グル

僅かな光と音の世界から、外界の空気にはじめて触れるとき、いったい何を思うのでしょうか。
思いっきりの力を込めて、この世界を憂い嘆くのか、大きな産声を上げ、生を授かります。
産まれたばかりの赤ん坊にとって、母親こそ第一の師(グル)であり、生命をつなぐ、切れない糸で結ばれています。
今日29日はグル・プールニマです。
師に対する尊敬の念が常に強いインドであっても、この日はとくに盛大に祝福されます。
「グ」は暗黒や無知を意味し、「ル」はそれを追い払う者というサンスクリットの語源をもちます。
すなわち、グルとは、暗黒や無知を追い払う者という意味になります。
「グル」は霊性の道において、大きな道標となって、わたしたちを照らします。
しかし、いわゆる「グル」以外でも、親というグルもあります。
母親は、その限りない愛をもって、我が子の無知や暗黒を追い払う第一のグルです。
「機が熟したとき、グルは地球の裏側からでも姿をあらわす。」
よく知られたこの諺は、しかし、すべての真実を語ってはいません。
種を蒔き、水をやり、手入れをすることで、花を咲かせ、実をつける。
ただこれだけでも、わたしたちは、因果の概念をそこからから学びます。
裸足で大地を踏みしめ、清々しい空気を全身で呼吸する。
自然というグルに生かされ、偉大さと恵みを感じる瞬間です。
そして、もっとも身近である内なるグル。
一生涯ついてまわる、きっても切れない内なる良心です。
どのようなグルであっても、いつもお世話になっているお気に入りの「グル」に思いを馳せ、感謝するのに最適な日かもしれません。

土星の神 シャナイシュチャラ

ヴェーダ占星術では、土星はシャナイシュチャラと呼ばれます。シャナイシュチャラの語源は、サンスクリット語で「ゆっくり動くもの」を意味する「シャニシュチャラ」です。シャンという言葉はシャナイシュチャラから派生した言葉で、「無知」、「意識しなくなること」を意味し、土星はその象徴です。この「意識しなくなること」は、物質界への執着が希薄になることも意味します。
土星は、霊性が高く、物質次元にとらわれなくなった修行者を示しています。しかし、不吉な惑星ともいわれます。土星は、山羊座と水瓶座の支配星であり、天秤座において高揚し、牡羊座において減衰します。
土星は長寿、惨めさ、悲しみ、老齢、死、修養、制約、責任、遅延、大志、統率、権威、謙虚、誠実、経験による知恵、そして、苦行、拒絶、無執着、霊性、勤勉、組織、現実、時間のカーラカ(表示体)です。
チャート上、土星は第7室とケーンドラ(アセンダント、第4室、第7室、第10室をさす)において最も力が強まり、特にアセンダントが牡牛座や天秤座に位置する人にとって有益な星です。土星の性質はヴァータ、すなわち軽快さです。土星に対応する石はブルーサファイア、あらゆる黒い石、そして金属は鉄です。方角は西であり、曜日は土曜日です。ヴェーダの神話においては、土星は太陽の息子であり、太陽の影の妻チャヤの下に生まれました。太陽の第一婦人サンジャナの子供たちのひとりから怒りを買い、足を折られてしまったために、土星は足が不自由です。足を引きずって歩くことから、惑星の中で一番ゆっくりと進みます。
マンダ(遅いもの)としても知られる土星は、一般的にサディ・サティ(7年半続く)や、アシュタマ・シャニ(第8室にあり、2年半続く)といったある特定のハウスに位置するとき、人に逆境をもたらすことで知られています。土星は山羊座と水瓶座の支配星であり、また、最も歩みが遅く、それぞれのラーシを2年半かけて進み、1つの周期に30年かかります。このデーヴァター(神)への祈り、特に土曜日に行なわれる祈りは、そうした逆境の時期に向き合わねばならない苦難を軽減するといわれています。シャナイシュチャラは真心を持って祈りをささげる帰依者にはあらゆる恩寵を注ぎます。
シャナイシュチャラはそれぞれのラーシに2年半とどまりますが、出生時の月を第1室とした場合の第12室、第1室、第2室を土星が通過する期間はサディ・サティ(ナートゥ・シャニ)と呼ばれ、それは7年半続きます(サディ・サティは7年半の意味)。また第4室にあるときには、アルタシュタマ・シャニと呼ばれ、第8室にあるときには、アシュタマ・シャニと呼ばれます。こうした時期にある者には、シャナイシュチャラによって困難がもたらされます。
政府、同僚、妻、子供に起因する問題、業績の悪化、財産の損失、ハンセン病といったものは土星のトランジットによってもたらされます。
人生において、サディ・サティ(ナートゥ・シャニ)は30年周期でおよそ3度巡ってきます。最初のサイクルはマング・シャニと呼ばれ、本人よりもむしろ近親者に影響があるとされます。第2サイクルはポーング・シャニと呼ばれ、家庭内や事業面での影響があるとされます。第3サイクルは、マーラナ(死)・シャニと呼ばれ、子供、家族、健康面に影響を与え、本人の死を意味することもあります。第4サイクルは、肉体や魂からの解放を示すものとされています。
シャナイシュチャラは与えるものであり、また破壊するものであると考えられています。シャナイシュチャラに祈る者は、直面している悩みや心配から解放されるだけでなく、望んだ人生を与えられることによって祝福されます。
シャニ・マントラ
『プラーナ』より抜粋された次のマントラを唱えることで、土星を沈静化します。
ニーラーンジャナ・サマーバーシャム・ラヴィプトラム・ヤマーグラジャム
チャーヤー・マールターンダ・サンブータム・タム・ナマーミ・シャナイシュチャラム
(neelaanjana samaabhaasam raviputram yamaagrajam|
Chaayaa maartaanda sambhootam tam namaami shanaishcharam|| )
ビージャ・マントラ
オーム・プラーム・プリーム・プラウム・サハ・シャナイシュチャラーヤ・ナマハ
(om pram preem proum sah shanaischaraaya namah)
一般的なマントラ
オーム・シャナイシュチャラーヤ・ナマハ
(om shanaishcharaaya namaha)
土星を鎮めるためには、上の3つのマントラのどれを唱えても構いません。
マントラを唱える回数(総回数):2万3千回
マントラを唱える時間帯:夕刻
出典:
MailerIndia.com, “Shanaiswara – The Saturn”,
http://mailerindia.com/nava/grahas/index.php?saturn
Chakrapani Ullal, “What is Sade-sati?”,
http://www.vedicastrology.com/articles/articlewhatissadesati.htm

