未来像のイメージの仕方
欧米人や私たち日本人が、世の中の何かについて「未来を考える」という時、「Positiveなイメージ」と「Negativeなイメージ」のどちらかに偏っている傾向にあります。特に、この十年、二十年、その傾向はより顕著になって来ました。
ところが、流石のインドの場合、「両極端の共存感覚」が旺盛なため、セレブな雑誌「The Illustrated Weekly of India(1980Nov9th)」でさえ、「インド古典音楽は、Arohaか?Avarohaか?」などという洒落たタイトルで今回のテーマと似たことを「取り組み上では平等に」論じていました。
Arohaとはラーガ(旋法)の基本音列の「上行音列」のことで、Avarohaは「下行音列」こと。「インド古典音楽の未来は、右肩上がりか?それとも下がりか?」の比喩であり、少なくとも「特集のテーマ」の上では、「未来は明るい!」に偏った「大衆迎合性」や「追認主義」でもなく。逆に「未来は危うい!」という「啓発」や「危機感を煽る」というやり方で一部のエリートを喜ばせるというような手法でもなかった訳です。
しかし、そのように、何かにつけて「両極端の対峙をまず同一平面上に並列させて論じたがる」インドでさえも、結果としては、「どちらか一方の答え」に近づいてしまうものですし、仮に公平・平等・等分が貫かれたとしても、受け手の方で、一方に偏って読み、理解してしまうものです。
勿論、近年目に余るSNS記事やマスコミ報道のような、「一方をことさらに誇張して、関心を集める手法」のようなことはしていないところは立派だとは言えます。
尤も、SNSやマスコミの情報を受け取る側には、「両極端の意見や情報の両方を渡り歩き、自身の感覚を肯定してくれる意見を広い集める」という人が多いのも事実でしょう。結果として「ネット情報漂流民」のような形になってしまったり、「腸内細菌叢に於ける日和見菌」のように、右往左往してしまう場合も少なくないようです。
私はかなり以前から、このような「日和見的な右往左往」が、思考回路を歪曲させ、偏らせ、様々な「脳・神経系統・ホルモン系統」なども狂わすと警鐘を鳴らし続けて来ましたが。今回ここでは、この懸念に対するひとつの「改善策」の意味も含め、「未来をイメージする時のアイディア」を論じたいと思います。
それは、「現在の状況の分析・理解」から「未来の方向性をイメージする」のではなく、「過去の結果と、そのまた前の過去からの変化」を検証することです。
インド古典音楽の未来は、どのように変化して来たか? (古代と中世の場合)
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まず、古代の「ヴェーダ科学」にとって、仏教の台頭によって蒙った大打撃は、想定も想像も越えたものであったに違いありません。しかし、結果論で言えば、仏教は、信徒にとっては「ヴェーダよりは遥かに優しく分かり易い宗教」ではありましたが、担い手(僧侶)にとっては、極めて難解なものとなっていました。(このテーマは、私の余生最大の重要テーマのひとつですが、そうそうサワリだけを簡略してお話することは難しいです)
僧侶にとって仏典が難解であることは即ち「仏教儀礼音楽」に受け継がれた「ヴェーダ科学音楽」もまた、「演奏者にとっては難解になった」ということですが。実際のところ、僧侶たちは「仏法の理解」に必死で、「音楽の理解」に対してはかなり甘く、おろそかにした感があります。それが恐らく最初の「ヴェーダ科学音楽」の「衰退」という「予期せぬ未来」の到来だった訳です。
ところが、それから千年二千年の後、10世紀にイスラム勢力が侵入した後。インド科学音楽は、思いがけない形で「復興」するのです。
仏教の弾圧を受け、ちりぢりに分裂した「ヴェーダ科学音楽の叡智と理論」は、「仏教に於いて、湾曲されながらもかなり高度で難解なものとして取込まれた(しかし殆ど実践されず、理論も大半が失われた)」ものの他に、「密教(タントラ仏教)に於いて継承され残ったもの」がありました。同時に、「ヒンドゥー教各派に残されたもの」「各地の辺境のヒンドゥー教勢力や寺院、宮廷が継承したもの」などがありました。
そうした各地各派の名音楽家が、その一族の存続を掛けて宮廷楽師にならんとした結果。それらのほぼ全てがイスラム宮廷古典音楽に集合し、次第に統合されたのです。
