81、Ganeshが祖の太鼓:Mridang

この連載のVol.23で、「世界初の太鼓奏者は、ガネーシャ神で、その太鼓はムリダング」と御紹介しました。「ムリダング」は「ムリドゥ(土)+アング(胴)」の文字通り、当初は素焼きで円筒形の胴を作り山羊皮を水牛の皮の締め皮で強く張りました。加えて、次回ご紹介する「古典音楽太鼓:タブラ」同様の鼓面に張られた重り「スャヒ(字義は墨)」がムリダングの大きな特徴です。
「スャヒ」が何時頃発明されたかの確かな情報はありませんが、仏教が伝わったインドシナの古典音楽太鼓にも、模倣してほぼ黒い円を描いただけの太鼓が基本的に存在することから考えて、仏教時代以前には存在していたと思われます。

同様に、確かないきさつが分からないのは、1980年頃からジャズ(ロック)のドラムのヘッドにも黒いシート(パッド)が貼られるようになったことです。もちろん全てをインド太鼓に結びつける必要はありませんが、ヒントにはなったかも知れません。
インドシナの太鼓とジャズドラムの「黒い丸」の効果は、「散乱する余計な倍音を消去し、音に締まりを与える」ということに尽きるようです。

それに対し、「スャヒ」は、遥かに大きな効果が複数あります。
まず、「余韻が十倍近く伸びる」ことです。それによって、やたらに音数を増やすことなく叩くことでも、充分に重厚で荘厳な不雰囲気を醸し出すことが出来ます。瞑想ファンにもお馴染みのチベッタン・ベル(ハンド・シンバルや鉦)や日本のお寺の鐘(鉦)もやはり余韻が命です。
次に「音量が数倍大きくなる」ことです。恐らく太鼓の鼓面本来の重さの十倍以上になることで、単純計算で直径が同じく十倍以上の太鼓の音量が出る理屈です。
そして「豊な倍音が得られる」ということです。この倍音は、ジャズドラムやインドシナ古典太鼓が「割愛を求めた」拡散・散乱する余計な倍音ではなく、澄んだ音楽的な倍音です。

そして、極めつけが「鼓面の一部を触っても全ての音が消去されない」ということです。
「スャヒ」を塗ることで、鼓面の構造は、「本皮の性質」「スャヒの性質」「両者を合わせた性質」の「三枚の鼓面の性質」を併せ持ったことになります。なので、単純な説明で恐縮ですが、指や手のかかとで鼓面に触れても、普通の太鼓ではミュート(消音)されてしまう振動が、完全には消えないのです。三枚の皮の内、一枚がミュートされても他は響くという理屈です。

この仕組によって、上記の「三つの性質」を複雑に組み合わせることが出来るのです。つまり、上記の三つの性質それぞれの上で、「鼓面全体、鼓面中心部、鼓面の縁」を叩くことで単純計算で、「九種類の音」が出る理屈になります。
実際は「音になっていないもの」と「大して変わらないもの」があるのですが、それでも明らかに異なる基本音が「五種」生まれるのです。そこに「両面太鼓」の場合、左右で高低の音程差をつけますので、これもまた単純計算で25種、実際の実用的な音数は、基本で12種生まれたのです。

この感覚は、世界の他の太鼓には見られません。希に「スティックを鼓面に押し付ける」等の奏法が西洋のマーチングドラム、日本の祭り太鼓、キューバの舞曲の太鼓に見られる程度ですが、インド太鼓は「スャヒ」の御陰で12種もの「音色の違い」を叩き分けることが出来るようになったのです。

その結果、インド太鼓は、世界の他の太鼓と全く異なる方向に進みました。それはある意味「喋る太鼓」という方向性です。「喋る太鼓」=「Talking-Drum」はアフリカでも有名ですが、それは、小脇に挟み、脇で締め紐を絞り上げて音程を替え、その変化が「言葉のようだ」ということと、「そもそもアフリカの全ての太鼓は『モールス信号の役割』を果たした=伝達=言語的」であるという二つの意味合いですが、インド太鼓の「喋る」はその次元とは全くことなります。

12音の基本音は、「インド人の耳にそのように聞こえる」という「擬音語」の名前をもっています。
それは、右手高音鼓面で「ター、ティン、トゥン、テ、ティ」の五種で、左手低音鼓面で「ゲ、カ」の二種で、「似た音」を省いて「左右同時」で五種の計12音です。つまり、「た、てぃ、とぅ、て、てぃ」と「だ、でぃ、どぅ、で、でぃ」「か、き」があるのです。
また基本音の12の他に、「ナ、ガ、キ、ク、ラ、リ」などの比較的頻繁に用いられる「前後関係から生まれる派生音や太鼓記憶言葉の言い替え」を加え、日本語に当てはめると「たちつてと、な、らり、かきくけ」がフォローされているのです。すろと「田中君が泣く泣く来た」位の言葉は喋れてしまうのです。

その結果、リズム表現用語で「タンタ、タンタ、タカタ、タカタ」のようなシンプルなリズムも「ダーナ、ディンナ、タキタ、ティナク」「ゲケテ、ナギナ、タキタ、テテテ」など、無限とは言いませんが、限りがないと思わせるほど「異なるもの」に聴かせることが出来るのです。

ということは、そもそも音楽は、基本「リズムと音程」の「二元論」でしかないのですが、「同じリズムが音程を替えずに様々に変化発展する」ということであり、これは音楽の常識を覆すものということが出来るのです。

素焼き胴の、元祖「ムリダング」は、その後、壊れにくい「木製胴」になりましたが、素焼き胴も、キールターンなどの伴奏用やマニプール州の古典舞踊の太鼓として今日迄生き続けています。

木製胴は樹の幹をくり抜くもので、北インドでは薄めの比較的軽い(それでも10kg弱はありますが)ものですが,南インドでは厚めにくり抜くため、ずっしりと重く、恐らく30kgはありそうです。胡座の片足首に右側を載せ叩き易くするのですが、慣れないと足首が保ちません。この南北の「ムリダング」の重さの違い、皮の厚み(やはり南が厚く、その分余韻が短い)の違いは、南北の太鼓奏法とその役割の違いが現れています。
ちなみに南では言語習慣によって「ムリダンガム」と呼ばれ、北ではイスラム宮廷時代にペルシア語で「聖なる頂」の名を得て「パカワーズ(ジ)」とも呼ばれます。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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80、世界に知られた:Sitar (3)

