行いの意味

ありとあらゆるものが溢れ混在するインドの世界は、必然的にこの心をその中心へと定めてくれるように感じます。美しいものもそうでないものも、容赦なく飛び込んでくる日々の生活が、その瞬間に見るべくものを提示してくれているからかもしれません。
そんなインドにも、物質主義の波はそれまで以上にしっかりと押し寄せ、訪れる度に生活は便利になり、物事は容易く進むようになりました。しかし、富は一方に溢れ、貧はそのままに存在しています。俗の物が蔓延りながら、聖は変わらずに在り続け、物質と精神の境目がくっきりと目に入りこんできます。しかし、そんな世界の中に不思議なほどに測られた均衡を感じることがあります。
この極端な世界の中で過ごす日々が自分自身の心の波をくっきりと映し出す時、その波を宥めるように中心の存在を想いながら過ごす瞬間が、驚くほどに寂静を与えてくれるのです。静けさの中でその揺るがない安定を得た時、起こりうるあらゆる物事が気づきを得るための糧となることを実感し、日々の生活を丁寧に過ごさせてくれるのだと強く思います。クリシュナ神は述べています。
誰であっても 信愛によって
一枚の葉 一輪の花 一つの果物 あるいは水を捧げるならば
清い心によって為されたその供物を わたしは喜んで受けよう
何をしても 何を食べても 何を供え 何を施しても 
またどのような苦行を行っても
アルジュナよ 全てはわたしへの捧げものとするのだ
(バガヴァッド・ギーター9章26−27節)
この究極の世界の中での暮らしは、ただ、自分とこの世界全体である至上者との繋がりを深く認識させていきます。その気づきの中では、どんな行いも雑にすることはできません。「あらゆる行いをヨーガとしなさい」そう述べた師の言葉のように、一つ一つの行いが自分と至上者を繋ぐ大切な術となることを、ここでは片時も忘れることができないのです。
生きることは真実を理解するための行いに他ならないのだとこの世界での暮らしが教えてくれるように思います。ここでまたその行いに集中する日々を過ごすことができることに、ただただ感謝をし、日々の行いを努めています。
(文章:ひるま)

永遠の至福

再びインドに足を踏み入れたのは、ディーワーリーのまさにその夜でした。光に包まれた美しい夜は、祝祭に沸く人々の喧騒によってさらに熱をおび、半年ぶりに戻った私をいつもにも増して温かく迎え入れてくれたように感じています。
喜びに溢れた世界は、そこにいるだけで大きな至福を感じます。訪れる度に急速に成長を遂げているこの世界も、根本にあるものはやはり変わることがありません。家族が集い祝福するその夜は、どんなものにも代えがたい温かさを与えてくれたように思います。
これから始まるここでの生活は、ヨーガの行いに集中した日々となり、すべての行いは、自分と崇高な存在とを繋ぐためのものとなります。ヨーガという一瞬一瞬に存在するあらゆるものに究極的に気づく行いを努める中で、その世界は実に美しいものとなり変わります。
この世の全てである崇高な存在をただ思う時、その瞬間は身震いをするほどに愛おしく美しく感じるのです。至福そのものである時を超えたその存在を、ただ想いながら一瞬一瞬を過ごすことができれば、それは永遠に至福の中に留まれることを意味するのだと強く実感します。
大切なものを温めるように一瞬一瞬を生きながら見える世界は、温めた以上の美しさと幸せを見せてくれるようです。それは、その行いの中で得る気づきが究極の至福であるからに違いありません。生きるという行いを通じて、人はただそこに存在する最も大切なものに気づかねばならないのだと、そしてそれが唯一、私たちが達成すべくものなのだと実感し、その行いに専念すべく今またこの地にいるのだと理解しています。
ただ生きることに集中するこの世界は、在るべく場所へと私を引き込み、まだまだこの心を魅了し続けています。光に包まれながら、人々の優しさと温かさを感じながら始まったこの滞在で何を見るのか、今ここにいられることがただ幸せで、これからの日々が楽しみでなりません。
(文章:ひるま)