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加えて、イスラム宮廷古典音楽は、13世紀のアミール・フスロウ、16世紀のミヤン・ターン・センといった改革者であり、数百年続く主流派の創設者のいずれもが、イスラム系神秘主義にも傾倒していたことがあり、「論理的かつ理論的な古典音楽体系」は、宗教の違いを越えて好まれかつ重用されたのです。
言い換えれば、統合された音楽環境が「楽しむだけで良い」という価値観であったならば、ヴェーダ科学音楽は勿論、インド古典音楽さえもその時代にほぼ滅んでいて、世界各国の宮廷宴会音楽のレベルに墜落していたに違いありません。逆に、19世紀の南インド古典音楽や、近代のパミール高原タジク音楽のように、偏った宗教上の至上主義・原理主義が台頭すると、極めて強い排他性を持つと同時に、その偏りは著しく論理性に欠けますから、ヴァーダの叡智は、むしろ淘汰される訳です。
近代のインド古典音楽消滅の危機
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次に(ヴェーダ科学音楽を内在する)インド古典音楽が遭遇した巨大な危機は、1945年のインド・パキスタン分離独立と共和制(宮廷の崩壊)でした。
厳密には、18世紀の末から「新古典音楽」が台頭していました。ヴェーダ科学音楽にとっては、新古典音楽は、「ラーガ(旋法)の深みに欠け、芸術性に偏る=娯楽性の方向性」であり、加えて「より安易で軽いラーガばかりを選ぶ」という性格が濃厚であったことも「危機」のひとつではありましたが、前回の記事でもお話ししましたように、それらを「サブ・カルチャー」とするならば、結果論で言えば、その時点ではまだ「メイン・カルチャー」が元気に健在しており、むしろ触発され一層「理論的」な方向に至っていました。
また「新声楽:Khayal(カヤール)」は、奇しくも「より安易で娯楽性の高い方向」には、進みませんでした。むしろ、「古声楽Dhrupad(ドゥルパド)」をより多く吸収し、より重厚な方向性を各派で競ったのです。
これも或る意味では「想定外」だったかも知れませんし、「危機ではなくなった」とも言える反面、逆に「深刻な状況」とも言えます。が、宮廷音楽の裾野を広げ、ピラミッド型の土台を、より一層強固なものにしたことは事実です。
ところが、共和国独立と共に、インドにも多くのイスラム教徒が残り、むしろ古典音楽演奏家はイスラム教徒の方が圧倒的に多いにも拘らず、「ムスリムはパキスタン」「インドはヒンドゥー」のイメージやプロパガンダが隆盛し、結果として「ターン・セン以降の宮廷古典音楽の伝統」は、急速に崩壊への路を辿るのです。
戦直後の日本でも、クラッシックの名手や音楽論の大家が、「米軍キャンプやキャバレーでの演奏」で喰い繋ぎ生き伸びたのと同様に。インドでも富豪の宴席や映画音楽で、非科学的の極みの「古典音楽風演奏」をせねばなりませんでした。
それでも音楽家・演奏家は、辛酸を味わいながらも、心に伝統音楽や科学音楽をしっかり携えておればどうにか生き伸びられますが。切実にその生命線を断たれたのが、「楽器職人」でした。「売れる売れない」は元より、「明るい未来は来ない」ことが明らかになったのです。その結果、「後継者」が皆無に近いほど居なくなって、急激に衰退してしまったのです。
勿論、宮廷楽師の子息でサラリーマンに転じた者が、「趣味や教養」として「伝統音楽」を継承することは可能です。しかし「楽器職人」は、「買い手も居ないのに、趣味で楽器を作り続ける」ということはあり得ません。
日本の神社が、江戸時代以前から今日に至る迄、二十年前後で、大巾な改築を共なって、敷地内を移動する「式年遷宮」を行うのは、二十年が「特殊工法・特殊技能が絶えないギリギリの期間」だと言います。その間、日々何らかの大工仕事を続けて基本技能を維持している「宮大工職人」でさえ、特別な技能は失われる危険を感じてい訳ですが、「楽器職人」はそうは行きません。
宮廷トップクラスの演奏家に納める最高級の楽器は愚か、趣味の為の普通の楽器を作る後継者も技術も絶えて行く方向性にあったのです。
実際、私の師匠の代(幼少~少年期に共和制を迎えた)迄は、存続していた有名楽器職人の幾つかがこの時期に消えて行きました。トップクラスで半減しているのですから、巷では激減した訳です。
インド古典音楽を救ったのはヒッピー?