前回前々回からご紹介している、インド楽器で最も有名であろうシタールですが、そのスタイルは、北インドで用いられるようになった10世紀から18世紀迄の時代と、18世紀に古典音楽でも用いられるようになってから20世紀冒頭迄の時代、そして戦後の大きな三つの時代に、同じ楽器とは思えない程に変貌を遂げて来ました。
一方、シタールより100程前に古典音楽のステイタスを得たサロードは、前述しましたように、ラヴィ・シャンカル氏の師匠が「大型、多弦」にした他は、奏者の好みで「やや小振りでスリム」「やや大型で太い」などの違いがある程度で、創作された18世紀前半から二種類のままで古いスタイルも辛うじて生き残っています。
それら新楽器に対し、古楽器ルードラ・ヴィーナは、近年「大型でゴテゴテ装飾の楽器」が作られましたが、構造的には恐らく10世紀以前、最も古い説では紀元前1500年頃から殆ど変わりません。その代わり、シタールのプロ演奏家が、例えば新宿区程の大きさと人口のインドの都市に100人は下らないだろうところに、ヴィーナの第一線のプロは、全インドで10人居ないかも知れません。更に16世紀から20世紀迄意外に400年も宮廷古典音楽の双璧のひとつだった「ターンセン・ラバーブ」の場合は、今日後述する例外を除いて、専門職は恐らく皆無です。18世紀後半から100年ほどラバービヤが兼業した「スル・シュリンガール」も同様で、「スル・バハール」も正しい演奏スタイルで言うならば同様です。シタールのように弾く人はまだまだ居ますが。
ラバーブに関する例外はパンジャブ州のシク教徒の音楽に於いて、この20年で急速な復古主義・汎パンジャブ主義の古典音楽最高運動が盛んになり、共鳴弦付きの楽器まで考案され、教祖や聖人的な歴史上の指導者の音楽を再現していると主張しています。

これに対してシタールは、波瀾万丈の歴史を物語る程多様であり、その出番もヒッピーの路上演奏は論外としても、海外の様々な音楽のみならず、インド現地でも映画音楽にも頻繁に用いられます。私もかつては「紀文のはんぺんCM」から「シャンプーCM」まで来る仕事は拒まずやっていました。

言わば、ギターというのがそもそもはスペインのと或る地域の民俗楽器だったのが、極めて普遍的な世界の楽器になったことに近いレベルであるとも言えます。
これを自動車に喩えれば、ヴィーナは、王族の御車、ラバーブは、王室警護の装甲車のようなもので、町中で毎日頻繁には見られない車。スル・バハールが四輪駆動で、サロードがスポーツカー、特殊なスル・スィンガール(シュリンガール)」は貴族のスポーツカーで、庶民が持つものでもなく、スーパーやホームセンターの買い物には使いません。それに対し、シタールは、お買い物に便利な軽自動車から、スポーツカータイプ、四輪駆動まで様々。つまり「シタール」は、「自動車」という程大きな「観念」でしかないのです。

もちろん、インドの外から眺めたり、海外で見れば明らかに個性的で存在感豊かな民族楽器ではあるのですが、インドの中に持って行き、音楽史を俯瞰するとそういうことなのです。
それもそもそも「シタール=Sitar」が単に「三弦」という意味合いであったからに他成りません。

以前にお話しましたように、古代には「ヴィーナ」がその感覚で、十数種もありました。「ルードラ・ヴィーナ」は、その中で生き残った存在ですから、歴史を逆戻りすることはなかった訳です。ターンセン・ラバーブもスル・バハール、スル・シュリンガール、サロードも、「構造と奏法」に意匠性が強いので、その名称は固有名詞的でもありブランド的でもあるのです。

それに対し、10世紀から18世紀迄の長きに渡って、シタールは実に様々なものがありました。
ラージプートや西インドの細密画を丹念に年代別に検証してみると、「フレットのない伴走専用のシタール」「フレットが少し在り,主に伴奏だが旋律もしばしば弾いたシタール」「フレットが充分にあるので旋律楽器だが、単に伴奏楽器として構え描かれているものが多いシタール」の最低三種はありました。つまりこの一番目などは、伴奏専用弦楽器「タンブーラ」と大して変わらないのです。

それもその筈、西アジア・中央アジアの「タンブール」がインドにもたらされたものが全ての始まりで、タンブールは、「単弦か複弦の三弦構造の楽器(多いものでは5〜6本張る)」だったのです。従って10世紀の時点の正しい呼称は、全て「タンブール」だったのが、特に「単弦三本」と「複弦が一ヶ所の四本の三弦」を「シタール」としていたのでしょう。恐らく、演奏者と演奏の場所で「格付け」が為されていたのだろうと考えられます。

似た話しが10年以上前のTVCMに見られました。息子さんの音楽に対してあまり理解がなかった父親が音楽留学先へ「ラッパの調子はどうだ?」とメールを送る。息子さんが何となく嬉しいと思いながらも「ラッパじゃねぇえよ」とつぶやくというものです。(実際はサックス)
もちろん「ラッパ」は卑下の意味だけではありませんし、軍隊ラッパなどは他の名称もありません。ですが、通称、俗称には幾分かの卑下も認められ、少なくともその世界の中でのことを理解しているとは言えないものが少なくありません。

つまり、シタールのインドでのスタートは、「粗末な」そして若干「卑しい」楽器からだったのです。そして数百年の間、修行僧、花柳界、やや上格の宮廷宴楽で、歌手が片手間に用いることが主だったのです。
それが18世紀半ばに、やたら派手な超絶技巧の間奏がむしろ評判の歌い手レザ・カーンなどが現れて都市の知識階級の間で大流行し、器楽楽器としての可能性に着目する音楽家が増えたことが古典楽器への昇格のきっかけなのです。

今やほとんど貴重になりましたが、カシミールには、18世紀以前のシタールに「サワリ駒」を付けた過渡期の楽器が生き残っています。同様に、戦火で風前の灯火でしょうし、平和な時期(1978年以前)でも最早貴重になっていましたが、アフガニスタンにも「シタール」があり、その手前パキスタン北部山岳地帯にもありました。何れも共鳴弦がなく、リズム弦は持っていましたが、駒はサワリではありません。アフガニスタンでは共鳴弦があれば、それは「タンブール」か「ヘラート(西部)のドタールもしくはパンジタール」です。
インドにも旋律楽器「タンブール」が伝わった筈ですが、その一種のシンプルな「シタール」ばかりが好まれたと考えられます。ただ、分類上ではタンブールの仲間であることは誰しも分かっていたようで、後の伴奏専用には「ターンブーラー/ターンプーラー」の名が付けられました。末尾の「Ra」は長母音ですから、タンブールの名が転じたものか、何らかの理由で区別したのかも知れません。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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79、世界に知られた:Sitar (2)

1960年代後半、インド現地の音楽家は、大挙して訪れるヒッピーに辟易としていたと述べましたが、その反面、それが無かったらインド古典音楽と楽器の需要は、風前の灯状態にまで衰退していたことも事実です。
ラヴィ・シャンカル氏とジョージ・ハリソンによって、インド古典音楽が世界的に高く評価されたことは、音楽家たちにとっても多くのインド人にとっても大きなステイタスとなりました。それによって町の音楽教室に通うインド人も増え、宮廷音楽終焉以降下り坂のみであった古典音楽も、芸術音楽として生気を取り戻したことは紛れもない事実と評価出来ます。

