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インド音楽

34、特徴的フレーズ:Pakad

Indian harmonium, a traditional wooden keyboard instrument

以前から、日本の唱歌「赤とんぼ」「海」を例に説明致しました、各Ragaの特徴的な音の動き・フレイズは、「Pakad(パカル)」と呼ばれます。その他にも、幾つかの呼称と用語がありますが、これが最も基本的なものです。

唱歌「赤とんぼ」ならば、「ラを飛ばしたソドー」「回り込んでソに至る、ミソドラソー、やミラソー」「一気に二音も飛ばすラドー」「一転して細かなソラソミ」「旋回してからドに帰着するドミレド」などがそれで。
唱歌「海」では、「勢い良く回り込んでドに至るラレドーやソレドー」「ラを飛ばしてレという非帰着音で終始するソドレー」「主音ミを中心としたミソミレド」などが「Pakad」ということが出来ます。

この他、原曲に無かろうと、「赤とんぼ」では、「ミソドラソー」からは、「ソドラソー」「ミソミソドラソー」が創り得ますし、複合型の「「ラソドラソ」「ソラソミドラソ」なども有り得ます。

つまり、「Pakad」を充分に理解していれば「一を聞いて十を知る」がごとく、新たな「Pakad」を見出すことも可能な訳です。尤も、以前にも述べましたように、「Ragaは精霊である」訳ですから、「Ragaに弾かされている」とも言えます。

この「Pakad」の存在が何を意味し、Ragaに何を与えるのか? もしくは、私たち人間に何を伝えるのか?

少なくとも直ぐ分かることは、RagaおよびRaga音楽歌唱(演奏)は、音階を基にして作曲されるものでもなく、音階を用いて即興演奏するものでもない、ということです。何故ならば、「同じ音階でもPakadが異なればRagaが異なる」からです。

もちろん、ジャズやブルース、ロックの即興演奏でも、ある種一定のムードというものが維持されているはずです。が、厳密に理論的、論理的に説明は為されないはずで、理論的に論じられるとしたら、それは「コード進行」に応じた音の使い分けであったり、転調感を出すための技法であったりです。

そもそも音階(Scale)が同じであれば、ジャズの即興の最中に、唱歌「海」と「赤とんぼ」が交互に出て来ても、混ぜてしまっても問題は無いはずですし、興が乗れば短調の四七抜調に転調しても「面白み」ということになるでしょう。が、インド科学音楽~古典音楽ではありえません。

極端な言い方をすれば、ジャズやロックに於ける「音階や旋法の変化や転調」は、「面白み(楽しみ)」のために、「それ(音階・旋法)」を或る種の道具(素材)としていじくり回しているようなものです。

それを「それ(音階・旋法)」の立場で考えれば、「たまったもんじゃない!」。極めて失礼。それどころか陵辱的であるとさえ言えます。従って、インド科学音楽では、「精霊であるRaga」に対してそのような冒涜は厳しく禁じられているのです。否、ここで大切なのは、「禁忌であるか否か」ではなく、そもそもの理解と分別、精神性、意識の問題です。

もちろんインド古典音楽でも、「面白み」を全く否定している訳ではありません。また、そのようなことが可能な軽いRaga(Khurshid/Kshudra)」と、全く許されない重たいRaga(Asharya/Vachak)は明確に区別されています。

例えば面白みのひとつとして、「Raga-Malika(ラーガ・マーリカ)」と呼ばれる「Ragaの転調」をむしろテーマとした演奏法があります。3~5のRagaに次々に移行してゆくのものです。
ですが、如何に関連のRagaを巧みに繋ぐかという理論的理解度、如何に自然に、かつRagaの本質を見事に表出させられるかの技量と音楽性が求められるもので、遊び心があるとは言え、かなり真剣な芸なのです。また、上記のような理由で、どんなRagaでも起用できる訳でもありません。

この例外のことをも含めて考えると、「Pakad」は、或るひとりの人間の物語や歴史を紹介するドキュメンタリーのように、Ragaの物語を語るためのエピソードのようなものと考えると分かり易いのではないでしょうか。そもそも、前述のようにRagaは命や性格がある「精霊」なのですから。

ところが、ややここしいのは、この「特徴的なフレイズ:Pakad」は、常に厳格に守られるべきでもないことです。

以前から喩えに上げている日本の唱歌「海」と「赤とんぼ」の場合、元来インド音楽のRagaとして生まれた訳ではありませんから、その特徴は、かなり厳格に守らねばRaga音楽にはなり得ませんが、Ragaによって、およびPakadによって、その厳格さにはかなりバラツキがあります。

例えば、言わば「ハ長調」とも言える音階を用いる「Raga:Bilawal(ビラーワル)」の場合、しばしば「ソラシドー」と行かず、「ソシラシドー」や「ファミレド」と行かず「ファミファレド」の様な動きを見せます。が、このRagaの場合、「ソラシドー」も「ファミレド」も間違えではないのです。
言い換えれば、「ソシラシド」や「ファミファレド」は、「贅沢で豪華な装飾品の様なフレイズ」であり、言わば「洒落」なのです。

また、別な説き方で言いますと、「Pakad」は、紛れも無く「常套句」であり、もし、Ragaの精霊自身が言葉(音/フレイズ)を発するとした場合の「口癖」であり、「決まり文句」な訳です。
従って、私たち「Raga演奏家」は、言わば「Ragaの精霊の物まね(形態模写)」からスタートし、理解と具現が向上するに応じて、その質が高まり、本質(Prakriti)に迫って行くことが「本懐」なのです。

逆に、「物まね」の段階では、「このセリフを言えば○○さんっぽい」のレベル程度なのです。実際、プロの演奏家でもそのレベルという人は少なくなく。むしろ「お笑い番組の物まね」のように、「っぽい」ことや「デフォルメ」の方が「一般ウケする」ということはあります。

しかし、真摯に「Ragaを具現(精霊を降臨)する」ことを目指すのであるならば、その「ことば」は、時と場合や脈絡、文脈に応じて変幻自在に(自然かつ必然的に)変化(使い分ける)べきであることは言う迄もないことなのです。

「Pakad」によっては、「洒落」であったり「本音」であったり、「とっておきの決めセリフ」だったりしますから、
それらを理解も考えもなしに羅列してしまえば、その「Raga(という人/存在)」は「変な人!」「意味が分からない!」となってしまうか、それ以前に、「言葉に重みが無い人」と同じになってしまいます。

勿論、それら全て私たち演奏家の責任であり、その結果は、私たち演奏家そのものの実態・事実なのですが。

何時も、最後迄お読み下さってありがとうございます。

(文章:若林 忠宏

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