光の中へ

ディーワーリーの祝祭の真っただ中にあるインドに、私もまた戻ろうとしています。今、この大きな歓喜の瞬間にインドに戻ることに、その喜びも格別なもののように感じ、幸せもひと際深く伝わってくるように実感しています。スピリチュアリティ溢れる生活の中で、古い経典を読みふけり、ヨーガに励み、自分自身を見つめ、そしてただ祈る日々をこれから迎えることに、何よりもまず心から感謝をせずにはいられません。
真実であり、神であり、至福であり、その大いなるものとの合一であるヨーガを実践することは、精神性の道を歩む人々にとって生きる上で常に成されるべくものです。師も言いました。「あらゆる行いをヨーガとしなさい。」その言葉を胸に刻み、自分自身の存在が真実であり、神であり、喜びであることを片時も忘れることなく生きることが、時に苦痛を感じることがあっても、そして何気なく過ぎていく単調な日々すらも、美しく尊いものとしていていくことを深く学んでいます。
インドはもちろん、ここ日本においても、何処に居ても、ヨーガを中心に据えた生活ができる日々にありながら、ふと、ただその行いを神のみに捧げ、自分の中の確かな存在を確認したくなる時があります。
わたしを想い わたしを信じ愛しなさい
わたしを礼拝し わたしに従順でありなさい
そうすれば必ず わたしのところに辿りつく
約束する なぜならわたしは 君を愛しているから
(バガヴァッド・ギーター18章65節)
いつだったか心を奪われたクリシュナ神のその言葉を繰り返し、そしてその奥深くへと、絶対に変わることがない大いなる愛の中に浸る瞬間にただ在りたいと思うのです。インドのあの神聖さに包まれた空間が、その言葉の意味をいっそう際立て、大きな喜びと愛を示してくれることを感じるからこそ、またこうしてその中へと向かおうとしているのだと感じています。
インドと日本を往復しながら、その相反するものの間で気づかされることは少なくありません。ただシンプルに生きる中で、得るものもあれば捨てねばならないものもあるこの動き続ける生活が、絶対に変わることがない大切なものをしっかりと見せてくれるからだと感じます。
光に導かれるように、今こうしてインドに向かうこと、生きることの美しさを見せられているような気がしてなりません。そして、このディーワーリーが世界中の人々を光で包み込むことを心からお祈りしております。
(文章:ひるま)

光の源

一年中でもっとも光に包まれる時を迎えようとしているインドは、この光の祭典であるディーワーリーの祝福のために、今、多くの喜びに満ちている頃かもしれません。新年にも重なるこの日を盛大に迎え入れようと、嬉しそうに準備に追われる大人たち、そしてはしゃぎ回る子どもたちの姿が、微笑ましいほどに毎日を彩っていたことを思い出します。
このディーワーリーを迎えようとする喜びに満ちた日々の中で、生きることがこんなにも美しく喜ばしいものであると感じたことはないと、そうある師に伝えると、師はふと言いました。「光があるところに暗闇は存在できないことを覚えておきなさい。」と。
何気ないその言葉も、インドの神聖な雰囲気の中で悠々と述べる師の深いまなざしが共にあると、心の奥までぐっと深く入り込んできたことを覚えています。自分という存在なしに光そのものを認識することができないように、完全な暗闇は、自身の存在がある限り存在しないものであることを、師のその言葉を通じて実感したように思います。
ディーワーリーは新月の夜、そのもっとも暗い夜に祝福されるものです。暗闇を照らす人々の喜びは何よりも輝くものであり、沸き起こる至福と、そして光の在る真の場所を見つけたのも、その時だったように思います。
そして、闇の中で光を見つめる人々にとってこの日に欠かすことができないものが、悪に対する善の勝利への祝福と歓喜です。ただ目の前に存在する瞬間を、心を突き動かされるほどに祝い喜ぶ人々の姿を目にし、それがどんなものにも変えられない勝利となり得ることを思い知らされたのは言うまでもありません。この世界を明るく照らすものは、人々の内に存在する一つ一つの灯りであること、それに一人一人が気づいていられれば、この世に暗闇は存在できないと、あの時師は述べたのだと理解しています。
光の在る所、喜びの在る所、善の在る所、真実の在る所、その、自分自身の在るべく場所を、この時に改めて気づいていたいと強く願っています。そしてこの新しい年が、多くの喜びに満ちた光溢れるものとなりますよう、心からお祈りしております。
(文章:ひるま)

