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インド音楽

音と色そのものも生きている

古代インド科学音楽と、アーユルヴェーダやヨーガと共通する科学「タントラ」では、私たちが直接的に実感できるものの他に、非直接(非実感)的に体や心に働きかけるものを説いています。ですが、その他にも知り考えるべきことがあります。それは、音や色には、それぞれの立場や主観があるということです。

ご存知のように、ヒンドゥー教には、その他の有名な宗教のような教祖は存在しません。これは、自然に生まれたアニミズム信仰を豊富に取り込んでいるからに他なりません。そして膨大な年月の経験と、驚異的な叡智による探究によって、「ヴェーダ」や「ウパニシャッド」や「タントラ」などの科学を見出したわけです。

アニミズムと言えば「物皆神が宿る」という言葉をよく聞きますが、インド・ヒンドゥー文化には、まさにそのような感覚が豊富にあり、生命体でないものの「擬人化」にも頻繁に出会うことがあります。

私たちは、インド科学音楽を理解したり、アーユルヴェーダが説く「音楽療法」の助けを求めたりしようと思うとき。もちろんヨーガでも瞑想でも同じですが。直接的に実感するものの他に、非直接(非実感)的に体や心に働きかけるものがあることも知り考えるべきであると述べました。これは言わば、日常的に様々な物事を自覚している「私・自分」の他に、感覚的には自覚できないけれど、確かに存在する「もうひとりの私・自分」が居ると考えるようなものです。

しかし、いずれにしても、常に「自分」が受け手という意味の「自己中心的」な発想ではあります。

古代インド科学音楽、アーユルヴェーダ、ヨーガの科学「タントラ」は、「人間本意の科学」「人間のためだけの科学」ではありません。森羅万象、森を探究した結果の科学です。
なので、人間以外の生き物はもちろん、石ころにも砂粒にも、そして音も色も味も図柄も、皆、それぞれに「命」があり、「生きている」存在であるという考え方があるわけです。

例えば「青」に対し多くの人間が清々しさや爽やかさを感じると思いますが、「青」自身にしてみれば、生命が出る処であるとともに、命が尽きて帰るところでもあるような性質で、人間のイメージよりは厳しい性質です。また多くの人間が「緑」に、息吹や安堵を抱くとしても、「緑」にしてみれば、生まれは、「青と黄の融合」であり、「黄」は、「大地」から生じたものであり、「枯れ」「乾き」を表すものでもあり、人間のイメージ「生の象徴」と一致はしますが、結果論ではないわけです。
音に関しても同様で、絶対音感があれば別ですが、人間は突然単音で聴かされても、美しいとも温かいとも厳しいとも感じませんが、サレガマの各音は、独立した個性と命を持った存在に他ならないのです。
実際、インドの神話や音楽の伝承には、音や色の「精霊」が現れるというものは少なくありません。

これらは、何れも人間本意の受け取りか方とは別に、色や音それ自体の存在理由や生い立ちや性質が確立されているということです。

例えば、サレガマの第二音「レシャヴ」は、色は緑ですが、人間に喩えると初老です。人間本意の感覚で「初老」と言われれば、「若干黄色に近いのでは?」「緑は少年か青年では?」と思ってしまいそうですが、人間本意の感覚で定められているのではなく、「緑」の性質と、7音の中の第二音の性質を見ているわけです。
ちなみに、この音と関係するチャクラは、主要チャクラの第二番目の「スワーディシュターナ」ですが、色は「朱色」で、元素は「水」で、水の元素の象徴である「三日月」も描かれます。ここでも「朱色と水」は、人間感覚では結びつかないでしょうし、7音の二番目の「レシャヴ」の緑とも異なります。
このように「タントラ」における色や音の概念は、色彩学の「同系色」とか「反対色」などの人間本意、人間感覚の概念では説明しきれない別な理由で定められているということも理解する必要があると思われます。

(文章:若林 忠宏

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