真実の歌

スピリチュアリティを失うことなく、現在に至るまで深くその精神世界を示すインドにも、物は確実に増え物質主義の波がしっかりと押し寄せています。そんな対照的な世界だからこそ、生きる意味や人生の目的、その究極なまでの問いにはっとさせられるような答えを得ることが少なくありません。
ここには有名なアクバルとタンセンの話があります。大帝アクバルのために音楽を奏でるタンセンは、アクバルに大そう気に入られるも、自分の師であるハリダスの方がはるかに素晴らしいと伝えます。そして、そのハリダスの歌を耳にしたアクバルはタンセンの言葉通り、強く心を打たれ涙を流し続けます。
タンセンとハリダスの違いとは何なのか。生活のために音楽を奏でるタンセンは、大帝に言います。「師は、神のためにその歌を歌うのです。」と。
タンセンの音楽は、力や賞賛、地位や名声と言った「何か」を得るために奏でられます。一方でハリダスは、自分が満たされた存在として、それは神との一体を意味し、それ以上の何を必要とすることなく、歌を歌としてただ歌います。目的のための手段ではない、あるがままのその歌には何にも代えられない真の美しさが存在しているに違いありません。
きっとそれは人生においても同じことのように思います。ここでただシンプルに生活を送る時、一つ一つの出来事がとても深みを帯び、色濃く、辛く苦しいことさえも美しいもののように思えるのは、その奥深くにある何にも動かされない確かな存在を感じているからだと思います。何かを得るための人生ではなく、既に満たされた存在として、ただ生きることに専念してみたくなる、そんな感覚に包まれるのです。
「神様に人生に喜びを与えてくださいとお願いしたら、神様は人生をくれました。」人生そのものが喜びであるという、そんなスワミジの言葉も思い出します。私たちは、自分自身の存在にあらゆる価値を加えようともがき、ただ在るというその存在の美しい真実を曇らせているのかもしれません。
ハリダスが歌を何のためでもなくただ歌として歌う時、それはまさに存在との一体を意味します。それは神と通じる瞬間、そして私たちは常にその瞬間にあるということを、あるがままにこの人生を歩みながらいつの時も気づいていたいと感じています。
(文章:ひるま)

スピリチュアルな世界

インドの各地には、それぞれの神に馴染みのある地が数多く存在します。例えばヴリンダーヴァンは、クリシュナ神が幼少期を過ごした聖地として、そしてここリシケシはヨーガの聖地であるとともに、ニーラカンタというシヴァ神のお寺があることからも、街にはシヴァ神のマントラが絶え間なく流れ続けてます。
土着の神々や信仰が取り入れられながら形成されてきたヒンドゥー教は、太陽や月、山や川を始めとする自然から生じる神々を深く崇拝し、今のこの時に至るまで、その深い信仰が失われることはありません。その目には見えない崇高なものと深く繋がる人々が生み出すこの特別な雰囲気は、訪れる人々をさらなる深みへと引き込み、ここでの生活そのものがまさに魂と向き合うスピリチュアルなものへと変化を遂げてゆきます。
そんな神聖な場所に身を置きながら強く感じることは、宗教とスピリチュアリティというものが別のものであり、ウパニシャッドなどのインド思想に示されるように、それはあくまでも自分自身と目には見えない超自然的な存在との繋がりを感じるものだということがあります。そしてそれが特定の人々だけに起こることでは決してなく、魂を持つ誰もが経験する潜在的なものであるのだと人々の姿を見て思い知らされています。
目には見えない世界に入り込むことは、時に難しく捉えられることがあっても、そこにしっかりと足を踏み入れる時にふと出会う、人生の意味、生命の尊さ、愛や思いやりは、物質以上の充足を私たちに与え続けます。人の欲から生み出されるこの物質に支配された世界の中で、自分の本来の姿を見るのがその時だと思えてなりません。
スピリチュアリティは神秘的な体験や、何か特別な経験を意味するわけでは無く、古い時代に誰もが祈っていたように、私たちの中心に備わる一番大切で崇高な部分を見つめ直すだけのシンプルなものにすぎないのだと感じます。インドの人々が今この時も日常の生活を祈りと共に過ごす姿、そしてこの神々が溢れる地がそう教えてくれるような気がしています。
(文章:ひるま)

