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インド音楽

「ターラ」の第一拍目は、シヴァ神の領域

Statue of Shiva Nataraja - Lord of Dance at sunlight

インド科学音楽および古典音楽のリズムサイクル「Tala(ターラ)」では、その第一拍目は最も重要な拍で「Sam(サム)」と呼ばれます。「Sam」は、Veda経典の中の音楽経典ともいえる「Sama-Veda(サーマ・ヴェーダ)」で知られる「讃歌」の意味合いが有名ですが、おそらく「Tala」における「Sam」は、「一致、等しい」「集合、帰結」などの意味合いと思われます。
そして、インド音楽を他の音楽と大きく隔て特徴付ける点が、インド音楽は、「必ずサムの拍で終る」ということです。

正確には、ターラがサムで終ったのち、歌い手や、弦楽器は、リズムの無い余韻のように音を流すことはありますが、太鼓は、最後のサムで静止した後、決して叩かれることはありません。

これは言うまでもなく、「創造と破壊の神シヴァ神」の領域です。「破壊は新たな創造の第一歩(始まり)」つまり、「終わりは始まり」ということなのです。
そして、これも言うまでもなく、リズムサイクルは、「輪廻」そのものに他なりません。

例えば「4+4+4+4の16拍子」を細長く短冊に切った紙テープで表現しようとするとき、1cmを1拍にして、16cmでは駄目なのです。
「4.5拍子から0.5拍子刻みで108拍子まで」あると言われる「ターラ」の全てにおいて、「1サイクル」を示したり演奏したりする場合、必ず「Sam」で終りますから、「○拍子+1(Sam)」でなければならないのです。なので、16拍子を表す紙の短冊は、17cmでなくてはならず、最後の1cmは、最初の1cmと貼り合わせる「糊しろ」なのです。そして出来上がったものは、輪に繋がったものとなるわけです。

この「サムで終る」という感覚は、様々な点で共通性の高いオリエントの音楽や、古代インド音楽の弟子でもあるはずのインドシナ半島やインドネシアなどの東南アジアの音楽とも異なる、インド音楽独特の性質であると言えます。
東南アジアなどの音楽が「サムで終らない」のは、それぞれに深い理由があり、音楽的輪廻構造の解釈の違いがあるのですが、ここではややっこしいので説明を割愛します。
オリエントの音楽は、何となく尻切れに終るのが好みのようでもあり、イメージ通り、砂地に消えて行く感じです。具体的には、16拍子だとして、最後のサイクルの12、13拍目あたりからゆっくり(リタルダント)して、13、14拍目くらいでなんとなく終わり音を伸ばし(フェルマータ)で流します。

日本の音楽も同様で、何度か例に挙げています唱歌「チューリップ」や「もみじ」も、「4+4+4+4の16拍子」のようでありながら、インド人には堪え難いほど気持ちの悪いところで終ります。「チューリップ」の最後のサイクルは、「どのはな/みてもー/きれいだ/なーーー」ですし、「もみじ」は、「すそもよ/おーーー」で、インド音楽的に解釈すれば、「16拍子の13拍目で終った」ということで、有り得ない終り方なのです。むしろアラブ的とも言えます。
もしこの唱歌をインド音楽にするならば、「チューリップ」の最後は、「きれいだ/なとおも」「うーーーーー」にせねばならず、「もみじ」は「すそもよ/おのよう」「だーーーー」にせねばならないのです。

このように徹底した「サイクル感」は、正しく「輪廻」の発想と同じなのですから、同じリズムサイクルを厳守するオリエント、北アフリカ、西アフリカ、カリブ海とは、この「サムで終る」という点で全く次元が異なってくるわけで、インド音楽のリズムの観念を極めて個性的に特徴つけている点である、と言えます。

(文章:若林 忠宏

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