また逆な話しで、もし1960年代末当時、シタールが戦前の形状のままだったら? もしくはシタールがインドで演奏され始めた16世紀の頃の華奢で小さな楽器だったり、シタールが19世紀に古典音楽の地位を得ず、代わりにヴィーナ(ルードラ・ヴィーナ)や南インドのヴィーナ、及びサロードしか海外に紹介しようがなかったならば。果たしインド音楽は世界的に有名になったであろうか? ひいては、インド知識人層がステイタスを感じ、自国文化の再評価を行い、共和国という新しい時代にも伝統を継承する意識があそこ迄育ったであろうか?と考えると、シタールの人気はそのタイミングもその魅力も含め絶好で、だからこそインド古典音楽の取り返しのつかない衰退を大きく救ったと言えるのかも知れません。

1940年代、当時の第一線にあったモダン派の気鋭ラヴィ・シャンカル氏と、シタール最古の二つの流派の後継者で在った保守派の貴重な後継者イリヤス・カーン氏は、異なる主旨で同じようなやや大振りのシタールを当時最高技術を誇ったカルカッタの職人に特注していました。同世代には他にヴィラヤト・カーン氏、ムスタク・アリ・カーン氏が居ましたが、いずれも当時のシンプルなシタールで前者は軽妙な演奏、後者は極めて古典的な演奏で評価されていました。
ラヴィ・シャンカル氏と、イリヤス・カーン氏の大型シタールは、当時のシタールと「スル・バハール」の中間ややシタールよりの楽器で、特徴は低音弦にあります。
それまでのシタールの主弦七本(共鳴弦以外の意味)は、「旋律主弦(1)、低音伴奏弦(2)、中音伴奏弦(2)、高音リズム弦(2)の構成です。二本の低音伴奏弦は、サロード同様アフガン系音楽家がアフガン弦楽器の手法を取り入れたもので「ジョラ(対)」と呼ばれる「複弦」構造でした。
ドレミで言うと(厳密にはこの半音以上上ですが)1弦(低域のファ)、2/3弦(低域のド)、4/5弦(1/2/3弦の上のソ)とリズム弦、が19世紀半ばからの調弦です。

戦後二本の低音伴奏弦(複弦)の内一本を更に低い音に替える演奏者も現れ始めていましたが、ラヴィ・シャンカル氏と、イリヤス・カーン氏は、中音伴奏弦の一本も低音弦に替え、ドゥルパド系器楽の独奏に力を入れるものでした。

戦後の調弦は、1弦(低域のファ)、2弦(低域のド)、3弦(2弦の下の低域のソ)と、4/5弦は同じでリズム弦というもので、ラヴィ・シャンカル氏と、イリヤス・カーン氏の場合は、戦後の調弦の4弦に、3弦の更に下(最低音のド)の重低音を設け、中域伴奏弦は5弦のみとリズム弦というものでした。ちなみに前述のヴィラヤト・カーン氏などは、ジョラの一本を張らず(糸巻は空のまま差してあるだけ)、4/5弦の一方をしばしばミなどにする独自な調弦でした。

イリヤス・カーン氏の場合は、あまりに太さの異なることが原因の低音三本のフレット音痴を解決するため、棹の上の「上駒」をも「サワリ式」に替え、ピッチの改善とサワリ音の一石二鳥を果たすというアイディアでしたが、他流派には広まらず、と言うか彼のドゥルパド奏法は難解なので次第に廃れてしまったので、意外に知られていないかも知れません。
同じ時期、インド有数のデザイナー、ヘーム・ラージという人が、趣味でか?糸巻にも彫刻、表面版の彫刻は超豪華、縁取りも豪華という派手なシタールを考案し、ラヴィ・シャンカル氏と、イリヤス・カーン氏のしタールもほぼそのスタイルです。それが今日高めの値段のシタールの基本となりました。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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78、世界に知られた:Sitar (1)

後に、インド音楽の代名詞のように世界的に有名になるシタールが、北インド古典音楽、即ち当時イスラム宮廷音楽で用いられるようになったのは、サロードの発明と古典音楽界への登官に遅れること100年後の19世紀中頃でした。しかしその100年後にはサロードは愚か、インド三千四千年の歴史ある楽器や音楽がなし得なかった世界制覇を成し遂げるのです。
それはインド音楽史上最高の営業手腕を発揮したラヴィ・シャンカル氏と、彼を師と仰いだビートルズのジョージ・ハリスンの功績に他成りません。
この二人の名コンビの前には、1960年代の中頃のアメリカのジャズ・ギタリストの1〜2名と、イギリスのフォーク&トラッド界で1〜2名がシタールに挑戦していました。日本のフォーク界でも5年程遅れ、やはり1〜2名がチャレンジしていました。英米のシンクロな状況は、アメリカに於ける「ヴェトナム反戦→ヒッピー&フラワー・ムーブメント(詩人ギンズバーグなどがインド文化に傾倒)→マリファナ&インド旅行(バックパッカー)ブーム→野外大ロックフェス(後にジャズフェスも)」の流れの中で、インド旅行でシタールを買って帰る若者が多く居たことに起因します。もちろん、第三世界の民族音楽は、古くはパリ万博(1889年の第三回目)で見聞きした西洋クラッシクの作曲家がインスパイアーされたことをはじめとして、1950年代後半にはアメリカの映画音楽作曲家マーティン・デニーがかなり良い雰囲気で取り上げた御陰で、欧米の人々は耳に慣れ親しんではいました。

当時のベナレス(ヴァーラナースィー)を振り返って何人かのインド人音楽家は、「酷い有り様だった」と語ってくれました。何しろ朝から晩迄ガンジャ(マリファナ)浸けで、屋外では演奏しないシタール、タブラ(太鼓)を路上で演奏し、二個セットのタブラ(&バヤン)を二人でボンゴのようにぶっ叩くはあちこちで日常的。挙げ句には、干瓢が割れたシタールの胴に頭を突っ込んで歩く姿には激怒を通り越して卒倒しそうだった、などなど、思い出しても怒りが込み上げるような有り様だったと言いました。

インド旅行ブームは、日本では5年〜10年遅れて来ますが既にシタールは知られていた上に、「ジョージ・ハリスンは断念したそうだ」の話しも伝わっていましたので買って帰る人は僅かでしたが、そのような人々にせがまれて教え始めたのが私の教室の始まりでした。

実際ジョージ・ハリスンが最初にシタールを起用した「ノルーウェーの森(本当は家具、壁か床材のことらしい/1965年)の段階ではロンドンの骨董屋で買い、独学かインド料理店主にイロハを習った程度ですから、調弦もダルダルでした。ジャズ・ギタリストのガボール・サボもしかり。「ノルウェー」の前年の映画「ヘルプ」では、在英のインド人グループが演奏し映画にも登場していますが、なんと前回ご紹介した「スール・バハール(ベース・シタール)」も用いています。ジャズの世界でもイギリスのジョン・メイヤー&ジョー・ハリオットも、在英インド人音楽家のシタールとタブラを起用しています。