忘れてはならないもの

秋のナヴァラートリを過ごし、いつも以上に神聖な時の中で神々の存在と共にあった日々が、何気ない日常の瞬間にふと忘れてしまう大切な何かを改めて深く胸に刻んでくれたように感じます。今、その何かを思いながら、不二一元論を提唱したアーディ・シャンカラーチャーリヤの言葉を読み返しています。
「私は忘れていました。
カーシーへの巡礼の道を辿りながら、あなたが至る所に存在していることを。
私は忘れていました。
あなたのことを思いながら、あなたが思考を超越した存在であることを。
私は忘れていました。
あなたに祈りの言葉を捧げながら、あなたが言葉を超越した存在であることを。
お許しください。
どうか、この罪を。」
この人生においての唯一の勝利とは、自分自身の中心である真実、その神の存在と一つとなり常に共に在ることだと、インドの深い精神性に満ちた教えに触れる中で学んだように思います。しかし、インドの叡智が日々の様々な行いを通じ絶えず私たちにその術を伝え続ける中で、行いに翻弄され心に惑わされる私たちは神の存在をしばし忘れ、そこで生じる苦悩と言う心の波を否応なしに経験しなければなりません。
神を求め、時に険しい道を歩み、思いを寄せ、祈りを捧げることがあったとしても、その存在の在るところを一瞬でも見失えば、神聖でいて敬虔なその行いすらも自らを強く結果というものに束縛していきます。神に近づきたく生じる礼拝や献身、祈祷という行いを通じ自分自身が浄化される過程において、どれだけの深い気づきの中にいられるのか、それが何よりも大切なものとなるのだと気づかされます。
神を忘れることが罪であると述べた哲学者は、自身の深い気づきの中で、それ以上の過ちはないものだと感じたのかもしれません。事実、それほどに心が痛む事象はないことを、そして、そこにこの世界のあらゆる苦悩が始まることを、その崇高な言葉が梵我一如の意味を越えて伝えているように思います。
ナヴァラートリを終え、今この瞬間にもまた、全ての人が気づくべく事柄が記されたその言葉が、一人でも多くの人々の胸に響くことをここでただ願っています。
(文章:ひるま)

勝利の日

自身の内に潜む不浄な傾向を清めるためにこの上ない重要な時であるナヴァラートリは、ラーマが魔王ラーヴァナに勝利したように、私たちの内に潜む悪を滅ぼす大切な時として存在します。そして今、最後に迎えようとしている悪に対する善の勝利「ダシャラー」の日を、バガヴァッド・ギーターを通じ人の生に照らし合わせています。
「至上者の非人格的な姿 即ち非顕現の真理に
心をよせる者たちの進歩は甚だ困難である
肉体をもつ者たちにとって
その道は常に険しく様々な困難を伴う」
「だが わたしに熱い信仰をもって
すべての行為をわたしのために行い
常にわたしを想い 念じ
常にわたしを礼拝し 瞑想する者たち」
「常に心をわたしに結びつけている者たちを
プリターの息子よ わたしは速やかに
生死の海から救い出す」
(バガヴァッド・ギーター12章5節〜7節 「神の詩 バガヴァッド・ギーター 訳:田中嫺玉」より)
成功や失敗、称賛や批判という人の心を常に揺らす相反するものの間で生きる私たちは、時に険しい困難に出くわします。インドの深い精神的な教えは、その道中において、中心となる永遠の至福を得られるかどうかが真の生きる目的であることを伝えています。
そしてそれを手にすることができる者というのは、クリシュナ神がギーターを通じ述べるように、どんな時もいつの時も、神を信じることができる者に他ありません。信じる者、ここではそれが勝者となるのです。
怒りや憎しみ、欲望や執着、心がある限り誰しもの内に生じるであろうその敵は、至福そのものである自身の存在を一瞬のうちに見失わせていきます。そんな中で神を見つめ、その存在を確かにすること、心を神に定めるそのシンプルな術によってあらゆる敵は滅んでいくことを、インドの神々と過ごす日々が伝えているように思います。
ナヴァラートリはまさに、その大切な瞬間です。残りわずかになったこの神聖な時、そして最後に迎える盛大な祝福を、皆さまが勝利と共に迎えられることを心よりお祈りしております。
(文章:ひるま)

