古代インド音楽とチャクラの関係

Meditation time

「樹を見て森を観ない」という言葉がありますが、逆の言葉は何でしょうか? 仮に「樹に捕われず、常に森を観る、感じる」であるとしたら、昔気質のヒンドゥー音楽家は、まさにそれだと言えます。彼等は常に「森=宇宙」を感じながら音楽を奏でていたのです。
 ちなみに「樹を見て森を観ず」は、英語の諺の訳と言われていますが、仏教の言葉にもご存知「森羅万象」というものがあります。
 凡人がぼーっと空を眺めても何一つ無いように思う「宇宙」を、樹がおおい茂る壮大な森林に喩えた言葉でありますが、「森」を人間社会のサイズから遥かに越えて「宇宙」にまで広げて感じるのは、アジアならではの感覚なのかもしれません。

 この連載をお読み下さっている、インドのスピリチュアルの世界、ヒンドゥー教文化、そしてヨーガに関心の深い方々は、宗教、ヨーガなどの用語や考え方とインド科学音楽のそれに、色々な共通点があることにすでにお気づきのことでしょう。

 それらはいずれも、何かの仕組みを何かに転写させる基本的な考え方によって共通しています。例えばヨーガの場合、「宇宙」を人間の体や心に転写させ、いわゆる「小宇宙」をひとりの人間の中に見出します。同じように、中医・漢方医学の弁証論治や、古代ギリシアの「エートス論」、「アーユルヴェーダ」に含まれるインドの音楽療法などでも、「宇宙」や「地球」と「個々の人間の心と体」を転写させ、準えて説きます。 この発想こそ「樹に捕われず森を観る」そのものと言えます。

 言い換えれば、「一本の樹」の中に、「森、森羅万象、地球、宇宙」を観る訳ですが、「じゃあ、樹を見て森を観ずでも良いんじゃ?」とはならないところがミソです。森を知り、分かり、感じて樹を観るのと、そうでないのでは大きく変わって来るわけです。
 そうして、小さな世界から大きな世界を感じ展望すること。常に、それらは相関関係にあると理解し、感じていることが、ヨーガのみならず、インド音楽の理解にも欠かせないないのです。
 
 世界最古の「音楽療法」が含まれていると言われる、「アーユルヴェーダ」では、(と言ってもやはり諸派諸説ありますが) 音楽の「7音」は、主要の「七つのチャクラ」と符合します。そして、中世以降のインド音楽のオクターブの音「12の半音」は、アシュタンガ・ヨーガなどが説く「12のチャクラ」と符合します。「22の微分音」は、音楽の方でも廃れてしまっていますから、「アーユルヴェーダ」でも「ヨーガ」でも、同様に廃れてしまった「22のチャクラ」を説く学派もあったのかもしれません。
 数の一致にもまして驚くべき符合が、主要の「七つのチャクラ」と音楽の「7音」の順番までもが同じであることです。

 また、ヨーガで最も重要な用語である「プラーナ(気)」と、その通り道「ナーディ(気脈)」も古代インド科学音楽と共通の概念から生まれていると考えられます。

「Nadi(管)」は、音楽における「音」の原形、「Nada」と深い関わりを示唆しています。つまり、プラーナも、スワルも、宇宙の波動、「ナーダ」が、一方は人間の体の中に伝わり、同期、同調し、一方は、肉声や楽器の音に伝わり、同期、同調しているということなのです。
 故に、常に「森、宇宙」との繋がりを持つことで、インド科学音楽は、成り立ち力を持ち、ヨーガ同様に、人間の心や体とも深く関わることができるわけです。
 だからこそ、アーユルヴェーダの音楽療法の理論が確立し、実践で効果が見られるわけなのです。

 しかし、「アーユルヴェーダ」は、ヨーガや科学音楽よりも中世イスラム勢力のインド支配時代に大きな打撃を受けてしまい、今日まで正統的な伝統の全体像をもれなく継承しているところはほとんどありません。しかし、少なくとも昔気質のヒンドゥー教徒の音楽家は、常に「Swar」の大元の「Nada(ナーダ)」の概念を忘れることはありません。言い換えれば、常に自らを「受信器」として自覚しているのです。腕を上げるとつい「自分が発した音」であるなどと思ってしまう思い上がりを戒める為にもある言葉が、「Nada-Brahma(ナーダ・ブラフマ)」「音は神(のもの)である」というものです。「宇宙の波動」という意味と、「宇宙=神」という意味を合わせて「音は宇宙である」という解釈をする音楽家もいます。

(文章:若林 忠宏)