同じ頃イギリスのフォーク&トラッド・グループの「ペンタングル」は結構本格的に使っていました(メンバーではなくスタジオ・ミュージシャンですが)。
そして、1965年以降「猫も杓子も」シタールやインド音楽風、ラーガ風が欧米で大流行し、日本のレコード会社は急遽勉強会を開いて対応に苦慮したとのことです。何しろ「ラーガ・ロック」というジャンル迄生まれました。
なので、「えっ彼までもが?」というミュージシャンも「ラーガ・ロック」を録音しています。個人的にはジェフ・ベック(もちろんギター演奏です)が最も高水準に達していたと思っています。因にジミー・ペイジ(レド・ツェッペリン)が「俺の方がジョージより先にシタールを弾いた」と言ったことは良く語られています。
踊りながら歌うミック・ジャガーに蹴られそう踏まれそうになりながら胡座をかいてシタールを弾いたブライアン・ジョーンズは、それ程本気で取り組みはしなかったようです。亡くなる前はモロッコ音楽にハマっていました。

ところがそのジョージは翌1966年、ヘルプのミュージシャンから吸収したのでしょうか、かなり本格的になった「ラヴユートゥー」を発表し、翌1967年には既にラヴィ・シャンカル氏の弟子になり師のアレンジで「ウィズインユー・ウィザウトユー」を発表します。この頃にはもう自分ではシタールを弾きません。後半のインスト部分は10拍子です。録音メンバーにはシャンカル氏の天才的だったにも拘らず早世した息子も参加しています。
翌1968年のシングル盤B面「ジ・インナーライト」では古典音楽への興味を卒業し西インド民謡のスタイルを起用しています。その後ももちろんシャンカル氏との共演は続き。様々なフュージョン音楽で、今日のインド古典音楽界の巨匠の親たちの若かりし演奏が録音されています。

しかしご存知のように1970年代に入ると、ジミー・ペイジのハードロックによって、欧米ではアコースティック系が全く出番がなくなり、一気に下火。日本でも「めんたいロック」に始まり「日本のロックを世界水準に」の方向性に至って、むしろ和楽器などを起用しましたがパッとせず。フォークブームも到来しましたが、インドの香りは一切ありませんでした。個人的には「反戦」と結びついたイメージが安田講堂、あさま山荘事件を境に、反戦・ヒッピー系サブカル全体を「忘れよう」のスウィッチが入ったのではないか、と思っています。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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77、幻の理想楽器:Sur-Shringar

16世紀の楽聖であり、デリー・ムガール王朝の宮廷楽師長であったターン・センが中央アジア・パミール高原のルバーブに「サワリ音の出る駒」を取り付けた楽器ラバーブ(ターンセン・ラバーブ)は、その重低音の深みでドゥパド音楽を余すことなく伝えました。そして、その系譜はターンセンの次男、ビラス・カーンの子孫に継がれ、「ラバービヤ・ガラナ(派/家)」と呼ばれました。
その系譜でターンセンから数えて9代目(何度か兄弟で順に家元を継いだこともあるので世代的には5〜6代とも)に、この連載のVol.49でご紹介しましたバーサット・カーンが居て、その三人の息子、アリ・ムハンマド・カーン、ムハンマド・アリ・カーン、リヤーサット・アリ・カーンは、何れも卓越したラバービヤーであったと共に、前回ご紹介しましたヴィーンカル(ヴィーナ奏者)のウムラオ・カーンと同様に多くの他流名演奏家にも教えを付け「セニ派の奥義」を授けました。
Vol.74と75でご紹介した「サロード」最古の流派ラクナウ・シャージャハーンプール派(2派連合/以下LS派)の家元とその兄弟たちは、バーサット・カーンの三人の息子、及びバーサット・カーンの長兄ピャール・カーン、中兄:ザッファル・カーンに代々師事していました。
LS派は、既にアフガン・ルバーブの指板を金属板に替え、羊腸弦を金属弦に替え、やや伸ばした爪によるスライド奏法で装飾豊かな音楽を演奏していました。

ターンセンラバーブは、その重厚さは素晴らしいのですが大きな欠点もあります。例えば、声楽家(ドゥルパディヤー)が「ドーーーレミレミレミファソラミレミレミファソーーーラソー」と「アーの発音(アカルよ呼ぶ)」で一息で歌ったとして。残念ながらラバーブの羊腸弦は、「ドーーーレミレミレミファソラミ……」位で音が消えてしまいます。もちろん弓奏楽器サーランギーでしたら弓の往復で、限りなく音を絶やさずに出せますが、「格」の問題があってドルパッドの伴奏は愚か、模倣も許されませんでした。
それを尻目に、LS派のサロードは、金属弦の余韻の長さに、アフガン・ルバーブが既に持っていた共鳴弦の助けも得て「ドーーーレミレミレミファソラミレミレミファソー」程迄楽に弾いてみせたのです。きっと、弟子の新楽器の方が「色々出来るのは羨ましい悔しい」とピャール・カーンもムハマッド・カーン兄弟も思ったのでしょう。

新楽器が登場した当時のレッスン風景はいささか不思議です。ジョージ・ハリソンがプロデユースしたラヴィ・シャンカル氏の自伝映画でもシャンカル氏が師匠:アラウッディン・カーンに稽古を付けてもらっている写真が出ましたが、師匠がサロードで教え、弟子がシタールで学ぶのです。音域どころか基音の調律が本来異なるのですから、かなり工夫をせねばなりません。
それに見られるように、セニ派本家の師匠はラバーブやヴィーナで教え、弟子はもちろんそれらを基礎からみっちり学びながら、プロデビューした後のレッスンは、世間に問うている専門楽器でレッスンを受けるのです。ラバービヤーにシタールで学んだ者もあれば、ヴィーンカルにサロードで学んだ者もあります。ステージでは決して競演、合奏はしないのですから、不思議な光景です。もちろん師匠が男声で、弟子が女声といった調の違いを乗り越えるレッスンは、太古から日常的だったのでしょう。互いに2〜3度程度ずつ譲り合ってやりくりする訳です。

上記しましたような「羨ましい、悔しい」というより、「そのサロードのスライドは良いね!」「何とか成らんもんかなぁ」とピャール・カーン兄弟と甥っ子兄弟とLS派の弟子達で、試作を重ねて誕生したのが、「新しくて古い楽器」である「スール・シュリンガール(Sur-Shringar)」でした。
まずセニ・ラバーブの胴体を干瓢にしました。サロードは堅木のくり抜きですから前回ご紹介した「スール・バハール」の胴体です。シタールも干瓢ですが、シタールの場合は干瓢を縦に切り小型の胴ですが、スール・バハールは横に切り大型です。そして、表面は、ラバーブ、サロードの山羊皮を改めスール・バハールやシタール同様に板張りに替えました。もちろん、「サワリ駒」です。そして、くり抜いた太い棹はラバーブのままですが、指板は金属板で金属弦です。構え方は胸の前にほぼ垂直のラバーブ式。サロードは床に水平のギター風です。

この楽器によって、ラバービヤーは、長い余韻と華麗な装飾によって19世紀末から20世紀初頭に一世を風靡したと言われます。ムハマド・アリ・カーンは、サロードをスール・シュリンガールのように縦に構えている写真もあります。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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76、新旧の狭間の弦楽器:Sur-Bahar

