彼の有名なタージマハルを作らせたムガール帝第六代皇帝:Shah-Jahan(在位:1628~1658)自身も、先代に劣らぬ熾烈な王権・親族争いの末に皇位を継承しましたが、その四人の息子達も同じことを繰り返すという哀しい歴史となりました。シャー・ジャハーンもまた、先代同様晩年は幽閉され、帝位を奪われました。
第七代皇帝:Aurangzeb(1658~1707)は、暴君のイメージがありますが、正しくは、王族の存続どころか、国家の基盤さえ危うくしたシャー・ジャハーンの方が遥かに暴君で、アウラングゼーブは、先代のツケを払う為に、懸命に正しい道を突き進んだとも言えます。
このテーマの前回:Vol.112の図版を見て頂くと分かるように、13世紀、大臣でありながら楽聖であったHazarat Amir Khusraw(1253~1325)が使えたAllauddin Khirj(在位:1296~1316)の時点で、ほぼ全インドを支配しておきながら、Akbar(在位:1556~1605)の時代では、南インドにイスラム王朝が乱立していました。
それをアウラングゼーブは、先代が滅茶苦茶にした財政と政治構造を改革し、再び全インドを掌握するに至ったのです。言い換えれば、極めて敬虔なムスリムであり、覇権主義・権威主義や汚職・腐敗を嫌い、或る意味彼の抱く理想国家を構築せんとした超真面目な皇帝であったということかも知れません。
しかしそのリストラクション政策と皇帝がイスラム教正派:スンニーの信徒であったことから、Seni派のみならず、宮廷楽師は生活の危機を体験するのです。勿論その他にも、全インド平定の際に犠牲になったヒンドゥー教徒や寺院も数知れないことでしょう。
イスラム教には基本的に「歌舞音曲好ましからず」の不文律があります。対してアウラングゼーブに破れた兄ダーラシコーは、ウパニシャッドをペルシア語に翻訳させたと言いますから、彼が皇帝に君臨していたら、インド古典音楽もまた大きく変わっていたかも知れません。
それでもターン・センの孫:Lal Khanの四人の息子は、アウラングゼーブの宮廷で歌い、褒美を授かったとされます。
しかし。この時代と、アウラングゼーブ没後の再三の王権争いで、ムガール帝国自体が大きく揺れたこともあって、1724年宰相アーサフ・シャーがデカン高原ハイデラバードで独立しニザム王朝を興し、北部では大守サーダット・カーンがファイザバードで独立の後に1727年アワド王朝を興し、ベンガル王朝は1740年再び独立し、パンジャブ地方の古都ラホールはシク教国に併合され、1739年以降サファヴィー朝ペルシアのナーディル・シャー軍が度々進攻し、ムガール王朝の領土はデリー周辺直径500Kmの小国(独立王朝では最小の)になってしまいました。
その結果、16世紀後半から18世紀前半に掛けて、Seni派の楽師の多くが、新天地を求めて東方のランプール、ローヒルカンド、ラクナウ、ヴァラナシ、ダルバンガ、南方のインドール、グワリオール、西方のアルワール、ジャイプールに移転します。実際ビハール州のダルバンガ、トリプラのアガルターラを例外的な最東として、他はいずれも、デリーから今日飛行機で一時間程度の言わば近郊ですが、とりわけ東方に移転した音楽家の中に、所謂「中興の祖」のような名人が現れたため。総称して「Purabiya(東方組)」というステイタスを確立しました。
その後、18世紀後半から19世紀に掛けても、ムガール王朝は縮小の一途を辿り、逆に上記の藩王国はイギリスの分割統治の巧妙な策の上での繁栄を欲しいがままに発展していました。
既に移住したPurabiyaが築いた宮廷音楽に於けるSeni派の基盤を頼りに、その後のSeni派の音楽家も、移住したり、デリーとの間を行き来したり、藩王国を渡り歩いたりして、Seni派の門下を広げて行きます。
デリー残ったVinkar派のLal Khanの孫Nirmar Shahとその息子のNiyamat Khan(Sadarang)(1670~1748)は、Seni派の音楽性を保つ以上の功績と名声を博した言われます。
Sadarangは、十四代皇帝:Md.Shah Rangila(在位:1719~1748)の宮廷楽師長としての名声を誇っていましたが、王の粋狂に腹を立てて辞表を叩き付け、東方のJaunpur宮廷に転職し、その後新たな歌謡様式を創案し返り咲いた逸話を、この連載で以前、Vol.46でお話ししました。これが新声楽様式Khayalの原型と言われます。
デリー東方のラーンプールの太守(Nawab)は、代々古典音楽の頼もしいパトロンを越えた音楽マニアで、自身も音楽史残る名演奏家であった人物も少なく在りません。
Sadarangの孫:Umrao Khan(?~1840)が移住した頃のラーンプール太守:Ahmad Ali Khan(在位:1794~1840)は、かなりの音楽マニアで、強力な古典音楽のパトロンでした。Umrao Khanが没した年に太守となった後継:Sayyd Md. Khan(在位:1840~1855)もまた古典音楽の重要な支援者でした。しかし彼ら以上に特筆すべきは、後に太守となった孫のSayyd Kalbe Ali Khan Bahadur(在位;1864~1870)とその弟(太守にはならず)Haidar Ali Khanであると言えます。Kalbe Ali Khanは、Umrao Khanの息子で、Rampur宮廷楽師長を継いだ:Amir Khan(?~1870)の強力な支援者であると共に、彼自身も、Rababとその発展楽器Sur-Singharの名手として知られます。
