73、楽聖ターンセンの輸入楽器:Rabab

前回も少し話題に登り、この連載のVol.44でも逸話をご紹介しました、16世紀デリー宮廷でアクバル大帝の音楽教師も勤めた宮廷楽師長のミヤン・ターンセンは、前述しましたように「ルードラ・ヴィーナ」の名手と「古典声楽:ドゥルパド」の名歌手でした。(ドゥルパドの中興の祖とも言えます)
逸話でも紹介しましたように、ターンセンは、イスラム支配時代にもヒンドゥー文化を固持した西北インド・ラージプートのヒンドゥー藩王国の楽士に学び、中部インド・ヒンドゥー藩王国グワリオールの宮廷でプロデビューしました。イスラムへの改宗はその時と言われています。
彼はイスラム教正派スンニーの信徒でありながら、ヒンドゥー聖人とスーフィー聖人の師匠を持ち、長女の名はサラスワティーとしました。その娘の婿がグワリオールから引き抜かれた「ルードラ・ヴィーナ」の名手で、以後娘と婿で、「ルードラ・ヴィーナ」の系譜を継ぎ「(ターン・)セニ・ヴィーンカル派」と言われます。
一方ターンセンは、300年前のデリー宮廷の楽聖アミール・フスローに倣ったのか? 同様に中央アジアの音楽にも関心があったようで、パミール高原の大型三味線「ルバーブ(Rubab)」にヴィーナの「サワリ駒(ビヨーンという独特な響きになる)」を取り付けた新楽器を考案します。恐らく単にインド発音で「ラバーブ(Rabab)」と呼ばれていたのでしょうが、後に「ターンセン・ラバーブ」とも呼ばれます。この系譜は次男(長男より腕が立ったらしい)ビラス・カーンらに受け継がれ、以後「(ターン・)セニ・ラバービヤ派」と呼ばれます。

そして、「ターンセン・ラバーブ」が、「古典弦楽器のステイタス」を得られたのは、宮廷楽士長が創作したから以上に「ヴィーナのサワリ(日本語)駒」という「ステイタス」を得たからに他成りません。シタールがそれを得るのにはその後200年近くかかります。

「サワリ」は日本の三味線・琵琶に言われる言葉で、意図的に弦に棹や柱(フレット)や駒の部分が触れるように作られており、それによって単純な振動が複雑化し、倍音を豊富に含み、その助けも得て自ら共鳴しながら余韻を伸ばす仕組みです。偶然にも似た言葉でインドでは「ジャワリ」と言います。声楽用伴奏弦楽器の「タンプーラ」には、弦とサワリ駒の間に更に細い糸を挟み余韻を倍増させていますが、旋律楽器の場合、フレットを抑える場所によって弦長も角度も変わるので、その都度糸の位置を変える訳には行かないので使いません。タンプーラの糸は「ズィーヴァン(命_)」と言われますから、古典音楽が如何に「余韻」を求めていたかが分かります。

そして、この「余韻」こそが「古典音楽のステイタス」である訳です。
その理由は、インド音楽は伸ばされた余韻や音の中で装飾音が着けられることが圧倒的な特徴であるからです。そうでない西アジア以西、中国以東の楽器の場合、むしろ装飾音は弦を弾くのとほぼ同時に掛けられます。西洋音楽用語で「前打音」と言われる所以です。ところがインド音楽の場合、伸ばした音(声)の後に「アーーー〜〜〜〜」のように着けられるので強いて言えば「後付装飾音」と全く逆の発想になります。そしてその技法こそが古代音楽の継承者であることの証であり、西域渡来の大道芸や花柳界音楽との格の違いの見せ所だった分けです。

なので、「ターンセン・ラバーブ」は、ヴィーナの駒を付けたことで古典音楽楽器となった訳なのです。ただ、尤も「ターンセン・ラバーブ」の弦は、太い羊腸弦なので、「サワリ効果」は、金属弦の数割程度です。それでもサワリが無い場合よりは五倍以上余韻が長いのです。金属弦に変えなかったのは、恐らくターンセンが、シルクロード・パミール高原のオリジナル楽器の羊腸弦の「重低音」に大きな閃きを感じたからでしょう。巻弦という弦の回りに極細のコイルを巻いて太さの割に重低音が出るように工夫するのは早くても19世紀末頃でしょうから、金属弦で1mm以上もあると音程も音色も定まらず、何より抑えるのが一苦労。楽器演奏に関しては苦労を惜しまないインド人も流石にお手上げだったのでしょう。羊腸弦は金属弦より音量は半減しますが、同じ太さなら5度からオクターブ程も低く調弦出来ます。
これによって、ターンセンは、ドゥルパド系器楽を男声の音域で弾くことに成功し、より重厚なものにした訳です。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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72、弦楽器の王:Vina

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インド古代音楽に於ける弦楽器の総称である「ヴィーナ(Vina)」の語源は、私にも確証がありません。文献にはそもそも語源の記述は見当たりませんが、仏典に見られる「Venu」が語源かも知れません。仏典は中期ブラフマン教の伝統を、継承した部分と反発した部分に読み取ることが出来ます。しかしその当時の「Venu」は、「笛」だったようで、「僧侶階級は笛を吹かない」という話しと矛盾するようですが、カーストが確定するのは更に二千年以上後の「マヌ法典」の頃ですから、早くても仏教時代の後半に「笛は吹かない」となったとしても、仏教時代の前半やその前の時代には吹かれていたのかも知れません。同様にその時代からあると思われる「シャンカ(Shanka)/法螺貝」もまた「笛」の一種ですし「動物質」ですが、古代からずっと神聖な神器でした。なので「Venu語源説(と言いつつ私の他には言ってないようですが)」もあるかも知れません。

「VIna」の語になった頃も、特定の楽器を指すのではなく、「弦楽器の総称」でしたから、様々な種類がありました。当時は仏教とブラフマン・ヒンドゥー教が混在していた時代ですが、双方の神話に現れる様々な動物・鳥類を象ったヴィーナが作られていました。サラスワティー女神のお供「孔雀」を象った撥弦または弓奏楽器の「Mayuri-VIna」、ヴィシュヌ神の化身にも在る「亀」の形の「Kachapi-Vina」、仏教では「龍」と同義でもある「鰐」の形の「Makal-Vina」といった動物の他、楽聖であり聖仙であるナーラダが創作した「Narada-VIna」、「百弦」を意味する竪琴の「Shata-Tantri-VIna」20弦の「Dwa-dash-Tantri-Vina」、「天上の楽士」の「KInnari-Vina」などなどです。それらの幾つかは、インド各地の仏教遺跡のレリーフによってその形を知ることが出来ます。