サイババ・ジャヤンティ

本日11月23日は、シュリー・サティヤ・サイババ・ジャヤンティ(誕生祭)です。インドで現存している聖者の中では、おそらくもっとも有名な聖者だと思われますが、日本や西欧諸国ではスキャンダル報道が先行し、あやしいと感じる方も多いと思われます。
わたしたちが手に入れた情報を判断する場合、その情報は本当に信頼できるソースからのものであるかどうか、まず周到に確認する必要があります。インターネットの世界では、数多くの情報が氾濫していますので、正確な情報を探し出すというのは非常に難しい作業です。
例えば、学術研究者であれば、さまざまな理由から、個人の作成したサイトをそのまま信用することはまずありません。そのような情報は、概して誤りが多く、学術的な情報として信用するに足らないからです(このサイトもご注意ください(笑))。
多くのメディアは、視聴率や本や雑誌の販売部数に重点をおいているために、正確な情報を伝えるという本来の使命が失われつつあります。そのため、他人のスキャンダルやうわさ話など、わたしたちが本能的に飛びつく情報を優先的に流しがちになります。一部の週刊誌や新聞などの報道記事を巡る訴訟が常に絶えないのは、すべてがそうとは限りませんが、メディアの本来の正確な情報を流すという役割を失った結果であると考えることもできるでしょう。
ここでは最終的な結論は出すに至りませんが、サイババの報道を巡る在り方も、内容をよく吟味し、真偽は自身で判断するしかないと思われます。
そのための判断材料として、代表的な反サイババ・サイトと、その疑惑について反論している擁護サイトを、参考までに掲載いたします(英語)。
反サイト http://www.exbaba.com/
擁護サイト http://www.saisathyasai.com/
インド、プッタパルティのアシュラムでは、アブダル・カラム大統領もかけつけ、盛大に誕生祭が行われたようです。

アシュラムでのニュース記事:
http://www.puttaparthilive.com/news.html

シルディ・サイババの誕生日はいつ?