18世紀前半にローヒルカンドのアフガン楽士が新楽器サロードを発明して「ドゥルパド系器楽」を演奏し始めてから100年遅れてシタールが宮廷古典音楽の楽壇に登ります。それから程なくして、ターンセンの娘と婿の系譜「セニ・ヴィーンカル(ヴィーナ奏者派」の19世紀前半の家元にウムラオ・カーンという巨匠が現れました。

その頃のヴィーンカルは、本家、分家共、長男はヴィーナ専門かヴーナを主にシタールを弾き、次男以降もそれに倣うか、シタールを専門にするなど、新旧弦楽器が入り乱れていました。
ヴィーナとドゥルパドの伝統は最重要課題であり最優先されるべきでしたが、シタールの人気は19世前半に急激に沸騰していました。何しろヴィーナの半分以下の苦労で弾けてしまうので、超絶技巧などで名を売る若手が続出し、宮廷楽師長の家系もうかうかしては居られない状況であったのです。

流派の概念とその仕組みは、戦後迄の日本の伝統邦楽の流派と非常に似通っています。中国古典音楽やシルクロード、ペルシア、アラビヤ、トルコ古典音楽、そして南インド古典音楽でも「流派」の概念が殆ど存在せず、日本の邦楽で言うところの師弟関係の「筋」しか存在しないのです。大まかな地域をまとめて「流派」的な感覚で言われることがありますが、複数の「筋」を地域と芸風で束ねたに過ぎず、その中には「家元」も「継承制度」も存在しません。
このことを考えると、世界的にみて「流派の概念」が発達したのは北インドと日本だけである、とも言えるのです。

その「流派」では、まず「血縁の家元の継承」が最重要課題です。男子に恵まれなかった場合は、婿養子を取ります。やむを得ない場合は、養子となり、血縁は途絶えることはありますが「家系」は存続するのです。これも日本の場合と全く同じです。そもそも「流派」はペルシャ語の「家」を意味する「ガラナ(Gharana)」なのです。
そして、このガラナ(流派)を支えるのが弟子の勤めで、ある意味苛酷な側面があります。

演奏家は、大概10代後半で頭角を現し楽壇で話題になって、20代で第一線の末席に加わり、30代で弟子を取り始め、準家元となり、先代が没して家元を継ぎます。
しかし、10代20代は修行と演奏で極めて多忙でありながらも収入が少なく、修行のための費用は家元(親)ふが出してくれますが、嫁さんを貰い子供を儲け、その分まで家元(親)に甘えるのは心苦しいので、当時のインド人の平均より遥かに婚期が遅れ、子宝に恵まれるのも遅くなります。恐らく平均で30代後半でしょうか。
なので、息子が跡継ぎとして通用する頃には、50代後半から60代になってしまい、当時のインド人の平均寿命を越えてしまうのです。もちろんその問題を考慮して本家の支援で早めに子を儲けることもありますが。

最悪の場合、息子が第一線で活躍する前に家元が没してしまうと、その流派は途絶えてしまいます。有名無実の若い家元では弟子が集まらないからです。そこで、(前)家元の男兄弟と弟子の存在が重要になるのです。もちろん家元に男兄弟が居なければ、弟子が流派を背負う可能性が増すのです。

30代で弟子を取り始め、優秀な弟子に恵まれれば、その弟子は10年で一人前になります。実子跡継より10年早く「控えの後継者」が出来る訳です。そこで家元が没してしまった場合は、それこそどれほど歳が違おうとも、家元の遺児の娘と婚姻しその弟子が流派を継ぐ訳です。
なので私の師匠の家系にも12歳13歳で嫁いだという女性はざらに居ます。

逆に家元が長生きして実子が早く一人前になれば、家元の男兄弟や弟子は一生家元に成るチャンスはありません。故に、何らかのトラブルがあって、分派として飛び出すこともありますが、大概は家族同様に、その弟子の家族、親戚迄も流派が養う保証が確立されてこのシステムが長く維持されて来たのです。

19世紀の前半のウムラオ・カーンは、そのようなインド古典音楽界に於いて、際めて恵まれた人であったと言えます。
と言うのも、息子二人も後に音楽史に名高い名演奏家になりましたし、その上に甲乙付け難い「一番弟子」が二人も得られてしまったのです。
一方の弟子の名はクトゥブッラー・カーンで、他方はグーラム・ムハンマド・カーンです。息子二人と一番弟子の二人は当然「ルードラ・ヴィーナ」の名手に育ちました。
ウムラオ・カーンのような由緒或る流派の家元は、少年時代から内弟子的に育てる弟子の他に、数レッスン受けて「セニ派(ターンセン派)」のお墨付きを得ようとする様々な流派の家元クラスの名人が教えを乞いに来ます。
ウムラオ・カーンの孫のワズィール・カーンは北インド・イスラム宮廷古典音楽が1945年の共和国独立によって幕を閉じる末期の最高峰の巨匠ですが、彼の幼少期に手ほどきをしたのもウムラオ・カーンでした。ワズィール・カーンは、サロードの項で述べましたラヴィ・シャンカル氏の師匠の師匠でもあります。

このようなあまりにも名誉ある家柄で、あまりにも充実した状況であったことは、逆に師ウムラオ・カーンにとってみても、二人の一番弟子にとってみても、別な厳しさが意味されました。それは、「如何に個性を際立たせるか?」というテーマでした。基本保守派中の保守派ですから、奇抜なことで名を売る訳には行きません。

そこで師:ウムラオ・カーンが考え出したのが、当時のシタールより小振りで高音に調弦し、速い軽快な演奏で魅了するシタールと、逆に当時のシタールの1.5倍程大きく、速い動きは柄に合いませんが完璧なドゥルパド音楽を表現出来る楽器です。前者は「スンダリ(Sundari/美しい)」と名付けられ、後者は「スール・バハール(Sur-Bahar/春の音)」と名付けられ、それぞれ二人の一番弟子クトゥブッラー・カーンとグーラム・ムハンマド・カーンの人柄、持ち味に合わせた創作であったと言われています。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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75、中世宮廷音楽の貴公子:Sarod (2)

18世紀に相次いで登場した、イスラム宮廷の新音楽は、当連載のVol.46でご紹介致しましたデリー宮廷を追われたターンセンの或る子孫が花柳界の歌姫用に開発したのが原点である「カヤール様式」の声楽と、その器楽版の「ガット」に代表されます。
ガットの意味は「定められた」なのですが、たったの数小節ずつの主題、副主題、第三主題、第四主題があるだけなのに、ドゥルパド系器楽の「アーラープ(ターラが無いので太鼓が着かない)」と比較して「定められた」と呼ばれたもので、実際は90%以上は即興です。

