャにとって、ブラフマンはニルグナ・ブラフマンではなく、特質をもって現れたサグナ・ブラフマンであり、それはナーラーヤナ神(ヴィシュヌ神)でした。万物は神の身体として存在し、この最高神への絶対的な帰依によって解脱が得られると説いています。
世界各地に降る雨は、各地の川を通じて、やがて同じ大海へと至ります。それと同じように、世界には数多くの宗派がありますが、どのような道においても、宇宙の根本原理であるブラフマンへと通じているのです。
(SitaRama)
コメント