9月28日(あるいは27日)は、シルディ・サイババの誕生日であるといわれています。日本人がサイババと聞くと、まずサティヤ・サイババを連想する方が多いと思いますが、インドでは、サイババというと普通はシルディ・サイババのことを指します。
しかし、実はこのシルディ・サイババの出生は謎とされていて、シルディ・サイババ寺院などでも、シルディ・サイババの降誕祭などが催されることは現在もありません。
ではなぜ、9月28日(あるいは27日)がシルディ・サイババの誕生日として広まったのでしょうか?
それは、シルディ・サイババの生まれ変わりといわれるサティヤ・サイババが、その講話の中で、シルディ・サイババの出生の秘密を詳細に述べたことからはじまります。シルディ・サイババ本人でないとわからないようなことにも言及していることから、サティヤ・サイババがシルディ・サイババの生まれ変わりであると広く受け入れられるようになりました。
この根拠のひとつに、シルディ・サイババが、「私は8年後に再び生まれ変わる」と預言してその生涯に幕を閉じ、そのちょうど8年後の1926年にサティヤ・サイババが誕生したことがあげられます。
しかし、シルディ・サイババ信者からしてみれば、サティヤ・サイババが自らをシルディの生まれ変わりと称していることに大変ないらだちを感じる人も少なくありません。2005年11月、サティヤ・サイババ生誕80周年記念式典に並行して計画されていたシルディ・サイババの降誕祭をきっかけに、シルディ・サイババの信者たちがサティヤ・サイババの信者を訴えたという記事があります[1]。その後も、シルディ・サイドは、サティヤ・サイドにシルディの生まれ変わりと称さないよう要求しています。
シルディ・サイババも、サティヤ・サイババも、ヒンドゥー教の世界観に基づいた普遍的真理を説いているにもかかわらず、それを信仰する人々との間で対立が絶えることがありません。また大局的にみても、同じ真理を説いているにもかかわらず、宗教間での対立が絶えることはありません。そこに宗教すなわち神を信じることの難しさが潜んでいるようにも思えます。
宗教では、同じ文献を参照しても、解釈する人々の意識により、その意味はどのようにも理解することができます。真に正しい解釈は、まさに「神」のみにしかできないでしょう。
それとは逆に、すべての人々が同じ解釈に達することができるのが、現代の自然科学です。さまざまな解釈や仮説が提案されることはあっても、幾多の議論や実験を通して理に適わないことは排除され、最終的には共通の真理のみが受け入れられます。
自然科学的な真理は、わたしたちの生活の中でも大いに活用されていることから、この真理を否定できる人はいないでしょう。
しかし、どちらの「真理」も、偏りすぎることで真理ではなくなってしまいます。
宗教的な「真理」についてみれば、聖典を解釈する意図、目的、意識によって、真理がゆがめられる可能性があります。たとえば、信者を獲得しようとする意図があれば、教祖は聖典を自分に都合のよいように解釈しないとも限りません。
また自然科学的「真理」については、物質論的な観点ではその右に出るものはありませんが、物質主義に偏りすぎることは、思考に偏りを生じる原因ともなり得ます。この偏りをどう捉えるかにもよりますが、数の原理、損得の原理にとらわれすぎると広い意味での真理がゆがめられることになるでしょう。
サティヤ・サイババは、その講話の中で、シルディ・サイババの誕生日について言及しています。1990年に行われた講話の中では、シルディ・サイババは、1835年9月28日に生まれたと述べています[2]。しかし、1992年9月27日に行われた講話の中では、シルディ・サイババは1838年9月27日に生まれたと述べています[3]。
このような論理的矛盾を巧みに突くことで、サイババは「真理」を述べていないと主張することも可能です。しかしそのような主張にも、なんらかの偏りを感じずにはいられません。
ヒンドゥー教では、火の神アグニ、風の神ヴァーユなど、自然の摂理を人格化し、それを神として崇める習慣があります。その神々は、多種多様な人格をもち、わたしたちの感覚でみても必ずしも完璧な人格の持ち主であるともいえません。しかし、インドでは、そのような必ずしも完璧でない人格の神々を、真心を込めて崇拝します。それはわたしたち日本人が、自然の中に神を見出す感覚に優れているのと同様に、インド人は多種多様な性格をもった人格の中に神を見出す感覚に優れている証でもあります。
「すべてのものの中に神が宿る」−これはヒンドゥー教の聖典に共通して述べられている言葉です。神は善人に多く存在するものでもなく、邪悪なものに存在しないということでもありません。すべてのものに共通して神が浸透しているということを意味しています。この言葉の真意を理解することができれば、宗教間の対立、個人の争い、または論争の種をまき散らすようなことはなくなるでしょう。
わたしたちの視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感、または知性で感じ得られるものに絶対の真理を投影しようとすると、そこにはなんらかの矛盾が生じます。本当の真理は、わたしたちの五感では悟り得ないところ、知性を超越したところに存在しているのかも知れません。
ダシャラー(ヴィジャヤーダシャミー)の祝日
本日はナヴァラートリ10日目にあたるダシャラー(ヴィジャヤーダシャミー)の吉日になります。
ダシャラー(Dussera)はダサラ(Dasara)と混合してしまいがちなのですが、ダサラ(Dasara)祭は、前回のブログで紹介したナヴァラートリとも呼ばれる、10日間のヒンドゥーの祭典のことを指します。ダシャラー(Dussera)は、そのお祭りのクライマックスである10日目の祝日を指します。Dasaraをダシャラーと読んだり、Dusseraをドゥッセラーと読んだり、読み方が統一されていないためにどの読みが正しいのか不明確ですが、学術的な辞典を参照するとDusseraの読みがダシャラーとなっていますので、ここでは、Dusseraをダシャラー、Dasaraをダサラとして区別することにしました。
今日ダシャラー(ヴィジャヤーダシャミー)の吉日に、お祭りは最高潮に達し、悪魔ラーヴァナの像が各地で燃やされ、善の勝利(ヴィジャヤ)がお祭りされます。ぜひこの吉日を祝して、日々、心の中で行われている善と悪の戦いの中で、善が勝利を収められることができるように、心を律してみるとよいかもしれません。
[1]Sai Baba Exposed
http://saibabaexposed.blogspot.com/2006/01/sai-baba-devotees-sued-by-sai-baba.html
[2]Sai Baba Discourse on 1990.Sept.28
http://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume23/sss23-28.pdf
[3]Sai Baba Discourse on 1992.Sept.27
http://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume25/sss25-31.pdf