「Kachapi}(亀)-Vina」と「Makal(鰐)-Vina」は仏教と共にインドシナ及びインドネシアにも伝わり、今日でもタイやカンボジアで「Krachappi/Chapay(亀)」「Chakhe(鰐)」の名でその形の片鱗が残る弦楽器が古典音楽で重用されています。インドネシアの島々では「Hasappe」「Hasapi」などと呼ばれ現存しますが、形もかなり様々で「亀」の面影もなく、現地の演奏家もその言われを全く知らないようです。

インドで仏教が衰退し始めた頃、ヒンドゥー教はブラフマン教をも圧倒し、サラスワティー女神やルードラ神などのブラフマンの神々もその神々の系譜に組み込みます。ルードラ神は、初期のプラーナ文献で既にシヴァの別名とされています。かなり貴重になりましたが、まだ北インドに現存する「ルードラ・ヴィーナ」は、大きな二つの干瓢の胴に竹筒のネックを渡し弦を張った楽器で、ターン・センもこの楽器の名手でした。と言うよりイスラム宮廷音楽になっても古代寺院僧侶音楽がその主流だったので当然なのですが。

このヴィーナのそもそものルーツは「サラスワティー女神が竹筒弦楽器を、その豊かな二つの乳房に充てて共鳴させた」という伝承にあるもので、仏教レリーフでも確認出来ます。故に、そもそもは「サラスワティー・ヴィーナだったのです。恐らく女性用の小型がそれで、男性用(身体の大きさだけの問題でなく、声楽の合間に演奏したため、男声女声のKeyに合わせた)の大型が「ルードラ・ヴィーナ」だった訳です。

 中世以降から今日南インド古典音楽で用いられる「サラスワティー・ヴィーナ」は、その形状(樹をくり抜いた大きな柄杓型)を見ても分かるように、西アジア弦楽器「タンブーラ」(南インドでも或る種のヒンドゥー修行僧が好んで弾いた)にヴィーナの駒を取り付けたものですが、イギリス植民地時代のヒンドゥー文化復興運動の頃に「サラスワティー・ヴィーナ」の名前を起用しました。なので、結構ややっこしい話しになっているのです。今日の南の「サラスワティー・ヴィーナ」は、副共鳴体付きのシタールのように上部の共鳴体は小さく、元祖の「二つの乳房」とは大違いの不揃いです。

胸に充てて共鳴させるヴィーナは、仏教時代には托鉢の修行僧や盲僧の楽器となり男が弾きましたので半球状の干瓢のひとつの胴体を持ち、胸で共鳴(もしくは胸板で反響)させます。この楽器の子孫は、今日でも僅かにタイ、カンボジアに残っています。カンボジアの知人に作らせた時「ポルポト時代に殺されもう最後の一人の職人が作った」と言っていましたから、最早絶滅したかも知れません。偶然にもその奏法や形はブラジル格闘技カポエラに用いる楽弓「ビリンバウ」に極似します。

一方大乗仏教の経路でチベットや中国に伝わったヴィーナは、定説では「琵琶」の語源であると言われますが、遠からずとも当たらずと思います。古代中国の「琵琶」の発音がどうであったか?も課題ですが、それ以前に、中国に伝わる前に、当時最高水準の仏教文化を誇り、素晴らしい楽器演奏図だけが壁画に残る「亀爾(キジル)」王国に於ける呼称を検証すべきと思われます。恐らく定説通り「ヴィーナ」の音訳が「琵琶」なのでしょうが、「インドから中国」ではないのです。

また「ヴィーナ」の語意は、弦楽器の総称であり、希に管楽器にも「ムカ・ヴィーナ(口ヴィーナ)」などと用いますので、「琵琶」と音訳するより「琴」と意訳した方がしっくりいくとも考えられ、上記の「動物ヴィーナ」は、それぞれ「亀琴」「鰐琴」「孔雀琴」と表せます。中国では「琴」は、柱のない古い「おこと」の一種ですが、「弦楽器の総称」でもあり、日本でも有名な「二胡」は、「胡琴」の一種です。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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71、古代の弦楽器

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この連載の冒頭にお話し致しましたが、インド古代音楽にとって楽器は、「宇宙の波動」を受信する言わばレシーバーやラジオのようなもので、修行を重ねた結果、雑音(他の電波の混入)が少ない正しい音を楽器から発することが出来る。それは「正しく受信するからだ」と説きます。人間の声による、マントラなどの詠唱から古典声楽に至るものも全て同じ観念で考えられ、あたかも人間の身体も楽器の一種と考えるのです。

この7月にトンボ帰りで上京し、都立の小中高の音楽の先生に世界の打楽器について講義とデモ演奏をしてきました。長年「社会人講座」の講師をさせて頂いている東京音大付属民族音楽研究所の共催でした。その時、音楽の先生たちに質問した同じ問い掛けをこの連載の読者さんにもしてみたいと思います。正解は(憶えていたら)次回に書きたいと思います。

問題は「世界で最初に出来た太鼓の胴体は何?」です。ヒントは、「世界中何処でも同じ考えで作られました」「でも、世界に一個しかありません」です。

昔、地方のレクチャーコンサートで同じ問いをして、正解を言わずに帰って来てしまい、翌日お客さん数名から主催者に「気になって夕べは寝られなかった」の苦情が寄せられたことがあります。この連載で少しご紹介しました「ガネーシャ神が世界で最初の太鼓奏者で、その太鼓は土(素焼)製のムリダング/Mridang)」はインドだけのことですから今回は割愛して下さい。