そして、その「カヤール」の伴奏楽器が後に詳しご紹介致します弓奏楽器「サーランギー」で、これが独奏するようになったのは1945年前後です。そして、「ガット」の為の独奏楽器が、世界的に有名な「シタール」と、その好敵手「サロード」です。シタールが古典器楽のステイタスを得るのは19世紀中頃ですが、サロードは、18世紀中頃です。が、シタールより難解な為と、ラヴィ・シャンカル氏のような才能と派手さと営業力を持った革新的な天才が現れなかった為、世界的にはマイナーかも知れません。シャンカル氏の義弟、アリ・アクバル・カーン氏も卓越した演奏家ですが、比較すれば派手さと営業力はあまりない実直な演奏家でした。二人は1971年8月のジョージ・ハリソン主催のバングラデシ難民救済コンサートで二重奏を披露しています。この30年インドでも海外でも結構有名なサロード奏者に、アムジャッド・アリ・カーンという人は結構派手で営業手腕もありますが、元々保守派なので、ラヴィ・シャンカル氏とは比較になりません。

ここで特筆せねばならないことが、アムジャッド・アリ・カーン氏が「保守派ということです。保守派という言葉は、改革派が現れて初めて言われるものですが、サロードの改革派とは、サロードを大きく改革した、ラヴィ・シャンカル氏の師匠でありアリ・アクバル・カーン氏の実父である、アラウッディン・カーン氏の一門を言います。
元々アラウッディン・カーン氏は、デリー宮廷のドゥルパッド流派から派生したランプールの分家サロード奏者の弟子でしたが、後にターン・センの末裔に学び、独立後に、サロードを改造し派手な演奏スタイルで人気を博しました。

改造は、「主弦4/伴奏弦2(此処迄が棹の先端にあります)/リズム弦2/共鳴弦11」の伝統サロードを、「主弦4/伴奏弦4/(此処迄が棹の先端にあります)/リズム弦2/共鳴弦15」に変え、全体を一回り近く大きくしたことです。見た目的に前者は棹の先端の左右に6本の糸巻が刺さり、後者は8本刺さります。前者は今日の巨匠で9代目ですが、後者は3代目と大きな隔たりがあるので、前者を「保守派」、後者を「革新派/改革派」と呼ぶ訳なのです。現地では単刀直入に「トラッド派/モダン派」と言われますが、当然後者に属する演奏家は、目前でそんな風に言われれば不愉快そうにしたり反論し、時には激怒します。

また、「ランプールの分家」と前述したことについてですが、元々サロードは、デリー王朝衰退期に北インド古典音楽の最大の中心地となったラクナウで生まれました。アワド王朝の都で、「セポイの乱発祥の地」で世界史に登場します。なのでサロードは、現巨匠の9代前のラクナウ派が正派・本家で、最も多くの作品を継承しています。
一方ラクナウ派と同時期に、ローヒルカンドの中心部シャー・ジャハーン・プールで生まれたサロード派がありました。両派は、6代目と7代目にラクナウ派と婚姻したため、両派は正式には「ラクナウ・シャージャハーンプール派(以下LS派)」と呼ばれます。前述のアムジャッド氏は、一時期「我がグワリオール派こそサロードの発明者」と言ったのでラクナウが騒然としたことがありますが、グワリオール派はLS派の4代目辺りの分派です。この辺りはインドでも1990年代にかなり詳しい文献が出て、発明者論争も現在では下火になっていますが、日本ではまだ知らない人も多いかも知れません。
そして最も肝腎な話しが、前述した「ローヒルカンド音楽家」です。一言で言うと「アフガン音楽家」です。アフガン人(当初はローヒラー族という呼称しかないらしい)は、10世紀のイスラム軍侵入から「ローヒルカンド音楽」が確立する17世紀頃迄の700年、ずっとムガール王朝の優秀な傭兵でした。17世紀に遂に「ローヒルカンド(デリーとラクナウの中間点)」に独立自治地域を確立するのですが、更に細かな部族自治政治を取った為に、藩王国的な歴史は語られていません。強いて言えばデリー王朝とアワド王朝(北はネパールのグルカ/グルングの領土に及ぶ)の領土内に跨がる部族集団ということでしょうか。これは非常に画期的で賢い方策で、近隣と領土紛争が起きない。戦況に応じてどちらにも着ける訳です。当初大名としての領土を持たず、地侍頭集として結束し、近隣の大名配下を渡り歩いた、2016年NHKドラマで改めて有名になった戦国時代の「真田一門」のような感じです。
そして、このアフガン傭兵集団には、アフガン音楽家、軍馬飼育人そして料理人、が居て、私たちが今日インド料理の代表メニューと思う「タンドリー・チキン」も「ナン」も「シシカバブ」も皆彼らが持ち込んだものです。(タンドールという壷料理そのものがアフガン系)。
音楽は、アフガン・ルバーブというパミール・ルバーブとは前代に別れた別系統のルバーブで主に七拍子の軍楽や叙事詩、叙情詩を演奏していました。彼らは10世紀にインド入りした後も、18世紀頃迄は頻繁に故郷を行き来していましたから、私の師匠(LS派の家元)の家には100年前のルバーブがありました。19世紀に新たに故郷から持って来たものです。

つまりサロードは、ルバーブの羊腸弦を金属弦に替え、それに合わせて指板を金属板に替えた楽器で、スライド奏法によってインド古典音楽の技法の全てをあますことなく表現出来るようにした楽器なのです。
このサロードの発明によって、彼ら(ローヒルカンディー/ローヒラー族)は、「ドゥルパド系器楽」を演奏し、ラクナウやシャージャハーンプールの宮廷に登官するようになったのです。そして、6代目の頃に、この連載のVol.49でご紹介したターンセンの末裔バーサット・カーン兄弟の直弟子となって更に重厚なドゥルパド
系音楽を演奏するようになったのです。
私の師匠故:ウマール・カーン氏の父サカワット・カーンは、アラウッディン・カーン氏、アムジャッド氏の父ハフィーズ・カーン氏(アムジャッド氏は父親がかなり高齢の時の子なので孫に近い若さです)と並び、「サロード三羽烏」と称賛されていましたが、唯一ムリダングを伴奏に使うことが許されたほどの保守派正派でした。つまりLS派は、9代の歴史の中で、6代目迄はドゥルパド系器楽をサロードで演奏すると共に、ローヒルカンド音楽をラバーブで演奏し、7代目からはドゥルパド系器楽とガットを演奏して来たのです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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74、中世宮廷音楽の貴公子:Sarod (1)


中世宮廷音楽の貴公子「サロード(Sarod)」を語る為には、まず当時のインド古典音楽の状況をご説明せねば成りません。

古代インド科学音楽は、中世イスラム宮廷の時代に北インド宮廷古典音楽と、南インド寺院古典音楽とに大まかに別れます。
後者は、僅かに残るヒンドゥー勢力が保護した寺院を渡り歩き、イギリスの植民地政策(分割統治)と、イスラム勢力の強大化を抑える動きに助けられたいきさつがあります。そこにヒンドゥー教復興運動が加わって、かつてより宗教色の濃い音楽が出来上がりました。
結果としてブラフマン教=ヴェーダ科学の音楽の系譜としては、一見より相応しいように思えますが、即興演奏が二次的な価値に下げられたことは大きな痛手でした。

逆に北インド古典音楽の場合、イスラム宮廷の長い時代の中で、ラーガ(旋法)の理論が大分失われ、分からなくなった古代ラーガも数多くありますが、即興演奏は依然中心的でした。その結果、「科学性」は今日迄保たれていると言えます。