クリシュナ・ジャンマーシュタミー(御生誕祭)

2006年8月16日、ヴィシュヌ神の第8番目の化身とされるクリシュナの御生誕祭が行われました。ジャンマーシュタミー(ジャンマ[生誕]+アシュタミー)とはクリシュナの誕生日の意味であり、その他、ゴークラ・アシュタミー、クリシュナ・ジャヤンティー(誕生祭)とも呼ばれています。アシュタミーとは、8番目の意味であり、ヒンドゥーの暦で、シュラーヴァナ月(七月〜八月)、アセンダントがローヒニーの時、月が欠けはじめて第8日目の夜にクリシュナが誕生したことからこのようにいわれています。
クリシュナの生誕については「バーガヴァタ・プラーナ」に詳述されています。その一部を『インド神話』(上村勝彦著、ちくま学芸文庫)[1]を参照してご紹介いたします。
『悪魔どもは暴虐な王の姿をとって地上に出現した。
大地の女神は彼らに苦しめられ、牝牛に姿を変えて梵天に救いを求めた。
梵天はシヴァをはじめとする神々をつれて乳海の岸に行き、瞑想して最高神プルシャ(ヴィシュヌ神)を崇拝した。
梵天は瞑想のうちに天の声を聞いて神々に告げた。
「最高神はヴァスデーヴァの家に生まれるであろう。
天女たちは彼を楽しませるために、(牛飼女として)地上に生まれなさい。
ヴィシュヌ神の一部分であるアナンタ竜は彼の兄として生まれなさい。
聖なるヴィシュヌのマーヤー(幻力)も、主の目的を成就させるために地上に下るであろう。』
クリシュナの生まれた時代は、世界を支配する王が悪魔であったとされ、人々は王の暴政に悩み悲しんでいました。
そのため、人々の願いに応え、ヴィシュヌ神自身が悪魔を滅ぼすためにクリシュナとして地上に降誕しました。
『ある夜、ヴィシュヌ神は、当方に昇る満月のように、デーヴァキーの胎内より出現した。その子はヴィシュヌ神の特徴をことごとくそなえていた。……』
幼児期のクリシュナは、さまざまなリーラー(神の戯れ)が言い伝えられています。
『やがて幼児の誕生日がおとずれ、ヤショーダー[クリシュナの養母]は祝宴の準備でいそがしく働いていた。
幼児は母の乳を吸いたかったが、彼女が来ないので大声で泣き、怒って足をばたばたさせて、そばにあった車を遠くまで蹴とばしてしまった。
車がぶつかって多くのものがこわれた。
ヤショーダーたちは驚いて駆けつけた。
そばにいた子供たちが、この幼児が車を蹴とばしたと言ったが、牛飼いたちは信ずることができなかった。
またある日、ヤショーダーが幼児を膝にのせていると、突然その子が山のように大きくなったので、彼女は驚いてその子を地面に置き、最高神に祈念してバラモンたちを呼びに行った。
ちょうどその頃、カンサに派遣されたトリナーヴァルタという名の悪魔が旋風の姿をとってそこへやって来た。
人々が埃のために何も見ることができないでいる間に、旋風は幼児をさらっていった。
ところが、幼児を運んで空を飛んでいるうちに、悪魔は幼児の異常な重みに耐えることができなくなり、幼児を放そうとしたが、その子は彼の首にしっかりと抱きついて離れなかった。
悪魔はついに地上に墜落し、岩にぶつかって死んでしまった。
またある時、ヤショーダーは幼児に乳を飲ませていた。
子供が乳を飲み終わり、母がやさしく笑ってその顔をなぜていると、その子はあくびをした。
ところが、ヤショーダーは、その子の口の中に、空・星々・太陽・月・海・大陸・山々など、ありとあらゆる世界を見たのであった。
彼女は幼児の口の中に宇宙を見て仰天し、両眼を閉じてしまったものだ。
(『バーガヴァタ・プラーナ』10.5-7)』
クリシュナは実在の人物であるといわれておりますが、そのクリシュナが織りなす奇跡の数々は魅力に満ちあふれ、クリシュナの本質を体現しているようです。クリシュナは、彼の人々を惹きつけて止まないその愛の本質により、いまなお世界中の人々を魅了し続けています。
「アティ・ルドラ・マハー・ヤジュニャ」追記
前回お伝えいたしました人類の平安と繁栄を祈願して行われている「アティ・ルドラ・マハー・ヤジュニャ」についてですが、一部誤解を生む表現がございましたので、ここに追記させていただきます。
「アティ・ルドラ・マハー・ヤジュニャ」の僧侶団代表であるシュリー・ナンジュンダ・ディキシット氏の講話で、次のような解説がございました[2]。
「一人がルドラ(ナマカと思われる)を11回とチャマカを1回唱えると、ルドラとなる。それを11倍するとルドライエーカーダーシニー(エーカーダシャ・ルドラム)となる。さらにそれを11倍すると、マハー・ルドラとなる。マハー・ルドラを11倍すると、アティ・ルドラとなる。1,331人の僧侶が、一日のうちに11回のルドラとチャマカを1回唱えると、アティ・ルドラとなる。あるいは、11人の僧侶が、121日間それを続けるとアティ・ルドラとなる。……」
今回プッタパルティでは、121人の僧侶によりルドラムが朗誦されているようですので、11日間ルドラムを唱え続けるとアティ・ルドラムとなることになります。
アティ・ルドラムは合計14,641回のナマカムと、1,331回のチャマカムを唱えることですが、一人一人の僧侶が14,641回のナマカムと1,331回のチャマカムを唱える必要はなく、僧侶の人数によって唱える回数を割ることができるようです。
誤解を招いてしまいまして申し訳ございませんでした。プッタパルティでのアティ・ルドラ・マハー・ヤジュニャは、本日で終了いたします。占星学的にも霊性修行に適した日であるとされておりますので、この一日を瞑想やジャパなどで過ごし、神聖な想いで満たすとよいかも知れません。
[1] 村上勝彦著,『インド神話』,ちくま学芸文庫,2003
[2] Athi Rudra Maha Yajna: Day One – 9th Aug 2006,
Elaborate Report on the Afternoon Session,
http://www.sssbpt.org/Pages/reports/armyreportfirstday.htm