この問いの答えでも分かるように、古代の人々はインドのみならず、かなりアニミズム(自然崇拝)的な感性を持っていたのです。(これも大きなヒントになってしまいましたが) ところが後世、例えば西洋では「Musical-Instruments=音楽の道具」のように言われ、確かにその後から今日に至る様子をインド古代音楽の感覚で見ますと「自己表現の道具」もしくは「名作を再現する道具」のようになっている感じもします。

一方、中国の人々の感覚「楽しみの器」は、まだ「心」が感じられますね。でも、インド古代音楽は全く次元が異なる。「宇宙の波動の受信機」ですから、人間より尊い。人間の道具などでは断じてないのです。もちろん「楽しみの為だけ」でも全くないのです。

また、正しい修行によって鍛えられた人間の声(喉}もまた「楽器」ですから、それも神々から賜ったもの。その歌い手の私有物ではないという感覚です。もちろんそこには師匠への恩義や流派への忠義も加わりますから、日本の歌舞伎役者さんや、正統派古典落語の「芸」に関する感覚が近いかも知れません。

物理学・現象論に執着する人々は「非科学的だ」とおっしゃるかも知れませんが、確かに物理的には喉や楽器の振動が音になるのだとしても、楽器から発振されると同時に、常に数万数億飛び交う宇宙の波動と融和するのかも知れず、百年後には科学的にそう解明されるかも知れません。また、私は恐らく個人では世界で最も多くの種類と数の楽器を鳴らして来たと思いますが(約九百種3千個)その経験から言うと、湿度温度気圧や会場の反響以外の要因でその日その日で楽器の「気分」も大きく変わるのです。その要因の中にはお客さんからの念、気、オーラなどの波動の影響がとても大きいと痛感しています。

インドの古代語で楽器は「ヴァードゥヤ(Vaadya)」と言い、字義には「交流、交信、会話」などがあり、正しく「宇宙との交信器」なのです。しかし、10世紀から19世紀に至る長い間、インドの大半の地域で古典音楽は、イスラム宮廷音楽の立場を取り、イスラム教では宗教と音楽を完全に切り離し、不文律では「歌舞音曲好ましからず」という感覚も根強くありました。

そのため、「宇宙」や「魂」をテーマにしたものは表立っては語り辛くなりましたが、既に逸話をご紹介しましたようにデリー宮廷楽士の長(当然イスラム教徒)の楽聖ターンセンでさえ、精神的な師匠にヒンドゥー聖人を求めていましたので、その精神性は内面的に継承されていたと言えます。もちろん、そういった音楽家の多くがイスラム系神秘主義「スーフィー」の信者でもあったことも大いに関係があります。

古代インドの楽器の中で、最も重用されたのが弦楽器でした。それは既に述べて来ましたように僧侶階級の菜食主義と関わり、獣皮や「根、幹、枝、葉が明確に分離していない植物」の素材が敬遠されたこととも関係します。なので、弦楽器の弦も、羊腸や絹ではなく金属弦が基本です。

「楽器」という名称と概念も西洋や中国とインドは異なると上記しましたが、「弦」もまたしかりです。古代メソポタミア、エジプト,ペルシアの文化を継承する古代ギリシアでは、「Chord」と呼ばれましたが、意味は単に「紐」です。ギターの和音やそれを抑える形を「コード」と言いますがこれが語源です。四音の組(ドレミファやソラシド)を意味する「テトラコルド」はピタゴラスたちが「箱に四本の長さの異なる弦を張って説明したから」とも言われます。これに対して古代インドで「弦」は「タントリ(Tantri)」です。中世以降はペルシア語の「タール(Tar)」が主流になって「タントリ」の語は廃れました。なので、有名な「シタール」も「Si(3)Tar」ですし、実は「ギター」も「Gui+Tar」で元はペルシア語です。やはり「紐」とか「弓矢の弓のつる」の意味合いです。インドの音楽学者には「Tarの語源はTantri」と信じ切っている人も少なく在りませんが間違いです。しばしばヒンドゥー感覚に偏重するあまり(恣意もありましょうが)ちょっと意固地な学者や演奏家も少なくありません。恣意を込めずとも自ずと醸し出される凄さを紹介する方がインド科学音楽に対して誠実であると思うのですが……….。

「タントリ」は、正しく「Tantra」と語源を共にするものと考えられ、よろずに関して古代インドでは「楽器」は「物質的な感覚」ではないそれ以上の思いを込めていたことが感じられます。ところが、「弦楽器」について「Tantri-Vaadya」と書いた文献は見当たらないのです。現存する完全なる音楽専門書としては最古と言われる「ナティヤ・シャストラ」でもその「楽器の章」では「Tar-Vadyam」と書かれているようで、既にペルシア語が主流になっていたことが分かります。

しかし、「Tantri-Vaadya」の代わりの「弦楽器の代名詞「ヴィーナ(Vina/Veena)」はかなり古いだけでなく、今日でさえ様々な楽器にその名称が残されています。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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70、禁断のRaga

Sri Maha Mariaman Hindu Temple

はたして、インド古典音楽には、Raga(ラーガ/旋法)はいったい幾つあるのでしょうか?
結論から言うと、「誰も言えない」「誰も知らない」なのです。
一説には、「34,848である」と言われていますが、私はまだ全てを列記した資料と出逢えていません。

そんな、「計り知れないインド」のことですが、「禁断のRaga」という特殊なRagaは、そんなに多くはありません。
そもそも「禁断のRaga」という感覚は、インドに興味が無かったり、全く知らない人にはほとんど理解できない話かも知れません。
先ず、これを理解するには、「インド人の不思議な習慣(癖)」を理解する必要があります。

そもそも「机上の理論」で考案されたRagaですが、これは極めて「論理的」です。「論理」と聞くと現代人は、「理屈っぽい、融通が利かない」と敬遠しますが、全くの誤解です。

「論理」の基本は「考えられるだけ挙げる」ことです。故に「感性、好み、生い立ち、人生観、生活感、宗教観、思想の違い」から「思考性、指向性、理科系、文系、体育会系」そして、「大人、子ども、男、女性、障害者、高齢者」などあらゆる人々から、人間に限らぬあらゆる生き物や、石ころから大海に至る自然物に対しても「平等な考え方」なのです。

