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インド音楽

125,シーター&ラーマを歌った名曲:Ragpati Ragav (3)

Raghupati Rāghav Rājā-Rām, Patit Pāvan Sītā-Rām

Sītā-Rām, Jai Sītā-Rām, Bhaj Pyāre tu Sītā-Rām

Ishwar Allah tero naam Sab ko Sanmati de Bhagavān

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名曲Raghpatiの歌詞について
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Raghupati の「Raghu」は、インド古典音楽用語にも用いられる「迅速」が字義ですが、ここでは、「Ramaの祖父の名」及び「Raghu王家」であり、「Ramaのスマートさ」の意味合いなのでしょう。「Pat」や「Patita」の字義のひとつには、「所属」がありますが、「主」「継承者」と普通に理解しても良いのですが、ここは、もっと掘り下げると面白くなってきます。

神々への讃歌では、「置き換え」と「所属」の相反する二元論の感覚の理解が不可欠です。

ヒンドゥー讃歌、及びその根源であるヴェーダやウパニシャドに多く見られる、「○○は○○であり、○○であり、○○であり....」と延々と続き、しばしば、逆転や矛盾さえ包括し、理解せんとする者を「煙に巻くことが意図か?」と思うほどの途方も無い論法です。しかしこれこそが、ブラフマン・ヒンドゥー論理学の根幹であり、物事に存在する「全ての枝葉」を「全て=で結び」それによって、「枝葉感覚・執着感」をリセット(Nirakara)する目的(Prayojana)があるのです。ちなみに「枝葉を=で結ぶこと」は、「グローバリズム」とは似つつも全く逆の・_理です。従って「繋がり」と理解するのも過ちです。

洋の東西を問わず「諱」という現代人には分かりにくい習慣が宗教・民族を越えて存在します。しかし、たいがい「本名」の他に「タイトル」がある程度で、それはギリシア神話や北欧神話の神々にもあります。しかし、それを数十、百は愚か、数百~千までやってしまうのは、世界広しと言えどもインドだけのことでしょう。

従って、「Raghupati(ラグー王家の後継者)」も「Rāghav(理知的な者)」「Rājā-Rām」「Pāvan(浄水)」も皆、「Vishnu Sahasranama(ヴィシュヌの千の名)」だとしてしまうことは簡単です。「色々言い換えるのが好きなのだろう」と。
しかし、他のBhajanでも同じですが、「何処でどの名を用いるか?」を掘り下げると、限りなく深い世界があるのです。

「Pāvan」を上記では「浄水」としましたが、クリシュナに言わせると、「風でもある」「いや、むしろ風だ」というような、またしても禅問答(原点ですから当然?)のような感覚なのです。「水を浄化させるものは、風である」という考えから、「水と風が一体化(一元化)」したものであり、「Pancha--Dhatu(五大元素)」の「Apa」と「Vayu」の合体であり、これらは単独でも「Agni」を抑える効力を持っているものです。当然、ここには、ブラフマン教の神々、をヴィシュヌが抑える意味合いも含まれます。

「Bhaj Pyāre」は、「愛を分つ(分けてくれる)」と素直に理解することも大切です。その上で掘り下げると「Bhaj」には「分け与える」という極めて「父性・母性」の根源である意味合いの他に、そもそも「Bhakti(献身)」の語源が「Bhaj(分ける)+Kti(愛)
」である、という説もあります。そして「Bhakti運動」の主要な業は、「Bhajan」や「Kirtan」の詠唱や合唱(掛け合い)ですが、その「Bhajan」の語源も「Bhaj」です。
この「Bhaj」こそは、「枝葉の価値感(執着)」を戒め、「客観性や道徳、公共心」などといったものではなく、広い視野で「枝葉全体・樹木全体(森羅万象)」に五感を広げよ、という感覚を示唆しています。なので「神様が愛を分けて下さる」という利己的な感覚では、到底「Satya」どころか「Samaj(理解)」にさえ至らないことは言う迄もありません。

「Ishwar Allah tero naam」は、前述しましたが、ちなみに「Nam」が「Name」に似ていて同義なのは、「印欧語属の共通性」です。(言う迄もない?)
「 Sanmati de Bhagavān」も、「タイトル的な別名」でありつつ「高潔な心の豊かな神」と素直に理解することも大切です。勿論、字義や語源を辿れば、キリなく深まります。

ここで、極めて重要なテーマが、前述しました「果てしなく展開する=で結ばれた語彙」に加えて、サンスクリットが、日本の熟語に非常に近い感覚を持って居るということです。

単に、二語熟語の一方が他方を形容したり、装飾したりではなく、本来「異なる意味合いの言葉の融合・混合の語彙」が、古代インドから中国で漢訳(意訳)されて日本に伝わった。つまり日本人も平安時代にヴェーダの叡智を学んで居た、ということです。例えば「健康、神経、経脈、元気」などの体の言葉の他にも、「恋愛」「悲哀」「愛情」「転回」などもそれに当たります。
しかし現代人の多くが「悲哀」の「悲」ばかりで、「哀」の意味が分からない。「喜怒哀楽」の「喜」と「楽」さえも同化している。その日常感覚のままで、ヴェーダやヒンドゥーを理解しようというのは、かなり無茶な話し(本末転倒)でもあります。

この歌では、前述した「Bhaj(分ける)+Kti(愛)」がそれですが、文字通りに日本語にすると「割愛」です。今日では「割愛」と言っても「省く」意味合いでしか理解しない人が殆どではないでしょうか。