「アティ・ルドラ・マハー・ヤジュニャ」

8/9(満月の日)より12日間にわたり、インド・プッタパルティのサイババのアシュラムで、「アティ・ルドラ・マハー・ヤジュニャ」が行われているようです。このヤジュニャ(祭祀)は、人類の平安と繁栄を願って、ルドラ(シヴァ神)に祈願するものです。アティ(甚大な・莫大な)という言葉にもあるように、このヤジュニャには甚大な手間がかかるために、インドでも頻繁に行われるものではありません。過去には2001年にシルディ・サイババ寺院[1]や、1997年にはアメリカ[2]で行われたとの報告があります。
このヤジュニャがどのようなものか、SSSBPTのホームページ[3]を参照してご紹介いたします。
『聖者サターパータは、彼の著作「マハールナヴァ・カルマ・ヴィパーカ」の中で、ヴェーダや聖典に共通するアビシェーカの四つの形式について列挙しています。それらはルドラム、エーカーダサ・ルドラム、マハー・ルドラム、アティ・ルドラムであり、後者になるほど効果が強くなります。この中で、もっとも強力なアティ・ルドラムには、14,641のルドラムが含まれています(クリシュナ・ヤジュル・ヴェーダ・サムヒターの第4カーンダ(章)第5プラパータカ(節)にあるルドラーディヤーヤムに、ナマカムとチャマカムの組み合わせとしてのルドラムが記載されています)。
ナマカムとチャマカムはそれぞれ11のアヌヴァーカ(ヴェーダの章節)から成り立ちます。ナマカムを全11アヌヴァーカ吟唱した後に、チャマカムを1アヌヴァーカ唱えると1ルドラムとなります。
ナマカムを唱えた後にチャマカムを1アヌヴァーカづつ唱えていくと、ナマカムを11回唱えたところで、チャマカムを全章唱えることになります。これがエーカーダサ(11の意味)・ルドラムとなります。
そして、エーカーダサ・ルドラムを11回繰り返すことをラグ(手軽なという意味)・ルドラムといいます。ラグ・ルドラムを11回繰り返すと、マハー・ルドラムとなります。マハー・ルドラムを11回繰り返すと、アティ(甚大な、莫大なの意味)・ルドラムとなります。
したがって、アティ・ルドラムは合計14,641回(11×11×11×11回)のルドラムを唱えることになり、その中で14,641回(11×11×11×11回)回のナマカム、1,331回(11×11×11回)のチャマカムが唱えられています。
以上がルドラ・パーラーヤナであり、ルドラービシェーカでは、同時に儀式に精通した121人の僧侶によってルドラ・ホーマが執りおこなわれます。そこでは、この目的のために、11のホーマ・クンダ(儀式用の穴の開いた台)がつくられます。』
ナマカムは、11章からなるシヴァ神を讃える祈りですので、これだけでも大きな労力がいると思われます。それを一日に1,331回唱えるわけですから、この祭祀の意義が伝わってきます。
月の満ち欠けは、しばしば欲望の増減に例えられます。満月の日にこのようなヤジュニャがはじめられるのは、ヤジュニャによってわれわれの欲望が少しずつ減少し、ついには滅してしまうようとの願いが込められていると思われます。欲望は少なければ少ないほど、旅は快適になるとはよくいわれますが、このような機会を生かして、すこしでも欲望を抑えられるような生活をしてみるとよいかもしれません。
ルドラム(ナマカム、ルドラム)の吟唱が含まれたCD-ROM(VCD)を掲載いたしましたので、興味がございましたらこちらよりご参照ください。
[1]Sai Vichaar, volume 3-44
http://www.saibaba.org/newsletter3-44.html
[2]Hinduism Today
http://www.hinduismtoday.com/archives/1997/12/1997-12-11.shtml
[3]Sri Sathya Sai Books & Publication Trust
http://www.sssbpt.org/Pages/reports/armyreportfirstday.htm