生命の源へ

「苦しみや憎しみのない穏やかな生活を送り、あらゆる物事を正しく理解しながら、神聖な心で崇高な存在と繋がるためにはどうしたら良いのでしょうか。」シヴァ神の妃であるパールヴァティは、ある時シヴァ神にそう訪ねます。そしてシヴァ神は答えます。「呼吸を観察し、操ること。」と。
ヨーガの修練を行う人々に最高意識として捉えられいつの時も崇められているのが、ヨーガの創始者であるシヴァ神です。そして、数多く存在するヨーガの経典の中に、その崇高な存在に繋がるための教えが記された、シヴァ神とパールヴァティーのやり取り「シヴァ・スヴァローダヤ」があります。
スヴァラ・ヨーガと呼ばれるその教えに従う修練は、シヴァ神が述べたように呼吸の統制に他ありません。「音」を意味する「スヴァラ」は、インドの古い哲学の中で音が宇宙の根源として捉えられるのと同様、極めて大切なものとされています。そして私たちの体においてその「音」は、この生命を司る「息・呼吸」であり、それ故、その息づかいの統制は、自分自身を、そしてこの世界の全てを理解することに繋がるのだと、人々はここで修練を続けています。
不安や緊張を感じれば呼吸が早まり、いつしか止まっていることがあるように、その乱れた呼吸によって、私たちは無意識のうちに大きく揺り動かされて止みません。意識的にその生命の音の中へと深く入り込み、ゆっくりと穏やかな状態へと導くことで、揺らぐ世界は不動なものへ落ち着いてゆくのだと、私もここでその実りを実感しています。
音を通じて合一を得るこのスヴァラ・ヨーガは、呼吸だけに留まらず、鼻腔を通じて取り入れられる呼吸によって体の中を流れる気の流れをも統制していくとても深い科学的な行いでもあります。そして、この世界にある全てのものが私たちの思考の現れだと捉えられるように、私たちの命を維持する呼吸の統制は、その世界の現われに確実に変化をもたらすに違いありません。
ここにいて、パールヴァティーの持つ疑問と同じものを抱えながら過ごす中、呼吸は少しずつその答えを見せてくれるように思うことがあります。全てのものが生まれるその源を整えること、私たちは今、その原点に戻る時にいるような気がしています。
(文章:ひるま)

奉仕のヨーガ

目の前にある自分のすべき行いに心を定めること、それは、ここでの生活において最も重要で意味のある行いの一つです。眠ることであっても、食べることであっても、なされるべく行いから心が離れぬよう、ここではいつの時もその瞬間に留まるよう注意深く毎日を過ごしています。
「あなたの権利は、定められた行為を行うことであり、その結果をどうすることではない」(2章47節)バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナ神がそう説くように、私たちはその心を結果ではなく、なされるべき行いにしっかりと定めるべきだと伝えられています。
全てのものが神の下にあると信じるここでの暮らしでは、自分自身の行いから生じた全ての結果もまた神のものであると考えます。従って、その結果について私たちにできることは何もありません。それを理解しながら、インドの人々がいつの時も神に身を委ねるように、この世界を成立させる偉大な力に全てを預けると、成功や失敗というその相反するものの間で揺るがされる自分自身の心が静かに落ち着いていくことを感じます。
「神は私たちの行いの全ての責任を持っています。神を愛して大切に思うほど、良いことをしようと思い、そして悪いことはできないはずです。」とスワミジが口にしていたのを思い出します。結果に対する執着を捨て、自分の行いをただ全うすることは、神との一体を意味し、そしてそこに生み出される真の平穏に気付かされたのも、その言葉を耳にした時でした。
私たちは生きる上で、行いをせずに立ち止まることはできません。全ての行いを神への捧げものとすること、そこから生み出される神との一体、そして揺るがない心、世界との調和、それこそがヨーガなのだとここでの生活が物語っているように思います。
日々の生活の動きを注意深く感じていると、物事が成り立ち、そして進みゆく、自然の中に存在する流れと、その中心にあるどっしりとした大きな守りを感じることがあります。見失ってはならないその大切なものをしっかりと感じられるこの生活が、ただ呼吸をするという生きる当たり前の行いすらも、神聖なものとしてくれるような気がしてなりません。
(文章:ひるま)