上記の「健康、神経、経脈、元気」の内、「神経」は「神の意志が通る道」という二字でひとつの意味、「元気」は「元(本来の)気」と前者が後者を装飾している別な構造の熟語ですが、「健康」「経脈」は、「複合語」です。「健康」「元気」は、幕末~維新期に日本人が考え出したもので、同様な当時の「新語」の中には、むしろ中国に逆輸出したものもあるようで、当時の日本人の向学心と叡智の冴え方には驚かされます。

ヴェーダの叡智を生んだインドでも、サンスクリットからヒンディーなどに変化するに至って、この「複合語と、それに見られる論理性(普遍性/置き換え概念)」は薄れて行く傾向にありました。また、おそらく近現代のインド人の多くも、日本人同様に、「ひとつの意味」として「意思伝達の道具」と考えていることでしょう。

「言葉」には、「その音が持つ力(言魂)」の他に、ヤントラ的な要素も含め、その「構造」に秘められた論理的な深い意味もある、ということを、より古いサンスクリットが教えてくれているのです。.
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名曲Raghpatiの音楽について
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面白いことに、インド版の「Q&Aサイト(教えてGooやYahoo質問箱のような)」で、「Raghpatiで使われているRagaって何ですか?」というのが、ちらほらありました。皆、興味を持つことは同じなのだな!と感心するとともに、インドでも答えは語られていないのか、と少し驚いた次第です。

しかし、何時の頃か、素人が浅学を述べることに全くの躊躇も衒いもなく、「~と思います」の類いを平然の書くようになりました。ハンドルネームだから「責任が無い」ことを良いことに。そうすると、プロの情報さえも、同質の感覚で扱われてしまう。「そうではない」なら、何の問題もないのですが、浅い情報を得て、浅い知識で満足している価値観では、プロの価値が理解されるとは思えませんし、実際そう思わざることが年々増える一方です。
尤も最近はプロらしいプロも少なくなり、世間の風潮に迎合して「へ~知りませんでした!」と喜ばれるような情報提供にやっきになっている人が大半を占めるようになってしまっています。
ヴェーダの教えによれば、極論すれば「情報」などは、「知識」では全くなく、ましてや「認識:Pramana」からはほど遠いものなのです。このコラムで述べていることも含めて、世間に流通している情報は、「氷山の一角」であり、見えない部分、そして奥行きにプロは膨大な時間を掛けて「収集」のみならず、「整理整頓」「分類」「検証」を行っていることは勿論。ヴェーダで最も重要とされた「類推(Anumana)」にどれだけの力があるか?が最も問われているのです。つまり「見えないものの姿を分かろうとする」「声無き声」「筆を持たない人々のこと」を分かろうとする「力」です。

しかし、その現地インドでさえも、その点を最も厳しく説いた学派「Nyaya学派」は最も早く、最も大きく衰退していますから、世界的規模で、非論理の方向に進んでいることもまた、間違いのないことなのでしょう。

インド版Q&Aサイトで、「RaghpatiのRagaは、Jayjaywantiだ」が幾つかあって愕然としました。質問者も「そうなんですね!ありがとう」で終わっている。尤も、分かっている人は、わざわざしゃしゃり出ないのかも知れませんが、近年「風評」や「フェイクニュース」が問題視されているならば、「非営利」は勿論、「非政治、宗教、思想」の組織による、「情報のWHO」のようなものが出来るべきでは?とも思います。
尤も、「食」に置き換えれば、受け手側が、「体に悪いなんて気にしない」「美味しければ良い」の状態では、組織が出来ても意味がないかも知れませんが。

Raga:Jayjaywantiは、確かに「雰囲気」は似ています。特に「RaghavのvからRajaに掛けて」の「DnRS(ラシ♭レド)」の動きや、その直後の長三度「G(ミ)」と短三度」の「g(ミ♭)」の使い分けの「RamからPatitaのPaに掛けて」の旋律「RGmPーg(レミファソーミ♭)」もJaijaiwantiお得意のフレイズです。

しかし、終止が「S」で終わることが全く異なり、「NSDnR(シドラシ♭レー)」と「R(レ)」で終止することがJayjaywantiの真骨頂ですから。
また、展開部の「Bhaj Pyare Tu」の「Tu」で登場する「短六度」は全くJayjaywantiではあり得ません。ラーガ本来の音から逸脱する場合、そのラーガを「軽いMix-Raga(Misra)」とする観念もありますが、聴いた感じ「明るくて軽い」Jayjaywantiですが、その音の動きの複雑さから分かるように、かなり重厚で難解で重要なラーガですから、「Misra-Jayjaywanti」もあり得ません。
尤も、ラーガの起原としては、むしろBhajanから生まれた可能性も無くはありません。ただ、それが古典音楽のラーガに昇華した段階で、厳しい理論が付加された訳ですから、やはり混同する訳には行かないのです。

とは言え、既にご紹介したように、古典声楽の雄:D.V.Paluskarも「Raghpati」を「Bhajanとして」どころか「Kirtan風」に歌って録音しています。しかし、ヒンドゥー教徒の歌い手として、古典声楽とは意識を切り替えてのことであることは言う迄もありません。

同じ、D,V.Paluskarが同じTulsi Dasの名曲「Thumak Chalat Ramachandra」はより素晴らしいと思います。

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何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

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また、現在実施しております「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」は、まだまだご回答が少ないので、
是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。

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(文章:若林 忠宏

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