光の瞑想

2006年7月11日は、グル(師)に敬意を捧げる日であるグルプールニマの日です。サティア・サイババの語る光明瞑想についての講話翻訳文をいただきましたので、グルプールニマの日を記念して、恐縮ではございますがここに掲載させていただきます。
光の瞑想Jyothi Dhyana サティア・サイババ
瞑想とはどうやればいいのか。これについては、いろいろな先生や指導者が、さまざまに違った教えを説いています。しかしわたしはみなさんにここで、最も普遍的で、最も効果のあるやり方をお教えしましょう。これこそは、精神的な修行における、はじめの一歩と言えます。まずは瞑想のために毎日ごく数分の時間を定めるようにし、悦びが深まるとともに、時間を延ばしていきます。刻〈とき〉は明け方がいいでしょう。眠りのあとで身体〈からだ〉はさわやかな上、昼間のいろいろな活動の影響がまだ及んでいないため、とてもよい時間と言えるのです。ロウソクかランプの明かりを目の前に置きます。直接目に見える、おちついた感じの、まっすぐな炎です。蓮華座〔訳注……結跏趺坐〕で両足を組むか、他の楽な姿勢で座ります。

しばらくの間、炎をじっと見つめます。
眉間〈みけん〉をとおって、光が自分の内側に入ってくるように感じながら、目を閉じます。
光は、光の道すじを通って、ハート――胸の中心――に向かって、ゆっくりと降りていきます。
光は、ハートに届きます。
このとき、蓮〈はす〉の花びらが一枚ずつ、ゆっくりと開いていくのをイメージします。
すべての思い、すべての気持ち、すべての感情が、光で満たされます。
闇はなくなります。闇の潜んでいられる場所は、もうどこにもありません。
光はさらに大きく、輝きを増します。
光は手に拡がり、
足に拡がっていきます。
手や足は、悪い思いや、疑いや、悪い行為に浸〈ひた〉っていることはできなくなります。
手も足も、光のため、愛のために尽くすものとなるのです。
光が舌に届くとともに、嘘いつわりは消え失せます。
光は目と、耳まで昇っていきます。
あらゆる悪い欲望――目や耳に巣食い、ねじ曲がったものの見方や、子供じみた話に向いがちな欲望――は、なくなってしまいます。
頭の中の光は、さらに輝きを増します。
すべての悪い思いが頭の中から消えていきます。
内なる光が、さらに大きな輝きになっていくさまを、ありありと思い浮かべます。
自分の周りの全体が光で包まれ、
光の輪はどこまでも大きくなっていきます。
大切な人、家族、友人、知人、対立している相手、競争相手、よく知らない人々、命あるすべてのものが光の中に包まれ、
光は全世界へと拡がっていきます。

 毎日、深く、順序だって、すべての感覚を光が明るく照らし出していくのですから、後ろ暗い、悪いものの見方に惹かれたり、けがれた、恐ろしい話を聞こうとしたり、身体によくない、力を弱める、悪質な食べものや飲みものを求めたり、悪いものをほしがったり、好ましくない場所や悪〈あ〉しきものに近づこうとしたり、いつ、誰についても悪い思いが浮かぶようなことは、そのうちになくなってしまうでしょう。どこにいても、光を見つめている「あの感じ」を忘れないようにするのです。これからは、たとえどの神さまでも、あがめ、祈るときは、あらゆるところに満ちている光の中にその姿があると思い描くようにします。光は神だからです。神は光です。
わたしがお話ししたように、毎日規則的にこの瞑想を続けなさい。その他の時間は、(神のさまざまな栄光のうち、かぐわしい魅力のある名であれば何でもいいから)神の名をくり返し唱え、神の力、慈しみ、惜しみのない愛に気づいていようと、いつも心に思うのです。
日時 1979年
出典 http://www.saisamachar.com/saipranaam/sep02/mediate.htm

