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インド音楽

即興演奏とエゴイズム

drums

インド科学音楽と古典音楽は、近代の南インド古典音楽を例外として、極めて即興性の高い音楽です。しかし、その即興性は、「思うがまま」「意のまま」というものではなく、厳格な法則に基づいたものなのです。私はこのこともレクチャーコンサートでは、日本の唱歌「赤とんぼ」と「海」を例に実際インド弦楽器シタールで弾いて説明しています。

「海」という唱歌は、「ドレミのミから始まり一気に下降する」「ラレドーやソレドーという大きく巻き込むような動き」という珍しい特徴を持っています。一方の「赤とんぼ」は、冒頭で最低音から最高音まで一気に上昇し、「ソドラソー」のような急な上下行や、「ラドドー」と大きな幅で急降下したかと思うと「ドラソラソミ」のような隣り隣りへのジグザグな細かい動きもみせます。

この二曲は、いずれも「標題音楽」ですが、偶然か、作者の天才的叡智か、上記の動きの特徴は、正しく「海の波」であり、同じ広場に留まり自在に飛び回りつつも、蚊などを捕食するため急激な動きの変化を見せる「赤とんぼ」の様子そのものです。

ところが、このように、明らかに定義つけることができる「音の動きの特徴」を同定し、それに基づく即興のデモ演奏をやってみたとき、それは最早、私自身が「海」や「赤とんぼ」をイメージして表現するというものではなくなるのです。

あくまでも原曲の「海」と「赤とんぼ」が持つ音の動きの特徴を法則として捕らえ、原曲には無いけれど矛盾しない新たな旋律を即興的に演奏してみせるのです。言うまでもなく、それは原曲が持つ「標題性」を失い、原曲の法則の具現が目的の「絶対音楽」となるわけです。

例えば、「海」の特徴的な動き「ラレド」と「ソレド」は、全く異なる方向性を持っています。「ラレド」は、その後に「ソ」が来ることが大前提であり、「ド」に辿り着いたとしても帰結しないのです。「ド」に帰結したければ「ソレド」を取らねばなりません。また「ラ」は、そのような未完成な動きの経過音として重要ですが、「ソラド」の動きは禁じられます。さすれば、原曲に無くとも「ソラソレド−」は有り得ますが「ソララレドー」は有り得ないばかりか、誰が聴いても違和感を覚えるに違いありません。このようなことを熟考、熟知して即興を繰り広げるのがインド科学音楽の「Raga(ラーガ)」の世界なのです。故に、即興演奏とは言っても「意のまま」「感情のほとばしり」のようなわけにはいかないのです。

もちろんインド科学音楽や古典音楽のプロであるならば、まるで「意のまま」「感情の赴くまま」のように自在に弾くに違いありません。しかし、それはもの凄いスピードでラーガの法則を考えているのです。もちろん、手が勝手に動くほどの練習を積んでいることもありますが、そればかりではありません。

実際は、練習したことしか出来ない、しないプロも少なくありませんが、昔気質の演奏家には見破られるに違いなく(緊張感が全く違いますし)、そのような演奏は、自らの恥どころか師匠や流派の名誉を傷つけるものでした。

ところが、ラーガを知れば知るほど、分かれば分かるほど、難しいと痛感させられる一方で、「何か(誰か)に弾かされている」という不思議な実感を多く体験するのです。

上記の「海」で、「ラレド」と弾けば、自ずと「ソ」を取らざるを得ない。もしくは、「ラレドーララレドー」と復唱するしかない。そのような選択肢が無数に積み重なってゆき、その即興演奏を何度も繰り返してゆくと、全く新鮮な組み合わせに遭遇することもあれば、全く新しい、弾いたことがないような音の動きにも遭遇するのです。しかし、その「Raga」の個性や全体的な「色合い」は、汚してないのです。

まるで自分の手が勝手に。言わば「手が勝手に意のままに」なので、そこには、演奏者の意図や恣意はほとんど存在しないのです。

これは正に「無我の境地」であり、自らの感情を表現する「標題音楽」的な即興演奏のエゴイズム、自己中心の世界とは全く異なる世界なのです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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