私はこれこそが「古代インドの科学」も最も誇らしい素晴らしい人間性溢れる叡智であると強く理解しています。
これこそが「森羅万象」であることは言う迄もありません。

ところが、そのインド人は、「論理的に考え挙げ出したもの=机上の理論」を実際、Raga演奏をする段になると「○○はつまらないから演らんで良い」と極めて「現実的、感覚的、情感的、慣例的」に判断を下すのです。大いなる「矛盾」と言わざるを得ません。

しかし、「最後で最年少の宮廷楽師」であった私の師匠の世代までは、これは「矛盾」ではなかったのです。樹木に喩えれば、「幹〜太枝〜中枝」と基礎を積み重ね、充分な理解と認識、分別を持って居れば、「全ての枝葉を実見聞する必要はない」ということに他なりません。

これに対し、インド人も含め、現代人は「樹を見て森(森羅万象)を見ない」。自分が選択を繰り返し歩んで来た「今居る枝葉」でしか物事を理解しない。故に「争いや誤解、決めつけ」が無くならない。「虐め」もしかり。

つまり、昔のインド人の場合「実見聞しなかった枝葉」も実体験したものと同価値があって「存在する」ことを忘れてはいなかった。なので「一を聞いて十を知る」というセンスに長けていたのです。
しかし現代人は、西洋的な「合理主義、現実主義、結果論」に固執して、「今を生きる」と素敵に言いつつ、「自分の枝葉のことしか考えない、理解しない」訳です。

そもそも、この感覚で弾くならば、あらゆる「Raga」が「Raga」ではない、とさえ言えるのではないでしょうか?だとすれば、既にそれは「禁断のRaga」であるとも言えます。

私の40年近くの教師人生で最も哀しいと思ったことは、延べ数百人の生徒さんやお弟子さんの殆どが「間違いを恥じる」ことでした。
私が「インド音楽の論理性」の話しを何度しても、「間違いこそは、森羅万象」という教えを理解してくれないのです。「何故間違ったのか?」に様々な学びの「豊かな源泉」「無尽蔵の金山」のような豊かさがあるのにも拘らず。「間違ったってことは分かってます」「そんなに追求しないで下さい」が本音だろう、という人が多いのです。

入門から一人前になる迄の「修行」は、「間違いが多い程豊か」であり、「正しい一音」に至った時に、その「一音」に深み、豊かさと優しさが溢れます。言い換えれば「正しい一音」とは、「様々な(間違いの)音の代表」の自覚がある「一音」なのです。
更に言えば、「修行とは、間違いをより多く体験出来る唯一のチャンス(時期)である」とさえ言いたい程です。
ところが、「間違い=忘れよう=忘れてくれ=追求なんてしないでくれ」という感覚では、悪く云えば「正しい一音は、様々な間違った音を淘汰(撲滅)させて生き残った一音」ということになります。なので、多くの人が「修行とは正しいことを知る過程である」という感覚なのでしょう。

私は生徒さんそれぞれが、「とっても素敵で面白い間違え方」「戸惑い方」「つっかかり方」「こだわり方」「引きずり方」をするのが、お教えする度に楽しくてなりません。「人間もまた、本来は森羅万象の中に散らばる、様々な姿なのだ」ということを充分に満喫出来ます。

ところが、習う方は「間違い=恥ずかしい」としか感じない。「今の間違いはとてもユニークで興味深い」などと言えば「意地が悪い」と感じてしまう人さえ少なくない。

しかしそうやって得た「正解」というものは、少なくとも私の信じる「Raga音楽」としては、「正しい」とは思えないのです。
さすればそれは、「正しい時間帯」に「間違えずに弾いても」正しいとは言えない場合がある、ということです。

表題に関して数行になってしまいましたが。インドで所謂「禁断のRaga」と呼ばれているものは、「正しく演奏すると身体が燃えてしまうから」という理由の「Raga:Depak(北インド)」と、「教え教わりすると師弟共に縁起が悪いので教え教わりせず、聴いて学ぶ(盗む)べきである」とされる「Raga:Shri(南北)」「Raga:Varali(南インド)」です。

「Dipak」と「Shri」は、恐らく近年後付けした感がありますが、「Varali」は、かなり昔から言われていたようです。

勿論、聴いた感じは不気味でも難解でもないのです。科学音楽としての理論的な根拠ではなく、神話の神々でさえも「トラウマ」を引きずるインドのことですから、人々が原典を忘れてしまった「何か」があって、ただただひたすらに「縁起が悪い」ということだけが残ってしまったのだろうと思われます。
ただ、理論から考えれば「根拠は無い」ということであり、「間違った習慣」ということになります。しかし私は、そのような、昔は日本にも多くあった「こだわり」や「言い伝え」も愛すべき学ぶべき習うべきものと感じます。何故ならば、そもそもそれらは「非合理的」であり「非科学的」であるからです。

何時も最後迄、ご高読ありがとうございます。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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69、Chakraと中医・漢方弁証論治そして科学音楽

Power over nature

アーユルヴェーダとヨガの基本とも言える「Chakra(チャクラ)」の概念と、中医・漢方(中国医学及び日本の漢方医学)における「弁証論治」との間には、多くの共通点と、いくつかの相違点があることは、よく知られ語られています。

共通点の中で最も重要と思われることは、「Holistic(全身医療)」であることでしょう。Holisticである以上、局所・対処療法とは、根本的に考え方が異なる訳です。例えば、「口内炎」に関して、西洋化学対処療法は、「ステロイド剤(消炎)と抗生剤(殺菌)」で対処します。「結膜炎」もしかり。

もちろん、西洋医学のお医者さんでも、近年驚く程意識を変えられた方は少なくないはずです。口内炎にVitamin療法は、昔から市販薬にありますね。

それでも、発熱や下痢に対しても、「何処かに犯人が居るはずだ」と、抗生剤とステロイド剤、という感覚の時代は大分長かったですし、今でもそれが基本というお医者さんも少なくない。そして、実際、「効いた!」と事無きを得たような「結果論/現象論」を満足させる一時的な現象も現れますから、それで良いと思う人も少なくないはず。もちろん私もずっとそうでした。そして、また悪くなればお医者に行けば良いと。