“Sathya Sai Speaks – vol.10” ‘Meditation’
解題 現代の脳科学者によれば、イメージの力は、読み書きや計算の能力に勝るとも劣らぬほど重要だ。この光の瞑想(光明瞑想)を日常的におこなうことで、イメージする力を強め、情緒を安定させ、病気の回復を早め、健康な身体を作り、学習や仕事の効率を上げ、人間性を高めることができる。そしてこれは、サイババに帰依する人もそうでない人も誰でも続けることができる、すぐれた方法だ。その一方で、この瞑想のやり方については、サイババ関係者の間でもさまざまに違った見解がある。ここに訳出したのは、サイババ自身が語った瞑想の方法として、最も信頼できるテキストのひとつである。光の瞑想はどうやればいいのか、迷いがおこったときに、立ち返るべき原点がここにある。
翻訳 宇野梵悦(2006年7月11日 グルプールニマ)

プリントアウト用PDFファイル<Jyoti_Meditation.pdf>

108Hzの「おと」

ヒンドゥー教では、「音」に大きな意味をおいています。サンスクリット語のマントラは、その音自体が意味をもち、そこに重要な役割があるとされています。また神さまの名前は最高のマントラであるともいわれるのは、その神さまの名前を構成するひとつひとつの音にそれぞれ重要な意味が含まれているからです。そのような重要な意味を含む「音」を唱えることにより、心身共に健康になり、解脱に至るというのは、だれでもが実践できる魅力的な方法です。
またその「音」に加えて、ヒンドゥー教では「数」にも重要な意味をおいています。たとえば、「108」という数は、仏教では煩悩の数などとしてしられていますが、ヒンドゥー教では神さまの御名(みな)やジャパ・マーラーの構成数など、「108」が基準となり、神聖な数を示す場合が多くあります。
そこで、ヒンドゥー教では「音」と「108」に大きな意味をおいていることから、108Hz(ヘルツ:1秒間に波が何回振動するかの単位)の音はどのような「音」になるのだろうということで、実際につくってみました。実際の音はこのようになります。108Hzの音
この音は、自然科学的に見たら、何の変哲もないただの音ですが、何か意味を見いだせる方がいらっしゃいましたら、どうぞご利用ください。
この108Hzの音自体は、低音で「オーム」の響きに似ていないとも言えないので、瞑想の時の補助に使えるかもしれませんね。しかし、あまり大きな音量で聴くと、逆に疲れてしまいますので、使用するときはごく小さな音で使用するようにしてみてください。
ところで、人間の脳波は、0〜10数ヘルツまでその精神状態によって変化します。脳波は、瞑想や作業中の集中時など、自らの意志によって変化させることも可能ですが、音や光、電気的な外部刺激によっても誘導されることが知られています。そこで、この108Hzの音を利用して、脳波に誘導的に働くように変化を与えてみました。人間の聴覚は非常によくできていて、左右の耳から異なる周波数や異なる位相差の音を聴かせると、脳は左右から入ってきた音を内部で合成して、その合成した音を知覚することができます。例えば、左耳から108Hzの音を聴かせて、右耳から111Hzの音を聴かせると、脳内ではその周波数差である3Hzのうなりを知覚することができます。一見、あたり前のようなことですが、これは人間の脳が、あらゆる連係プレーを通じて、非常に高度に働いている証拠でもあります。
3Hzというのは、脳波でいうと深い睡眠時の脳波であるデルタ波にあたります。そこで、左チャンネルから108Hz、右チャンネルから111Hzの音を用意してみましたので、夜寝付きが悪い方がいらっしゃいましたら、この音を試してみてください。3Hzの音
3Hzの音が脳内で合成されて、深い睡眠時の脳波に誘導されやすくなります。
ただし、夜寝るときは少し不便かも知れませんが、ヘッドホンやイヤホンで聴かないと、効果が期待できません。またあまり大きな音で聴くと、脳が疲れてしまいますので、ごく微かに聴こえる程度の音量でお聴きください。
また集中時の脳波はアルファ波といわれ、8〜13Hz程度であるといわれています。ヒンドゥーでは、9は神聖な数とされているので、仕事や集中の助けとなるように、108Hzの音をベースに、9Hzのうなりをつくってみました。9Hzの音
この場合も、上と同様にヘッドホンやイヤホンをもちいて、ごく微かに聴こえる程度の音量でお聴きください。勉強や仕事の時に聴かれると、集中の助けになるかも知れません。
朝、すっきり目覚めたい方には、13Hzの音がよいかも知れません。108Hzの音をベースに、13Hzのうなりをつくってみましたので、朝の目覚めの時に聴いてみてください。13Hzの音
この場合も、上と同様にヘッドホンやイヤホンをもちいて、ごく微かに聴こえる程度の音量でお聴きください。寝起きが悪い方が聴くと、目覚めが良くなるかも知れません。
108、3、9、13という数は、どれもヒンドゥーでは神聖な数とされているものです。ここでは、この神聖な数を組み合わせて、日常生活に活用できそうな音を興味半分でつくってみました。ご活用されるのは自由ですが、効果に関しては一切の保証はありませんので、あらかじめご了承ください。またこの音は、使用者ご本人の責任の上でご使用してください。また市場ではこのようなメカニズムを活用した能力アップグッズが市販されています。これはあくまで自然の物理・生理作用をもちいた方法であるので、とくに権利侵害はしていないと思いますが、何か不都合がありましたら、ご連絡頂ければ幸いです。
うまくダウンロードできない場合はこちらからお試しください。