9日間の夜に

3女神に3日間ずつ捧げられる神聖な期間として訪れるナヴァラートリは、新月の次の日より始まります。陽が短くなり、月さえも失った夜が支配を始める頃、私たちは改めて、この俗世の中で迷い見失いつつある神の存在、その光がしっかりと自身の内に灯っていることに気づかねばなりません。この季節の移り変わりの中で、ナヴァラートリは自分自身を深く見つめ直す探求、ヴィチャーラへと人々の心を向かわせます。
自己の探求と呼ばれるこのアートマ・ヴィチャーラはインドの精神世界において何よりも大切なものとして位置付けられています。インドで数ある祝祭の中でも、このナヴァラートリの期間にとりわけ惹かれるのは、自分自身を最も大切なもののもとへと引き戻す貴重な時のように感じていたからだと思い返します。
ナヴァラートリに際し、この世界の中で自身の存在と共に生きる在り方を、バガヴァッド・ギーターの美しい詩句に重ねています。
知識によって 肉体をまとった魂が 
あらゆる行いから無執着であれば
それは九門の町に 幸せに安住する
行いをすることも させることもなく
(バガヴァッド・ギーター5章13節)
九門の町とは、肉体を意味します。あらゆる敵は、この九門から私たちの身体へと入り込み、人の意識を支配するのだといいます。九門とは2つの目、2つの耳、2つの鼻の穴、口、肛門と生殖孔、この9つの入り口、つまり感覚です。
3女神に捧げられるこの9日間は、断食や祈りなどが欠かすことができません。感覚を統制し、3女神の持つ象徴を見つめるこの時こそが、精神的な歩みを取り直す大切な時であったように思います。
クリシュナ神は述べます。
好きなものにみる喜びの後には 必ず苦しみが生ずる
始まりがあり 終わりのあるこの感覚的な快楽に
賢者は決して近づかず その快楽を喜ばない
(バガヴァッド・ギーター5章22節)
感覚ではない自身の存在の喜びと共にある時、人はその決して変わることのない至福を永遠に味わうことができるのだと、幸せに安住することの意味を気づかされます。私たちが常に気づいているべくその真実を、移り変わる季節が女神たちを通じ教えてくれているように思います。
このナヴァラートリが皆さまにとっても良き日となりますよう心からお祈りしております。
(文章:ひるま)

静寂

ヨーガを通じシンプルな生活を過ごすようになってからの大きな変化と言えば、ささやかでいて控え目な物事に心が惹かれるようになったことだと強く思います。こうした季節の移り変わりの中で、肌に触れる風を感じ、目に映る景色をじっと眺め、自然の中に溢れる小さな音に耳を澄ます時、不思議とこの上ない至福を感じるのです。
ヨーガの行いに集中し、様々な方面からの浄化と純化を繰り返す間、そういった何気ない小さな物事に深く惹かれ魅力を感じるようになったのは、それが、あまりにかすかにしか自身の内に響かないものであるからだと、感じたことがあります。
シンプルな物事と自分自身との間で生じるもの。それは、シンプルな物事と自分自身との間で残るものであるのかもしれません。それが何かと言えば、きっと「存在の喜び」であるのだと今感じています。
さまざまに溢れる物や形、名前というものは人々の意識に強烈に印象を残してゆきます。そしてそれらが思考の中に入り込み様々なうねりを引き起こすこの社会の中で、人は常に、何かに追われるように動き続けねばなりません。
ささやかであったり、小さなものであったり、そういった物事に感覚を預けることは、意識に与える強烈な印象を鎮め、忙しく動いていた思考を落ち着かせていきます。その、自身の内に深い影響を与えない状況の中で生じるもの(残るもの)こそが、自分自身の存在の喜びである「サット・チット・アーナンダ」なのだと、静寂の中で感じるように思います。
永遠に変化することのない喜び、その至福を感じる空間を自分自身の内に与えてくれるささやかでいてとても小さな物事に強く惹かれ心を奪われていく時、そこに形がないように、形容しがたいほどの平安を確かに見つけるのです。ヨーガが静寂や沈黙を重視するのは、その境地へと確実に人々を導くために違いありません。
そして私は今日もただ、この内なる偉大な存在の喜びを見つけに、そっと座り目を閉じる瞬間を心待ちにしています。
(文章:ひるま)