自由を求めて

62年前の1月26日、インドにて共和国憲法が発行され、初めてインドは主権国家となります。自由を手にするために払われた多大な犠牲と、人々が歩み続けた苦難の道を想うこの日、更なる国の進歩を願い、この大国が一丸となって祈りに包まれていました。
自由を手にするために当時流された血と涙は、私たちが身を置くこの社会からはきっと想像もつかないほどのものであったに違いありません。そして今、このインドの社会に身を置きながら、「人生そのものが自由を得るためのステップである」という教えを改めて思い起こし、日々の行い一つ一つが気づきと共にあるよう、その瞬間に十分に留まることを努めています。
精神世界の中で意味される自由とは、肉体や物という束縛から解放された、究極の状態「意識」であることにあります。例えば、自分自身の存在に満足すること、その「ただ在る」ということこそが、終わりのない至福であり、限りのない自由です。それは実に単純でありながら、最も難しいことでもあるが故に、人々はその探求の道をそれぞれの人生の中で歩み続けています。
スワミジが述べるように、今と言う瞬間に留まる事は、歩みを止め、ただじっとしていることを意味するわけではありません。社会に身を置きながら生活をする私たちにとって、それは、人生の中で苦しみや喜びを経験しながら、その瞬間の中で変わらない至福が自分の内を満たしていることに気づくことであり、それこそがどんなものにも代えられない自由であると、ここでの生活がいつも教えてくれるような気がします。
私たちはいつの時も、自由を勝ち取るために奮闘しながら、苦しみ、悲しみ、喜び、幸せという沸き起こる感覚に溺れ、無意識のうちに自分自身を限定し、束縛する行いを繰り返しています。新たな束縛を生み出さないためにも、一瞬一瞬が気づきに満ちたものとなるよう自分の内に既に存在する自由を見つめる時間が、ここでは何よりも貴重なものです。どんなものにも束縛されない自由は、今、そしてここにあるということ、インドの人々の自由を喜ぶ姿を見て、この時に改めてそれを確認しています。
(文章:ひるま)

変遷の時

1月14日、太陽が山羊座に入るこの時、太陽はその向きを変え北半球を回り始めます。北インドではマカラ・サンクラーンティ、南インドではポンガルなどと呼ばれるこの日、インドは収穫を喜ぶ人々によって、盛大な祝福が行われました。
農業は、私たちの生命を維持するための必要不可欠な行いとして、インドでも人口の半数以上が従事するほど、人々の生活を支える重要な基盤です。しかし、インドの厳しい気候条件の下では、肉体的、そして精神的にも多大な苦しみが伴い、その厳しさは途方もないものとなりえます。それ故、この収穫時の喜びは人々にとってどんなものにも代えがたく、収穫への感謝と新たな生活への願いを神へと託す人々の想いは、この日、いつの時よりも強く示され、ぐっと胸の奥まで響くものでした。
古い聖典は、多くの恵みが与えられるこの時を、神聖で霊的にも深い意味がある重要な時として記しています。それは、厳しい労働の後に手にする収穫の喜びが人々の心を満たすように、苦痛から至福へ、冬から春へと、吉兆な変遷の時として重要な意味を持ち合わせているに違いありません。
「困難は、あなたを真実へと導きます。」苦痛から至福へ、その変遷の中で自己の内に向かう意識はいつしか永遠の至福に留まると、そう述べるスワミジの言葉が今でも心の片隅に残っています。私たちの歩みは常に、自分自身の内にある真実であり、至福、神へと近づくためのものであり、日々の生活の中にある喜びや悲しみ、それらこそが私たちに真実を与え、神と出会うための道を示してくれるのだと、ここでまた人々の姿に気づかされたような気持ちです。
インドでは、この日から祝福に満ちた空間に包まれます。あちらこちらで結婚式などの祭事が執り行われ、人々の笑顔が見られるこの時、太陽と共に、見失いがちないつもそこにある幸せに改めて包まれているような気がしてなりません。この変遷の時に、今もう一度、自分の内の至福を見つめてみようと感じています。
(文章:ひるま)

絆の中で

南インドのケララ州は、インドの中でも際立ってキリスト教が広く普及している地域です。寺院に代わって教会があちらこちらに立ち並び、街を行き交うシスター達の姿を見かけると、まるで、どこか違う国に来てしまったかのように感じることがあるほどでした。
そんなキリスト教の普及活動の中で進められた教育制度の充実によって、社会福祉が他州よりも飛びぬけて整っているこの地域に滞在しながらも、どうしても見過ごせなかったものがやはり貧しさです。そして、12億人を超える人口を抱え、貧困が深く蔓延るこの国がどうやって成り立っているのか不思議に思いながら人々の生活を見ていると、ある大切な答えを見せられました。
社会を秩序よく成立させるための物や制度がない場合、必要となるのは人間同士の助け合いです。特に信頼できる家族や親類の間での協力は必要不可欠であり、古くから合同家族の生活が基盤となっているインドの社会では、今でも多くの物事が家族での助け合いによって成り立っています。
この地を訪れ始めて10年。少しずつ物が増え、以前よりもぐっと生活が楽になっても、家族や人々の間に存在するその絆は決して変わっていないことに気が付きます。そして、神にも深く示されたその目に見えない絆の強さこそが、このインドの世界の精神性を深く育んでいるのだと思えてなりません。
インドの人々が決して怠らない家族と共に行う祈り、そして、その時間の中で家族と共にあるという、ただそのシンプルな日常に人は安らぎを得るのだと感じます。人が神を讃え、神が人を繋ぐ。私たちは何と引き換えに、この上ない至福を手放してしまったのか。ここで暮らす人々の生活がそんな問いを投げかけると共に、重要な事実を教えてくれたように思います。
大切なものを思い出しながら、私は、目に映る光景も、肌に触れる熱さも冷たさも、匂いも音も、喜びも悲しみも、全てを遠慮なく与えてくれるこの国を、心から愛してやまないのだと改めて実感しています。そして、広大なインドをゆっくりと時間をかけて眺めたこの縦断の旅の中で、その多様な文化と伝統の中で誰もが共有する深い絆を見た今、何かと繋がりたいとそう切に願ってやみません。
(文章:ひるま)