このことを分かり易く「生薬」に喩えると(実際のアーユルヴェーダ生薬の話しではなく、音楽を生薬に喩えた話しですので誤解無きようお願い致します)
北インド古典音楽の場合。配合が分からなくなった合剤/方剤(複数の生薬のブレンド)もありますが、他の方剤は古代の配合と処方のままで、しかも用いる生薬は「生の植物」で、患者の病状や質に合わせて微妙な調節が可能である。しかし、数百年イスラム教徒の医師が中心となって伝承されて来た。ということです。
他方の南インド古典音楽の場合、同じように分からなくなった方剤が或る中で、古文書を手がかりに「使う生薬名」から再現した。しかし、その配合比は分からない。また、様々な制約の中で生き延びて来た為に「乾燥生薬を煎じて使う」ことが主流になり、病態や質/証に合わせることは殆どしない。したとしても配合比は厳密には考慮しない。が、ほぼ一貫してヒンドゥー教徒の医師(薬剤師)によって継承されて来た。ということです。
従って、南インド古典音楽の方が「古い、伝統的である、ヒンドゥー教音楽として正統的である」というのは、遠からずとも当たらずで、北インド古典音楽の或る部分はより古く、より科学的でもあります。

これは、古代インド科学音楽にとっては、或る意味不幸なことで、宗教や政治のために引き裂かれてしまったようなところがあります。なので、私はインド音楽歴45年のこの10年は、南インド古典音楽のラーガ(旋法)をも多く取り入れながら北インド古典音楽の即興法で演奏した故ラヴィ・シャンカル氏と同様の手法を取って来ました。それは南のヴィーナよりシタールの方が手慣れていることもありますが、即興にも適しているからでもあります。南のヴィーナは、弦の張り方がシタールやギターと逆で、1弦を弾いている時には低い弦が左手の中に隠れます。また南インドの装飾音は「単音が揺れる」ことが主なので、北インドのような数音に装飾を掛けることに不向きな構造になっています。(とりあえず簡潔に言えばの話しですが)この点も心苦しいところですが、南のヴィーナを改造するのも身勝手で恐れ多い気がします。

しかし、17世紀から18世紀の100年、インドの南北を問わず新しい手法や音楽、楽器が次々に創作されました。驚かされるのが、幾つかはその後滅び、ごく近年、この10年20年で大きく解釈が歪められたところも確かにありますが、まだ記録や資料を辿れる近年迄、かなり正確に継承されて来たことです。つまり「思いつき、奇を衒った、目立ちたいだけ」のものではそうはならなかった筈なので、かなり本質的なものを理解し、変えては成らない部分を守りつつ、斬新さを加えて来たのであろうと思われます。
それらが中世後期の「新楽器とその音楽」である訳です。

旧音楽は、イコール「ドゥルパド声楽様式」ということが出来ます。もちろんその派生やその前駆様式もかつては歌われていました。そして器楽は、声楽の合間に演奏されていたのですが、特別な呼称は存在しません。とは言え「ドゥルパド器楽」というのも語弊がありますので「ドゥルパド系器楽」ということになります。
旧楽器ももちろん1945年のイギリス植民地からの独立迄は(宮廷が存在したので)継承されていました。それは前述の弦楽器:ヴィーナ(ルードラ・ヴィーナ)と両面太鼓:ムリダング。そして、後発ですがドゥルパド系器楽を演奏するターンセン・ラバーブ、スール・シュリンンガール、スール・バハールなどです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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73、楽聖ターンセンの輸入楽器:Rabab

前回も少し話題に登り、この連載のVol.44でも逸話をご紹介しました、16世紀デリー宮廷でアクバル大帝の音楽教師も勤めた宮廷楽師長のミヤン・ターンセンは、前述しましたように「ルードラ・ヴィーナ」の名手と「古典声楽:ドゥルパド」の名歌手でした。(ドゥルパドの中興の祖とも言えます)
逸話でも紹介しましたように、ターンセンは、イスラム支配時代にもヒンドゥー文化を固持した西北インド・ラージプートのヒンドゥー藩王国の楽士に学び、中部インド・ヒンドゥー藩王国グワリオールの宮廷でプロデビューしました。イスラムへの改宗はその時と言われています。
彼はイスラム教正派スンニーの信徒でありながら、ヒンドゥー聖人とスーフィー聖人の師匠を持ち、長女の名はサラスワティーとしました。その娘の婿がグワリオールから引き抜かれた「ルードラ・ヴィーナ」の名手で、以後娘と婿で、「ルードラ・ヴィーナ」の系譜を継ぎ「(ターン・)セニ・ヴィーンカル派」と言われます。
一方ターンセンは、300年前のデリー宮廷の楽聖アミール・フスローに倣ったのか? 同様に中央アジアの音楽にも関心があったようで、パミール高原の大型三味線「ルバーブ(Rubab)」にヴィーナの「サワリ駒(ビヨーンという独特な響きになる)」を取り付けた新楽器を考案します。恐らく単にインド発音で「ラバーブ(Rabab)」と呼ばれていたのでしょうが、後に「ターンセン・ラバーブ」とも呼ばれます。この系譜は次男(長男より腕が立ったらしい)ビラス・カーンらに受け継がれ、以後「(ターン・)セニ・ラバービヤ派」と呼ばれます。

そして、「ターンセン・ラバーブ」が、「古典弦楽器のステイタス」を得られたのは、宮廷楽士長が創作したから以上に「ヴィーナのサワリ(日本語)駒」という「ステイタス」を得たからに他成りません。シタールがそれを得るのにはその後200年近くかかります。

「サワリ」は日本の三味線・琵琶に言われる言葉で、意図的に弦に棹や柱(フレット)や駒の部分が触れるように作られており、それによって単純な振動が複雑化し、倍音を豊富に含み、その助けも得て自ら共鳴しながら余韻を伸ばす仕組みです。偶然にも似た言葉でインドでは「ジャワリ」と言います。声楽用伴奏弦楽器の「タンプーラ」には、弦とサワリ駒の間に更に細い糸を挟み余韻を倍増させていますが、旋律楽器の場合、フレットを抑える場所によって弦長も角度も変わるので、その都度糸の位置を変える訳には行かないので使いません。タンプーラの糸は「ズィーヴァン(命_)」と言われますから、古典音楽が如何に「余韻」を求めていたかが分かります。

そして、この「余韻」こそが「古典音楽のステイタス」である訳です。
その理由は、インド音楽は伸ばされた余韻や音の中で装飾音が着けられることが圧倒的な特徴であるからです。そうでない西アジア以西、中国以東の楽器の場合、むしろ装飾音は弦を弾くのとほぼ同時に掛けられます。西洋音楽用語で「前打音」と言われる所以です。ところがインド音楽の場合、伸ばした音(声)の後に「アーーー〜〜〜〜」のように着けられるので強いて言えば「後付装飾音」と全く逆の発想になります。そしてその技法こそが古代音楽の継承者であることの証であり、西域渡来の大道芸や花柳界音楽との格の違いの見せ所だった分けです。