しかしHolisticから見れば、「また悪くなる」のは当然。「根本原因」を殆ど考えていないからに他なりません。

アーユルヴェーダと中医・漢方弁証論治との間で、若干とらえ方が異なるように思えるのが、アーユルヴェーダが、「体質」の個体差によって、治療法(対処法と根治法)を考えるのに対し、中医・漢方弁証論治では、あまり「個体差」を考えないようにも(一見)思えます。しかし、中医・漢方弁証論治の「証」を、アーユルヴェーダの「体質=状態」と同じ感覚でとらえれば、さほど異なってはいないとも考えられます。

つまり「健康な状態」というものを、「正常な状態」とするならば、それは普遍的であるだろう、と考えれば、「体質/個体差」は、普遍的な状態から、幾分何かに偏った状態であるという理解もあろうということです。

しかし、ここに重要な問題があるように思います。そもそも「健康な状態」というものが、実はあまりはっきりとは概念化されていない、ということです。本来生き物には「バランス調整=恒常性」が備わっていますから、「自然治癒」が可能な訳です。「なら医者は要らない」という話になってしまいますが、人間は、何千年何百年の間に、自らを虐め抜く様々な愚行を重ねて来たのでしょう。その結果、何が「健康な状態」か分からないほど、「健康な状態」が害されているのかも知れません。

もうひとつの重要な課題が、この科学音楽の話の前半で何度も述べて来ました、「意識で実感出来ること(実感)」と「意識で実感出来ないこと(非実感)」の二つの「道」が存在するということです。

そして、この二つは、かなり深く関わっているのでしょう。その結果「プラセボ効果」のようなことも起きてくるわけです。

逆に、今ここに、古代アーユルヴェーダの音楽療法師が、タイムトラベルして来たとして、私たちが「楽しい、心地よい、癒される」と喜んで聴いている音楽の何かをして「とんでもない!心と体に悪いから直ぐにやめろ!」とおっしゃるかも知れません。

人間に限らず生き物には、まだまだ解明されていない秘められた力があるのでしょう。そして、おそらく「毒に慣れる」という能力も想到なものに違いありませんん。古代の人が聴いたら絶えられない音や音楽でも、慣れてしまえば平気ということです。

賛否両論あるかも知れませんが、コロンブスたちがカリブ海に乗り込んだ後、西洋人には平気になっていた細菌やウィルスで、先住民族が壊滅状態になったという話もあります。 何百年もすれば、花粉も全く平気という新人類ばかりになるかも知れません。実際その考え方の治療法も始まっていますね。

いずれにしても、世の中の流れは「局所・対処療法」から「Holistic/全身医療」に向かっているに違いありません。そして、それは必然的に「予防医療」な訳です。

しかし、体に関しては目覚ましい理解の向上・進歩が見られるのに、同じように体に入ってくる、「音、言葉、色、造形」と、それによる「心への影響」に関しては、どうして相変わらず無頓着なのでしょうか?

「有害なもの・毒」を拒否するばかりで、「甘いものはOK」では、「無頓着」とは逆ですが、「甘い薬、甘い栄養素」ばかり摂取していることになりますから、どっちもどっちでは?と思います。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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68、視覚・神経・感覚・知性のRaga

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視覚に関わるRaga、及び神経系統や感覚、知覚、五感、さらにはそれらの力の余裕や、バランスの良さによって得られる知性や精神力の向上、成熟に関わるRagaは、精神系やリラクゼーション、及び情感、愛情などに関わるRagaほど多くはありません。

アーユルヴェーダでも、西洋ハーブでも、中医・漢方生薬でも、やはり「視覚・視神経」に関わるものは、消化器や循環器に関わるものと比べて、それほど多くないと思います。

そもそも経口で服用して、「目に効く」というのも不思議な感じがします。西洋化学製剤による局所対処療法の感覚に慣れ親しんだ私たちにとって、「目の異常は、目薬」的なものが染み付いているからでしょう。

経口服用であるにもかかわらず、目の異変に効果・効能があるということは、成分が消化吸収されて血液と共に運ばれる中で、視神経や目の辺りで、独特な効能を示すということなのでしょう。それと同時に、目に異変をもたらす根本的低層的な元凶の抑制や緩和も行っているに違いありません。まさにこれこそ「非局所的・非対処療法的」と言うべきものでしょう。

実際、ブルーベリー系の果実に多く含まれるアントシアニンなどは、西洋科学のエビデンスも得られている様です。しかし、やはりそれ以外の間接的に効果する多くの成分による未解明の要素もまだまだ多いのではないでしょうか。

などなどと、理解したとしても、流石に「音が効く」となると、少し隔たりを感じるに違い在りません。

そもそも、私たちの祖先が、生薬やハーブを発見したきっかけの多くは、野生の生き物たちが、その天性の叡智によって体の異変を治すための植物を知っていたからだと言われます。

健胃・整腸効果が説かれる「熊笹」などは、その典型ですが、「熊は冬眠前に栄養補給で多く摂る説」から、「冬眠後の消化器の復旧の為に摂る説」もあれば、「そもそも葉の縁の変色を言った”隈笹”であり、熊とは無関係説」さえあり、やはりエビデンスが無いことで、批判的な医療関係者さんが多い「生薬」の代表でしょう。しかし、熊が「隈笹」に限らず、冬眠開けに笹を食べる習慣を見た昔の人の伝承は各地にあり、同じ様な話は、インド、シルクロード、アメリカや南米の先住民族に多くあり、西洋ハーブの中でもかなりの割合が、先住民の伝承によるもので、その発端は野生動物の習慣から学んだとされます。

同じ様に、西洋科学論理性のエビデンスを充分に得られていないかも知れない、針・灸・指圧などは、私たちが実感してその効果をしることが出来ます。我が家の保護猫たちも、その状態によっては、指圧やマッサージの方が、顎や頬をさすられるより嬉しそうな時が多くあります。

しかし、それでもやはり「音が効く」ということに関して、野生動物から学んだとは到底言えない訳ですから、心と体の中でも、最も実感が得にくく、その仕組みが理解しずらい「視神経」に対しての「音楽療法」は、最も把握しづらいのも事実かも知れません。逆に言えば、「最もプラセボに影響されにくい」とも言えましょうが。