新年の願い

ここ南インドのケララ州で迎えた2012年は、暖かな気候に包まれて、とてもゆったりと落ち着いています。ヒンドゥー教徒が大部分を占めるインドでは、3大祭りの一つである「ディワリ(光の祭典。10月頃に行われます。)」がその新年にあたり、日本のように西暦の新年を盛大に祝う習慣はあまりありません。そんなインドでの年明けは、ケララの人々と共に家庭で祈りながら静かに過ごし、改めて自分の内の不変の存在を感じる瞬間の中にいるものでした。
ヒマラヤ山脈や広大な砂漠が広がり、寒暖の差が激しい北インドを離れ、常に温暖で南国の雰囲気に包まれたここ南インドに身を置いている今、いつも以上にゆったりとした時間の流れを感じながら、その時間が止まってしまったかのような空間の中で、スワミジの言葉を思い出しています。
「捕まえようと追いかければ逃げてしまう蝶も、静かに動じずにいれば、向こうからそっとやってきて自分の側に留まります。幸せとは、時にそういうものです。」
不安定な社会の情勢が続く今、私たちの心もまた少なからずその影響を受けています。自分自身をしっかりと落ち着かせ、安定したものとすることは、幸せが留まる土台を築くだけではなく、そこから社会へと幸せと安寧が広がる偉大な術の一つです。人生の目的である、自分の内に存在する永遠の至福を見ることは、この社会の中に決して揺るがない確かな礎を生み出す方法ともなるに違いありません。
歩くことでも、座ることでも、動じない自分自身を築くための精神の統一法はさまざまに存在し、そして広まりつつあります。また、昨年に大きな痛みを経験した私たちの心は、大きく揺さぶられてもそれ以上の強さを得ながら、既に新たな意識の流れを生み出しています。今のこの激動の時世の中で必要なものは、何にでもない、私たち一人一人の存在から生まれる静寂であるのだと、ここで強く感じています。
辛く厳しい年を終え新たな時代へと入る中で、世界中の幸福のためにも、多くの人々が自分自身の内に存在する永遠の至福に気づくことができるよう願った新年、この偉大な国インドはその願いを受け入れてくれたような気がしてなりません。
(文章:ひるま)

インドの車窓から

今、私はインドを北から南まで一気に縦断する旅の中にいます。北インドのリシケシを離れ、南インドのケララを訪れるべく、約3000キロの移動です。移り変わるインドの姿を目にしていると、変化に富んだ美しく広大な風景に心を奪われ、この地に惹かれる理由を改めて実感しています。
列車の窓から見える風景は、インドの持つ多様性を細かく描きながら、人々の生きる瞬間を色濃くしっかりと映し出しています。川沿いに暮らす人々、畑を耕し牛の世話をする人々、都市では車やバイクがめまぐるしく動き、大きな建物が街を覆う、ただその何気ない日々の生活が、迫り来るように生き生きと伝わってくるのは、この土地の持つエネルギーの他に違いありません。
きっと誰もが祈っていた古い時代から、物が溢れ今この時代に失われつつあるその精神性が、この時までもしっかりと生きていること、その祈りや想いが生み出す活力は、偽りのない真のエネルギーです。その世界の中で繰り広げられる究極なまでの聖と俗、富と貧、そして生と死が入り混じる社会の姿は、人間の持つ美しさや醜さをありのままに表し続けています。
その相反するものの中で、この社会が均衡を保ちながら存在するのは、誰しもの内に変わらない真実があるように、この世界の中心に人々を一つに繋ぐ崇高な存在があるからだということも、それは忘れずに伝えています。そんな世界に身を置きながら、幸せや不幸、喜びや悲しみ、愛や憎しみという対立するものの間で揺れ動く自分自身の姿を見る時、何か大切なものにはっと呼び覚まされるような気持ちを抱いて止みません。
真実であり絶対的なもの、そこに近づいていく術を見せるインドの姿を今こうして流れゆく風景として眺めながら、しっかりと自分の内にある変わらない偉大な存在を今ここで感じています。そして、大きな変化があった年を終え、新たな道の中で人々の意識が一つに繋がるよう、この日々の移り変わりを想い、これから始まる一年が素晴らしいものとなるよう心から祈っています。
(文章:ひるま)