前回も少し話題に登り、この連載のVol.44でも逸話をご紹介しました、16世紀デリー宮廷でアクバル大帝の音楽教師も勤めた宮廷楽師長のミヤン・ターンセンは、前述しましたように「ルードラ・ヴィーナ」の名手と「古典声楽:ドゥルパド」の名歌手でした。(ドゥルパドの中興の祖とも言えます)
逸話でも紹介しましたように、ターンセンは、イスラム支配時代にもヒンドゥー文化を固持した西北インド・ラージプートのヒンドゥー藩王国の楽士に学び、中部インド・ヒンドゥー藩王国グワリオールの宮廷でプロデビューしました。イスラムへの改宗はその時と言われています。
彼はイスラム教正派スンニーの信徒でありながら、ヒンドゥー聖人とスーフィー聖人の師匠を持ち、長女の名はサラスワティーとしました。その娘の婿がグワリオールから引き抜かれた「ルードラ・ヴィーナ」の名手で、以後娘と婿で、「ルードラ・ヴィーナ」の系譜を継ぎ「(ターン・)セニ・ヴィーンカル派」と言われます。
一方ターンセンは、300年前のデリー宮廷の楽聖アミール・フスローに倣ったのか? 同様に中央アジアの音楽にも関心があったようで、パミール高原の大型三味線「ルバーブ(Rubab)」にヴィーナの「サワリ駒(ビヨーンという独特な響きになる)」を取り付けた新楽器を考案します。恐らく単にインド発音で「ラバーブ(Rabab)」と呼ばれていたのでしょうが、後に「ターンセン・ラバーブ」とも呼ばれます。この系譜は次男(長男より腕が立ったらしい)ビラス・カーンらに受け継がれ、以後「(ターン・)セニ・ラバービヤ派」と呼ばれます。
そして、「ターンセン・ラバーブ」が、「古典弦楽器のステイタス」を得られたのは、宮廷楽士長が創作したから以上に「ヴィーナのサワリ(日本語)駒」という「ステイタス」を得たからに他成りません。シタールがそれを得るのにはその後200年近くかかります。
「サワリ」は日本の三味線・琵琶に言われる言葉で、意図的に弦に棹や柱(フレット)や駒の部分が触れるように作られており、それによって単純な振動が複雑化し、倍音を豊富に含み、その助けも得て自ら共鳴しながら余韻を伸ばす仕組みです。偶然にも似た言葉でインドでは「ジャワリ」と言います。声楽用伴奏弦楽器の「タンプーラ」には、弦とサワリ駒の間に更に細い糸を挟み余韻を倍増させていますが、旋律楽器の場合、フレットを抑える場所によって弦長も角度も変わるので、その都度糸の位置を変える訳には行かないので使いません。タンプーラの糸は「ズィーヴァン(命_)」と言われますから、古典音楽が如何に「余韻」を求めていたかが分かります。
そして、この「余韻」こそが「古典音楽のステイタス」である訳です。
その理由は、インド音楽は伸ばされた余韻や音の中で装飾音が着けられることが圧倒的な特徴であるからです。そうでない西アジア以西、中国以東の楽器の場合、むしろ装飾音は弦を弾くのとほぼ同時に掛けられます。西洋音楽用語で「前打音」と言われる所以です。ところがインド音楽の場合、伸ばした音(声)の後に「アーーー〜〜〜〜」のように着けられるので強いて言えば「後付装飾音」と全く逆の発想になります。そしてその技法こそが古代音楽の継承者であることの証であり、西域渡来の大道芸や花柳界音楽との格の違いの見せ所だった分けです。
なので、「ターンセン・ラバーブ」は、ヴィーナの駒を付けたことで古典音楽楽器となった訳なのです。ただ、尤も「ターンセン・ラバーブ」の弦は、太い羊腸弦なので、「サワリ効果」は、金属弦の数割程度です。それでもサワリが無い場合よりは五倍以上余韻が長いのです。金属弦に変えなかったのは、恐らくターンセンが、シルクロード・パミール高原のオリジナル楽器の羊腸弦の「重低音」に大きな閃きを感じたからでしょう。巻弦という弦の回りに極細のコイルを巻いて太さの割に重低音が出るように工夫するのは早くても19世紀末頃でしょうから、金属弦で1mm以上もあると音程も音色も定まらず、何より抑えるのが一苦労。楽器演奏に関しては苦労を惜しまないインド人も流石にお手上げだったのでしょう。羊腸弦は金属弦より音量は半減しますが、同じ太さなら5度からオクターブ程も低く調弦出来ます。
これによって、ターンセンは、ドゥルパド系器楽を男声の音域で弾くことに成功し、より重厚なものにした訳です。
(文章:若林 忠宏)
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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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