しかし、「視神経・視覚・眼」は、非常にデリケートなバランスで保たれていることは、誰もが実感していることでしょう。例えば「目の疲れから肩が凝る」を筆頭に、充血したり、眼圧が違和感を超えたり、めまいや焦点が惚けたりの経験は少なくないはずです。が、多くの場合、程なく解決してしまったりするものですから、酷使していてもあまり気を使わないことも多いのではないでしょうか。

また、別な観点で述べますと、実際の目の酷使や疲労に加えて、気分的・心因的な要素も大きいということも考慮すべきでしょう。

かつての私は、目のことに関して、今の数百倍神経質に考えていました。少しの異変でも大きな病院に行って数時間掛けて検査をして「異常が発見出来ない」と言われたこともありました。少しでも度が合わなくなれば作り替える上に、金属アレルギーもあって、直接触れない部分でも痒くなったりで、日に何個かを掛け替えているほどでした。

ところが保護猫の世話の費用で一杯一杯になって以後は、ピントが合わずとも気にしていられなくなり、古いPCが不調な時に成れないWindowsを見て、最初は「駄目だ!絶えられない」と思ったドギツイ光線にも、いつの間にか慣れてしまっています。そんなことよりも病気の猫の容態の方が重要に思ったからでした。

と、楽観的に考えていて、取り返しのつかない重大な異変の場合もあるでしょうけれど。おそらく、視神経や目の違和感や異常の大半は、心因性なのではないか、とも学んだ訳です。

つまり、アーユルヴェーダやヨガの科学が説いているように、視神経は、その近隣の第6のChakra:Ajna/Agnyaと関わり、そnChakraは、そもそもは、外からも中からも視覚的には見えない「第三の目」なのですから、「見えにくい」とか「焦点が合わない」という自覚症状が訴える次元を超越している訳です。

また、それゆえに「視神経意外も含む、神経系」や「五感、知覚」にも大きく関わるとともに、「直感、第六感、勘」や「叡智、知恵、知性」とも大いに関わってくる訳です。

私ごとが続いて恐縮ですが、猫本意の価値観になって以後すっかり忘れてしまった「ものの見え方による苛々」を、今にして思うに、現実的なこと、物理的なことに対する、不満を抱き易く、過敏で神経質な精神性であったと痛感する訳です。

このようなことも含めて考えるに、Raga療法であっても、単なる精神安定の域を超えた何らかの効能があるものであれば、その効果もあり得るだろうと言えるのではないでしょうか。

そもそも「第三の目」の存在こそは、現代人の私たちが忘れている「非現実的、非現象的、非物理的、非物質的」なものを見る力の象徴である訳ですから、それを思い出させ、その眠れる力を呼び起こす作用があることも、その作用が効果することも、大いにあり得ることではないでしょうか。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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67、呼吸器・意識のRaga:

Meditation power

呼吸器の働きを助けるRagaは、意思、知識から創造性、判断力にまで至る精神力をも高めると言われます。それは言うまでもなく、第5のChakra:Vishuddhaの働きと符合するものです。

厳密には、この呼吸器には「肺」がもちろん含まれるという説と、別系統であるという説があるようです。確かに中医・漢方弁証論治でも「肺」は「大腸」などと関わり、下焦(横隔膜より下)の健康・変調と関わりがあるとしています。もちろん「肺」は酸素を摂り込む重要な臓器ですが、それ以前に、「気管・気管支」「喉」そして「鼻腔・口腔」の健康が大前提であることも言うまでもないことです。

もっとも、この「口腔、鼻腔、気管」は、腸内環境とも密接に繋がっていて、「粘膜・粘液」そして「細菌叢」の共通性も最近ではだいぶ語られるようになってきました。

しかし、他の多くの臓器が「自覚できる意思」によってその動きを制御出来ないのに対し、「口腔から食道」及び「鼻腔から肺」は、言う迄もなく「租借・嚥下」「呼吸」という意思で動きを早めたり、止めたりすることが出来るという点において、実に特殊な「臓器・機構」ということが出来ます。

もちろん、喜怒哀楽の外的要因によって、呼吸も早まったり、過呼吸症状なども現れますが、それも言わば「心因性」なのですから、「呼吸器と精神」は、かように密接な関係であるということは疑いのないことです。

トルコ系遊牧民族は、古代インドに迫るアニミズム文化の水準が高かったと思われます。しかし、古代インドでは、それをVedaやTantraの科学にまで高める土壌がありましたが、シルクロードにはそれは見当たりません。そんなトルコ系遊牧民族が音楽を盛り上げるために言う掛け声に、「長生きしろ!」があります。もちろん「いいぞ!もっとやれ!」の意味です。が、言葉としての「長生き」は、とりもなおさず「長い息」なので、掛け声を受けた歌い手は、驚異的なノンブレスで超絶的なコブシを着けて歌い上げます。同じ、文化を継承していて、もしかしたら血もかなり引いているかも知れない日本の「ことば」においては「長い生き」と「長い息」そして「長い行き」は、おなじ「ことば」と考えることも出来ます。

このように古来から東洋医学や民間医療の感覚では、「呼吸器の健康」は、「精神(心)の健康」と切っても切れない関係にあると、説いている訳です。

第5ChakraとそのRagaが司るとされる「意志、知識、創造性、判断力」のそれぞれの関係にも深い理解が求められます。ここで言う「意思」とは、外的要因に反応しているだけのものではなく「志」に近いものであるはずです。したがって「知識」も、「情報を豊富に集める」ということではなく、「整理整頓」と「理解」そして何よりも「解釈」が大切な訳です。いわゆる「見識」というものです。

それゆえに「独創的な創造力」が生まれ出ることが出来、挫折や失敗を含むその積み重ねによる「自信=誇り(プライド、自尊ではなく)」の裏付けによって、ブレない「意思、志」が「判断力」の正体となる訳です。

その一方で、呼吸器を活性化させたり、丈夫にしたり、正常な働きに戻す効果があるとされるRaga、及び、知識や創造性、独創性、を高める効果があるとされるRagaなどには、「第5Chakra:Vishuddha」と直接的には関わりがないものもあります。

逆に、「第5Chakra:Vishuddha」と直接的に関わるRagaの中には、呼吸器や聡明さに関わらず、頭痛や麻痺の緩和に効果があるとされるRagaも少なくありません。