目には見えないもの

「目には見えず、しかし目が見ることを可能にしているもの―それが宇宙原理ブラフマンであり、この世で人々が崇拝しているものではないことを知りなさい。」(ケーナ・ウパニシャッド)
その深い哲学を理解する中で、ある師と弟子の対話を鮮明に思い出します。師が「光」について、弟子に質問を投げかける対話です。
「何の光で、あなたはものを見ますか?」
「日中の太陽、夜のランプです。」
「何の光で、その灯りを見るのですか?」
「目です。」
「何の光で、その目を見るのですか?」
「心です。」
「何の光で、その心を知るのですか?」
「私自身です。」
「あなたがその光なのですね。」
「…はい、私がその光です。」
その対話は、ウパニシャッドが述べる深い哲学を優しく説き明かし、そして胸に突き刺さるほどにはっと気づきを与えたことを思い返します。目には見えないものでありながら、それなしに見ることはできないもの、それは自分自身の他にありません。
何の命令によって、この心は動くのか。何の意志によって、この命は生きるのか。見えるもの、聞こえるもの、発せられる言葉や生み出される思考、そういったあらゆる現象は自分自身の存在をなくして経験することはできません。だからこそ、インドの叡智は伝えています。感覚を制御し現象世界を超えていく時、自分という光、その大いなる存在に気づくのだと。
そして、ヨーガの行いに全てを捧げる時、その意味を痛いほどに実感するのです。自分自身の存在が世界のあらゆる事象の根源であり、すべてを司る神に他ないことを人はこの生で気づかねばならないのだと、そう感じさせられます。その至福はどんなものにも代えがたいものです。
人は望むほどに、神を見ることはできないのかもしれません。なぜなら、自分自身の目が神に他ないからです。神の言葉を聞くことも同じです。発せられる言葉も、その言葉を聞く自らの耳も、神に他ないからです。ただその存在に気づくこと、それが唯一の神を見る術なのだと、そしてその術をインドの叡智が今日も静かに示し続けています。
(文章:ひるま)

真実に出会う時

象の顔に大きなお腹、手には甘いお菓子、その愛らしい姿ゆえ、ガネーシャ神はどんな時も人々を惹きつけてやみません。神聖な存在でありながら、容易く触れることができるような雰囲気をこの象の姿をした神様は醸し出しているように思います。しかしそれは、ガネーシャ神に限ったことではありません。
インドで過ごす日々は、常に神と共にある日々です。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、頭で考えるもの、そのすべてに神聖な存在を感じます。神と言うまるでかけ離れたもののように感じる存在も、インドでは、いつもすぐ隣にいるような温かい感覚に包まれるのです。
色鮮やかに、豪華さも優しさも、時には恐ろしささえもありのままに描かれるインドの神たちは、様々な象徴を表しながら多様に存在しています。それは、私たちの持つありとあらゆる特性を事細やかに示しているかのようであり、神を見つめ瞑想することは、自分自身と向き合う大切な術の一つであるとそう実感していました。
神に心を定めることは、究極の瞑想に変わりありません。さまざまなものを見聞きし考える生活の中で、遠い昔から崇められ神聖化されてきたその存在に心が留まる時、そしてそれが言葉を失うほどに惹き込まれた時、そこには不思議な空間が生じていることに気づいたことがありました。心を惹きつける姿形を持った神聖な存在は、どんなに短い瞬間であっても、あらゆる思考が完全に停止した静寂を生みだすのだと感じたことを覚えています。
「目には見えず、しかし目が見ることを可能にしているもの―それが宇宙原理である」ケナ・ウパニシャッドはそう述べています。神と称される偉大な存在が多様に描かれ、あらゆるところに溢れるインドの生活においては、その姿形を目にする自分が、その存在との一体を通して、無条件で永遠の存在を確認するように思います。
神の姿は自分自身をありのままに映し出しています。そんな神の存在を目撃し自分と言う存在を見つめる時、その間に生じる静寂の中で、真実を経験するに違いありません。インドにはその瞬間が、いつの時も溢れているのです。
(文章:ひるま)