なので、「ターンセン・ラバーブ」は、ヴィーナの駒を付けたことで古典音楽楽器となった訳なのです。ただ、尤も「ターンセン・ラバーブ」の弦は、太い羊腸弦なので、「サワリ効果」は、金属弦の数割程度です。それでもサワリが無い場合よりは五倍以上余韻が長いのです。金属弦に変えなかったのは、恐らくターンセンが、シルクロード・パミール高原のオリジナル楽器の羊腸弦の「重低音」に大きな閃きを感じたからでしょう。巻弦という弦の回りに極細のコイルを巻いて太さの割に重低音が出るように工夫するのは早くても19世紀末頃でしょうから、金属弦で1mm以上もあると音程も音色も定まらず、何より抑えるのが一苦労。楽器演奏に関しては苦労を惜しまないインド人も流石にお手上げだったのでしょう。羊腸弦は金属弦より音量は半減しますが、同じ太さなら5度からオクターブ程も低く調弦出来ます。
これによって、ターンセンは、ドゥルパド系器楽を男声の音域で弾くことに成功し、より重厚なものにした訳です。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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72、弦楽器の王:Vina

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インド古代音楽に於ける弦楽器の総称である「ヴィーナ(Vina)」の語源は、私にも確証がありません。文献にはそもそも語源の記述は見当たりませんが、仏典に見られる「Venu」が語源かも知れません。仏典は中期ブラフマン教の伝統を、継承した部分と反発した部分に読み取ることが出来ます。しかしその当時の「Venu」は、「笛」だったようで、「僧侶階級は笛を吹かない」という話しと矛盾するようですが、カーストが確定するのは更に二千年以上後の「マヌ法典」の頃ですから、早くても仏教時代の後半に「笛は吹かない」となったとしても、仏教時代の前半やその前の時代には吹かれていたのかも知れません。同様にその時代からあると思われる「シャンカ(Shanka)/法螺貝」もまた「笛」の一種ですし「動物質」ですが、古代からずっと神聖な神器でした。なので「Venu語源説(と言いつつ私の他には言ってないようですが)」もあるかも知れません。

「VIna」の語になった頃も、特定の楽器を指すのではなく、「弦楽器の総称」でしたから、様々な種類がありました。当時は仏教とブラフマン・ヒンドゥー教が混在していた時代ですが、双方の神話に現れる様々な動物・鳥類を象ったヴィーナが作られていました。サラスワティー女神のお供「孔雀」を象った撥弦または弓奏楽器の「Mayuri-VIna」、ヴィシュヌ神の化身にも在る「亀」の形の「Kachapi-Vina」、仏教では「龍」と同義でもある「鰐」の形の「Makal-Vina」といった動物の他、楽聖であり聖仙であるナーラダが創作した「Narada-VIna」、「百弦」を意味する竪琴の「Shata-Tantri-VIna」20弦の「Dwa-dash-Tantri-Vina」、「天上の楽士」の「KInnari-Vina」などなどです。それらの幾つかは、インド各地の仏教遺跡のレリーフによってその形を知ることが出来ます。

「Kachapi}(亀)-Vina」と「Makal(鰐)-Vina」は仏教と共にインドシナ及びインドネシアにも伝わり、今日でもタイやカンボジアで「Krachappi/Chapay(亀)」「Chakhe(鰐)」の名でその形の片鱗が残る弦楽器が古典音楽で重用されています。インドネシアの島々では「Hasappe」「Hasapi」などと呼ばれ現存しますが、形もかなり様々で「亀」の面影もなく、現地の演奏家もその言われを全く知らないようです。

インドで仏教が衰退し始めた頃、ヒンドゥー教はブラフマン教をも圧倒し、サラスワティー女神やルードラ神などのブラフマンの神々もその神々の系譜に組み込みます。ルードラ神は、初期のプラーナ文献で既にシヴァの別名とされています。かなり貴重になりましたが、まだ北インドに現存する「ルードラ・ヴィーナ」は、大きな二つの干瓢の胴に竹筒のネックを渡し弦を張った楽器で、ターン・センもこの楽器の名手でした。と言うよりイスラム宮廷音楽になっても古代寺院僧侶音楽がその主流だったので当然なのですが。

このヴィーナのそもそものルーツは「サラスワティー女神が竹筒弦楽器を、その豊かな二つの乳房に充てて共鳴させた」という伝承にあるもので、仏教レリーフでも確認出来ます。故に、そもそもは「サラスワティー・ヴィーナだったのです。恐らく女性用の小型がそれで、男性用(身体の大きさだけの問題でなく、声楽の合間に演奏したため、男声女声のKeyに合わせた)の大型が「ルードラ・ヴィーナ」だった訳です。

 中世以降から今日南インド古典音楽で用いられる「サラスワティー・ヴィーナ」は、その形状(樹をくり抜いた大きな柄杓型)を見ても分かるように、西アジア弦楽器「タンブーラ」(南インドでも或る種のヒンドゥー修行僧が好んで弾いた)にヴィーナの駒を取り付けたものですが、イギリス植民地時代のヒンドゥー文化復興運動の頃に「サラスワティー・ヴィーナ」の名前を起用しました。なので、結構ややっこしい話しになっているのです。今日の南の「サラスワティー・ヴィーナ」は、副共鳴体付きのシタールのように上部の共鳴体は小さく、元祖の「二つの乳房」とは大違いの不揃いです。

胸に充てて共鳴させるヴィーナは、仏教時代には托鉢の修行僧や盲僧の楽器となり男が弾きましたので半球状の干瓢のひとつの胴体を持ち、胸で共鳴(もしくは胸板で反響)させます。この楽器の子孫は、今日でも僅かにタイ、カンボジアに残っています。カンボジアの知人に作らせた時「ポルポト時代に殺されもう最後の一人の職人が作った」と言っていましたから、最早絶滅したかも知れません。偶然にもその奏法や形はブラジル格闘技カポエラに用いる楽弓「ビリンバウ」に極似します。

一方大乗仏教の経路でチベットや中国に伝わったヴィーナは、定説では「琵琶」の語源であると言われますが、遠からずとも当たらずと思います。古代中国の「琵琶」の発音がどうであったか?も課題ですが、それ以前に、中国に伝わる前に、当時最高水準の仏教文化を誇り、素晴らしい楽器演奏図だけが壁画に残る「亀爾(キジル)」王国に於ける呼称を検証すべきと思われます。恐らく定説通り「ヴィーナ」の音訳が「琵琶」なのでしょうが、「インドから中国」ではないのです。

また「ヴィーナ」の語意は、弦楽器の総称であり、希に管楽器にも「ムカ・ヴィーナ(口ヴィーナ)」などと用いますので、「琵琶」と音訳するより「琴」と意訳した方がしっくりいくとも考えられ、上記の「動物ヴィーナ」は、それぞれ「亀琴」「鰐琴」「孔雀琴」と表せます。中国では「琴」は、柱のない古い「おこと」の一種ですが、「弦楽器の総称」でもあり、日本でも有名な「二胡」は、「胡琴」の一種です。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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