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ところが、戦後二十年ほどして状況は一転しました。それは演奏家も楽器職人も、古典音楽ファンも想定も想像もしなかった事態の到来です。古典音楽の流派としていはモダン派に属します彼のPt.ラヴィ・シャンカル氏がビートルズの師匠となったことで、世界的にインド古典音楽が脚光を浴びたのです。言わば「インド大ブーム」のようなものです。
ブームは実に幅広く、層が厚く、しかも十年以上続きました。
ラヴィ・シャンカル氏も、欧米公演の初期の頃は、理解を得ることに苦労したと言いますが、むしろ戦後のインドの聴衆に対する苦言の方が多かったとも言います。
インド古典音楽の演奏家にとって、欧米の聴衆に「ラーガ(旋法)の深み」を理解させることは至難の業。それでも「比較的安易なラーガと超絶技巧」は「ウケた」。ところが、日本の聴衆は、「静か過ぎ」て「海外では最もやりにくい連中」と言われていました。
ところが、戦直後のインドの聴衆は、「ラーガの精霊との出逢い」など求めておらず、セレブな連中が「知的好奇心」と「博学振りの誇示」の為に集まるのが本音で、しかも「インド時間」ですから、開演してからも次々に遅れてやって来ては「あ~ら!○○社長と奥さま!お久しぶり!」を客席のあちこちでやっている。ラヴィ・シャンカル氏は何度もインドの聴衆に対して、演奏を止めて苦言を放ったと言います。
そのような苦労もあって、次第に「より真剣に伝統音楽を愛好する人々」が増え始めたのです。
しかし、一方街では、「(ビートルズなどのロック)+ヴェトナム反戦=ヒッピー」という図式で、欧米各国からバックパッカーが大挙インドを訪れ、真っ昼間から酒やマリファナに興じながら、シタールやタブラを買って、好き勝手に出鱈目に演る姿が、聖地バラナシのガート(沐浴場)でも日常的に見られたと言います。
しかし、上は「知識層の愛好会」から、下は「ヒッピー」に至る迄の「層の厚さ」と、「世界的規模」の幅の広さの御陰で、明らかにインド古典音楽(伝統音楽/旧宮廷音楽文化)は、「世界が興味関心を抱く新鮮な音楽」として、「再スタート」を切った訳です。
これは流石に誰も予想出来なかった。
勿論、そうなっても尚。むしろ「こんな低俗な流行で存続しても未来は知れている」と、僅かな本物の演奏家の楽器の修理などの薄謝で糊口を潤しながら、細々と耐えて来た「名匠・名工」が、「世界的ブーム」の到来を期に店じまい(息子たちに別な職に進ませる)をした実例が幾つかあります。
ところが、1960年代の「ビートルズ、ラヴィシャンカルそしてヒッピー」によるインド古典音楽の想定外の復興も、1980年代には再び危機を迎えます。
しかし1990年代、欧米と日本で「ワールドミュージック・ブーム」が興ります。それまでの10年を乗り切れなかった楽器匠や音楽流派は、決定的な状況となったのです。
2017年の今日。果たしてインド古典音楽の現状は如何に? 今回述べましたような歴史の転換を検証するに、その未来派如何なるものになるのか? 滅び行く伝統や、ヴェーダ音楽に不可欠の論理的思考を救う、新たな「想定外の出来事」が興るでしょうか。
今回の図版は
「インド古典音楽の未来は?」の記事があるインドのハイソ系雑誌。
その他にも古典音楽の特集が組まれていました。
1980年代、再び一般の関心が低くなり、知識人古典音楽ファンの中からも危機感を訴える声が高まった頃の貴重な特集でした。ボリウッドの「踊るマハラジャ系軽音楽」も台頭していました。
二枚の写真は、
インドのシタール工房(シタール屋)と太鼓工房(タブラ屋)。
シタール工房では、親子代々伝統的な工法でシタールを製作しつつ、壁にはブルースリーのポスターが貼られているところが1980年代の雰囲気を彷彿とさせます。先代の写真や、インド音楽史に輝く楽聖の肖像画などを貼るような店は、ごく一部になっていました。
太鼓屋で、主が自慢気に見せているのは、ドゥルパド音楽の伴奏に用いるパカワージ。珍しく装飾があるので目に留まりましたが、翌年同じ店に行けば未だあるのです。
「おやじさん!一年掛かってもまだ仕上がらないのかい?」と言えば、
「馬鹿言ってるんじゃねえよ!毎年この時期にメンテに来るのさ。お前さんみたいにね」と返されました。
生活が豊かになるにつれ、生活品もモダンになり値が上がる。馴染みのお得意さん(演奏家)の楽器のメンテだけでは楽器匠もやって行けないのです。
何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。
10月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。
九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。
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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。
「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。
(文章:若林 忠宏)
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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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