ガーヤトリーとガヤトリー、ルドラークシャとルドラクシャ、ヨーガとヨガ

前回のブログの最後に、デーヴァナーガリー文字の表記について少し述べました。外国語を日本語に表記する場合、とても難しいのがその表記方法なのですが、まず頼ってしまうのが、実際に聴いた音をそのまま日本語に書き表すという方法だと思います。
実際にインド人の言葉を聴くと、「ガーヤトリー」というよりは「ガヤトリー」、「ルドラークシャ」というよりは「ルドラクシャ」の方が音自体としては近いように聞こえます。
現在、「ヨーガ」と「ヨガ」の間で、表現の仕方が別れていますが、これは、1950年代に沖正弘氏が「ヨガ」の火付け役となって「ヨガ」ブームが日本で始まり、その後、1970年代に大阪大学名誉教授の故佐保田鶴治氏[2]が「ヨガ」ではなく「ヨーガ」という読み方を広めたからであると言われています[1]。
デーヴァナーガリー文字の表記では、yogaの「o」は長音となるので、「ヨーガ」という方が実際の表記に近い表現のようです。しかし、人によっては、「ヨガ」と聞こえる人も多いようなのですが。
サンスクリットによる朗誦は、デーヴァナーガリー文字の表記にあるような長音を用いることで、朗誦がスムーズに、きれいに聞こえます。しかし、日常会話などでは、あまり長音を多用すると言葉が悠長になってしまうので、「ガヤトリー」や「ルドラクシャ」のように発音されるのかもしれません。般若心経でも「かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみったーじー…」と日常会話で読み上げていたら、話す方も聴く方もとても大変ですよね。
いまの「ヨガ」と「ヨーガ」事情をみていると、「ガヤトリー」と「ガーヤトリー」、「ルドラクシャ」と「ルドラークシャ」も同じような道をたどって、後々混乱をまねく恐れがあります。情報を発信する立場としては、話し言葉よりも書き言葉を重視して、デーヴァナーガリー文字の表記にしたがった表記をするべきかもしれません。そこで今後は、書き言葉としてなるべく正確な表記をすることを心掛けて、「ガヤトリー」は「ガーヤトリー」、「ルドラクシャ」は「ルドラークシャ」などと、表記を書き改めていきたいと思います。
再度混乱を誘うようで申し訳ございませんが、ご理解の程どうぞよろしくお願い申し上げます。
[1]日本のヨガ史とヨガ事情 http://yoga.1ne.cc/nihon-yoga-rekishi.htm
[2]日本ヨーガ禅道友会http://www.yogazen-doyukai.com/

ブログをはじめました

いつもお世話になっております。SitaRamaの薗田です。
この度、SitaRamaブログをはじめるにいたりました。このブログでは、ウェブショップでは紹介しきれない情報を紹介していく予定です。
例えば、インドのCDには歌詞カードがついていることは、滅多にありません。サンスクリットのマントラや詩句はただでさえ、聴き慣れない言葉であるのに、テキストも意味も分からなければ、その意義が半減してしまうと思います。そこで、ここでは、マントラのテキストや意味などをひとつひとつ解説していく予定です。
またインドでは、毎月のようにお祭りがありますが、そのお祭りの情報、ヴェーダにまつわる情報や知識など、ウェブショップに関心をもっていただける人々に楽しんで頂けるような内容にしていきたいと思っておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
ところで、インドでは木曜日は神聖な日とされています。この日に断食をしたり、瞑想をしたり、ジャパを普段より多く行うことで、解脱にいたるまでの道のりがスムーズになると信じられ、実際に多くの人々が、この日を敬い、毎週木曜日には断食をしたり、瞑想をしたり、ジャパなどに多くの時間を当てています。
木曜日は、木星が支配する日であり、また木星は霊性をあらわす星であるという占星学上の理由、そして当店で扱っている「日々のプージャ」では木曜日に捧げるプージャが「サイ・プージャ」となっていますが、これは、インドでは神の化身として信仰されている(シルディ・サティア)サイババが、木曜日に霊性修行に深く取り組む者は、わたしが解脱まで面倒を見るという趣旨の発言をしたということに由来しているようです。
もちろん、一日一日を無駄にすることなく、何事にも取り組んでいくことが大切ですが、人間である以上、調子のよい日もあれば悪い日もあります。そこで、少なくとも週に一度、この木曜日は霊性修行をとくに強化してみてはいかがでしょうか。
次回は、マントラの紹介をしたいと思います。