またこの頃、Lucknowに移住したRababiyaでは、諸説ありますが、一般にBilas Khanから七代目に当たると言われると共に、「中興の祖」でもあった「三兄弟」が特筆されています。その、Pyar Khan(1780頃?)、Zafar Khan(同?)、Basat Khan(1787~1889)は、いずれもDhurupadとRababの巨匠でした。
私の師匠の流派では、曾祖父:Ud.Niyamet Khan(1816~1911)と祖父:Ud.Shafayet Khan(1838~1915)が、Basat Khanの弟子となり、祖父:Ud.Keramatullah Khan(1848~1933)が、Pyar Khanの弟子となり、流派はSeni派の一員となりました。
上記の新楽器Sur-Singharは、三兄弟の長兄:Pyar Khanの創作と言われますが、既にアフガニスタン弦楽器:ルバーブを改造しサロードを用いていた師匠の祖父・曾祖父たちが、その師:Pyar KhanのSur-Singhar創作に多大な影響を与えたことは間違い在りません。
前述のUmrao Khanは、ラーンプールを拠点として、ラクナウやヴァラナシの宮廷からも呼ばれて赴き、音楽指導を積極的に行いました。息子Amir Khanもまた、太守Sayyd Md. Khanの宮廷楽師であると共に、次次代の太守:Kalbe Ali Khanの師を勤めた他、シャージャハンプール派Sarodの中期の名人Fida Hussain Khanを弟子としました。
このAmir Khanの息子のWazir Khan(1851~1926)は、Seni・Vinkar派末期最大の音楽家です。なにしろ前述のシタール奏者Pt.Ravi Shankar氏、Pt.Nikhir Banerji、シャンカル氏の義弟のサロード(シャロッド)奏者Ud.Al Akbar Khan他、百人を越える名人の師匠であったUd.Allauddin Khan。サロード・トラッド派のUd.Amjad Ali Khanの父:Ud.Hafiz Ali Khan。パキスタンを代表するシタール奏者のUd.Md.Sharif Khan Punchwala(Nisba地名)の父:Abdu-l Rahim Khan、他、多くの声楽家も含む相当数の名人の師となった人です。
このWazir Khanの孫が、両Seni派最後の宮廷楽師:Ud.Muhammmad Dabir Khan(1905~1972)で、息子Md.Shabbir Khanも音楽家ですが、音源・映像を拝聴したことはありません。
私の師匠の祖父・曾祖父たちは、ラクナウと隣接するシャージャハーンプールの太守の宮廷楽師を勤めましたが、アワド王朝の最後の皇帝ワジッド・アリ・シャーは、インド音楽史に残る音楽マニアで、自らもランプールの太守の弟、前述のHaydar Ali並ぶ音楽家でもありました。その在位末期には、イギリスの分割統治の罠にはまり、ラクナウを開け渡してベンガル・コルカタに移住。その際に、私の師匠の大叔父:Asadullah Khan(1858~1912/19?)などが太守に同行し、ベンガル地方にSeni派を伝えました。
ラクナウとベンガルの中間点、ビハール州のダルバンガ宮廷には、かなり早い時期の「Purabiya」が移住し、とりわけターン・センの娘と婿の孫のBhupat Khan(Maharang)が宮廷楽士長を勤めたことで、東部で最初に高度な古典音楽を記しました。
前述の膨大な弟子を育てたWazir Khanの母方の叔父で、Vinkarの血筋ながらラクナウ三兄弟のBasat Khan(Rababiya派)の弟子となったKasim Ali Khanは、トリプラ州のAgartalの宮廷楽師になり、ベンガル地方でのSeni派の浸透に勤めた音楽史に残る名手です。師のBasat Khanもまた、晩年はベンガル地方に移住し後のVishnupur派の成長や、コルカタに於ける古典音楽の隆盛に寄与します。
それぞれの音楽家の「拡散」の意図の基本が「より質の高い聴衆(王侯貴族や同業者)の宮廷で充分な収入が得られること」であることは言う迄もありません。
ライバルの存在は、それが音楽的な場合は、むしろ好ましいものですが、嫉妬・怨恨・政治的対立の場合、それが嫌で再移住した音楽家も少なくありません。
ただ、近々にこのコラムでより詳しく説明しますが、単に「Seni派を広めた」とは言っても、「弟子のランク」によって、教えることがかなり変わりますので、今日喜ばれる「敷居を下げてオープンに芸風を共有させること」などは、到底美学に反する「迎合」であり「堕落」と考える時代の人々です。
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何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。
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(文章:若林 忠宏)
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