また、本来はもっぱら他の効果・効能のRagaであったり、他のChakraと関係が深いRagaであるにもかかわらず、或るMudraを伴うことで、むしろ強力な「呼吸器疾患改善」の力を見せるRagaもあります。

おそらく、これらの矛盾や限定から外れる働きも、やはり「呼吸」が意思によって、速めたり、遅めたり、止めたりが出来るということや、怒鳴ったり大声を出して自らで痛めたり、ぶつくさ言ってはっきり言わない、とか、悪口を言うなどなどの意思・意識の変容に大きく振り回されることから生じる「多様性」ではないかと考えられます。

つまり、「Raga-Chikitsa(ラーガ治療」の立場からすると、「呼吸器の健康維持」は、それ自体(鼻腔、口腔、気管、気管支、肺」への働きかけ、と効果の他に、「精神面の是正から呼吸器官へ働きかける」ものもあれば、もっぱら「精神面の是正」という目的に限定して、二次的に呼吸器を改善する、などのタイミング、時差、段階が異なる効果や能力があるのだろう、ということです。

しかし、これらのRagaは、単に「リラクゼーション/精神安定」のRagaとは、働きが異なります。

例えば、強烈に「被害者意識」が強い人が興奮していて、リラクゼーションの効果があるRagaによって落ち着いたとしても、その精神性や意識は変わりません。逆に、「甘やかされる」「肯定される」ことによって、その精神性は、頑強になることもあるかも知れないのです。が、むしろ「精神性」の方面に強いRagaによっては、その意識を根底から改める効果や、それに気づく効果を与えるかも知れないということです。

しかし、「人間の意識」これさえかわればかなりの大きな変化が期待できるのですが、数多の臓器や機能、システムの中で、最もやっかりで手こずるのがこれですから、Raga治療にしても、YogaにしてもAyuruvedaにしても、その効果を発揮するには、この「壁」をどう乗り越えるか?が問題なのかも知れません。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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66、循環器・愛情のRaga

old sitar on red background - ancient indian instrument

循環器と愛情、情感の「恒常性」に働きかけるRagaは、そのほぼ半数が「第4のChakra:Anahata」と深い関わりを持っています。そのほかにも、流石に「情感」がテーマですから、Anahata-Chakraに限らず、「情感に働きかけるRaga」は豊富にあります。

しかし、「循環器に関わるRaga」ともなると、これも流石に何でもかんでもというわけにはいきませんし、血圧に直接的に影響を与えるRagaなどは、安直に奏でたり聴いたりは怖いと考えるのが妥当にも思います。

ただ、何回か申し上げましたように、音楽は、複数の生薬の混合方剤のようなものですし、化学製剤のような「ある特定の成分を抽出したもの」ではないので、「効き目は穏やか」である代わりに、一気に血圧に影響を与えることはないはずです。

しかし、私自身の経験談で恐縮ですが、インド音楽を聴き始めた中学二年生の頃、新しく手に入れた貴重なレコードに針を落とし、程なく心臓がドキドキし、苦しくなったことがあります。心拍数が上がり、過呼吸気味になったのでしょう。思春期ということもありましょう。その後、怖くてその曲は聴かなかったのですが、十年程して聴いてみれば、何のこともない、何の変調も来しませんでした。

その頃やっとRagaの理論が頭に入って理解出来たことによれば、そのRagaが元々持っている性質に加え、その演奏者が非常に巧みに「ド」を迂回して「じらして」演奏していたのでした。しかも竹の横笛ですから、弦楽器よりも強烈に胸に響いたのでしょう。

なので、「危なくない」とは実体験からしてもお約束は出来ないわけです。

ただ、どんな薬でもそうですが、変調を感じたら早めにストップすれば良いはずです。当時の私は「恐いもの見たさ」感覚で、むしろのめり込んで聴いてしまったのでしょう。ある種の「プラセボ」「自己暗示」も加わったかも知れません。

実際のAnahata-Chakraに関わるRagaは、このChakraと関わる音が「Madhyam(マディヤム/ファ)」であることから、極めて柔らかな印象を与えるRagaが多いのです。また、血圧降下作用が説かれている他のRagaも、ほとんどが同様に柔らかく、穏やかな印象を与えるものです。

逆に、低血圧に効果があるとされるRagaも少ないですが存在します。不思議なことに、この低血圧向けのRagaは、あるMudraを行って聴くと、逆に降圧効果に転じます。もちろん、これも「健康で正常な状態」に正すと言う意味ですから、低血圧の人が間違って行って、更に酷くなるということは、(絶対無い、とは言わずとも) 通常ないと思われます。

しかし、いずれにしても「血圧」を心配すること自体で血圧が変化してしまうという本末転倒な問題もあります。

また、血圧を外因で調整するばかりでは、「対処療法」と変わりません。もちろん、Raga音楽療法の場合は、交感神経の高ぶりを抑えるという全身的なものではありますが、やはり、Anahata-Chakraを活性化させるとともに、「血管を丈夫に」「血管の汚れをDeTox」「心臓を丈夫に」「血流を改善」「血液をサラサラに」などの努力も怠らないことも大切なのは言うまでもありません。

7音のうち、Anahata-Chakraと関わる音「Madhyam/ファ」にもやはり「高いファ」と「低いファ」があります。ひとつ上の「Pancham/ソ」には#♭を付けてはならないので、ソ♭があり得ず、ファが#となりますので、Madhyamの場合、♮と#の二種ということになります。

そして、これは「陰陽説」に順等に、低い方「ファ♮」が、左と中央のAnahata-Chakraに関わり、高い方「ファ#」が、右のAnahata-Chakraに関わります。

なので、単純に考えると、「ファ#」のRagaは、交感神経を高め、低血圧に良い、「ファ♮」のRagaは、交感神経の高ぶりを抑え高血圧に良い、と思いたいところですが、実際のRagaはもっと複雑です。

「ファ#」を用いるRagaで高血圧や頭痛にさえ効くと言われるRagaもあれば、「ファ♮」なのに、低血圧に効くと言われるRagaもあります。

やはり、5音〜7音全体と、Ragaが定める音の動きによって、その効果が決まってくるという、深い世界なのです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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65、消化器・安心・理性のRaga:

Female relaxing at sunrise, performing tadasana - mountain pose by the sea at sunrise

消化器・安心・理性に関わる諸問題を、根本的なところで解決する効果があるとされるRagaは、「第3のChakra:Manipura/Nabi」に関わるRagaです。

昔から、胃腸が弱い人は、「根気が無い、我慢、辛抱が苦手」と言われていました。それは、下痢や軟便気味の場合にも、便秘の場合にも共通して言われます。もちろん感染症のDeToxとしての下痢は異なりますが、下痢・軟便性も便秘性も実は同じ元凶の異なる方向の表出であるという考え方もあります。

そもそも、生き物の「健康・正常な状態」を保つため、生き物が自らの体の中に備えている「恒常性」では、言わば「出るものは叩き、引き込む、沈むものは引っぱり上げる作用」ですが、逆に言えば、そうやってバランスを取ったものでも、またバランスが狂うということは、「心や体、臓器、細胞、様々な脈絡、気、ナーディ」は、常にどちらかに偏りたがる傾向があるということです。

このことをして、アーユルヴェーダでは「体質」という概念を重視しているのです。つまり、左右に傾きの無い道路であるにもかかわらず、ハンドルから手を話すと左右のどちらかに偏ってしまう車のようなものです。アーユルヴェーダが説く「体質」には、左右の他に、「スピードが勝手に上がる、下がる」なども加わるわけです。

このように、自然の摂理はある意味で、非常に単純明快な基本構造を持っています。そうは言っても、「便秘解消の為に辛抱強くなろう」という単純なものでもないのがミソです。

つまり、何らかの「心因性の作用」が、慢性化して、「体質」を作り出している部分も大きいと思われ、その場合、その「心因性の要素」を取り除き「体質」を見出すべき場合と、そうしたくても出来ない場合も考えられます。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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64、生殖器・情緒のRaga:

In Meditation mit Chakren ber dem Wasser

生殖器・情緒に関わるRagaは、生殖器にあるとされる「第2のChakra:Svadhisthana」に関わるRagaと、幾つかの特別な精力に関わるRagaです。

Svadhisthana-Chakraは、生殖器、膀胱に関わり、情緒、欲、性を司るとされます。

やはりこれも「恒常性の二元性、相反する作用のバランス」で考える必要があり、基本は「健康で正常なニュートラルな状態に戻し保つ」である訳ですから、「精力の衰え」には、促進・向上ですが、逆に「過多・旺盛」の場合は、鎮静させるわけです。

また、様々欲が情緒不安定を招いている際にもこのChakraの問題を考えるべきであると説いています。

しかし、現代人の多くは、「欲の認識」に関してかなり鈍っていると思われます。何故ならば、数十年前に真っ当とされた人生観や生活観と比べれば、「欲深い」とか「欲求不満」というものに対する羞恥心がかなり衰えていると思われるからです。また、商売のみならず、社会も、「消費者の欲求を満たすこと」ばかりに邁進して来ました。当然のごとく、それが当たり前となれば、人間誰しも「欲を表現しても恥ずかしくないのだ」「遠慮なく欲を満たすことをしても良いのだ」と思ってしまう訳です。

不思議なもので、一昔前までのことかも知れませんが、子供たちは、皆「辛抱、我慢、道理」というものを教え込まれしつけられたものです。

例えば「ご飯要らない!おやつが良い!」「今ねむくない遊んでいたい」といっても「駄目!」といわれたはずです。それによって、栄養を偏りなく摂取し、睡眠の規則性で自律神経も保たれていた訳です。

ところが、大人になると、その摂理に反するばかり。そして、最近では、自分がそうしてきているからと、「子供に厳しく言えない」という親が増え、極端(でもないのか?)な例では「駄目!と言うのは可愛そう」「好きにさせて上げたい」とおっしゃる親も少なくないようです。

法の規制さえなければ、「欲しがっているんだから」と、麻薬・覚せい剤さえ自由に与えそうな話です。酒や煙草などは、「見つからなければ良い」という親御さんさえ何人か見たことがあります。

これらを「極端な例だ」「特殊な人間だ」と考えたいのも人間のありがちな心理ですが、実のところ、「苦いものより甘いもの」「難しいことより簡単なこと」を選択する風潮やクセには、かなり染まっているのではないでしょうか?

だとすれば、「難易の選択肢」があったとしたら、「恒常性の二元性、バランス」の摂理から言えば、二回に一回は「苦いもの、難しいこと」を選択しないと「心の健康」は保てない理屈になるわけです。

が、それを実践している人に出会うことはあまりありません。

むしろ「何言ってんだ! 日常有害物質や嫌な人間、嫌な仕事のストレスにさらされているんだ」とおっしゃり、「だから、せめて自分の自由選択では甘い、優しい、易しいを選択しても問題ないどころかそれでバランスが取れるのだ!」とおっしゃったり、「これ以上、さらに苦い、難しいを選択したらストレス過剰でバランスどころじゃない」とおっしゃいます。

一見理に叶っているように聞こえる理屈ですが、どうでしょうか。

「恒常性のための相反する作用」は、私たちの心と体の中に存在するものです。その健康維持のためには、自主的に、自ら喜んでバランス良く摂取せねばなりません。 それに対して、おっしゃる「外部からのストレスや有害物質」は、言わば「邪気、外邪」な訳ですから、それまでも「甘んじて受け止めよ」とまでは申しませんが、「邪気、外邪」から心、体を守るためにも、日常、酸いも甘いも、喜んでバランス良く摂取しなくてはならないはずです。

このような話をご理解頂けるのであるならば、Svadhisthana-Chakraが司る「上長と欲」というものは、まず、「健康でバランス良い心と体」の「情緒」であり「欲」であるということに立ち返る努力をせねばならないことがお分かり頂けると思います。

どんな生き物でも、自然の摂理の範囲の中で、「睡眠欲、食欲、排泄欲、性欲」が存在する訳ですが、それに「不安、被害者意識、比較意識、自意識」や、それが元凶の「ストレス」が「情緒不安定」「欲求不満」が加算されてしまっていたならば、正常な機能に繋がらないのです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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