159、アーユルヴェーダ音楽療法入門21(そもそも精神世界とは?-その8-)

日本に於ける精神世界文化の始まり-後編-
3、「形から入る日本人」の「形」の定義とは?

よろず「形から入り、形にこだわり」そして「形だけで終わる」ことが多い日本人。

それでも、インド文化以外では、かなり複合的なカルチャー取り込みの姿を見せていました。

例えば1960年代のサーフィン・ブームでは、単にサーフィンに興じるだけでなく、ファッションから聴く音楽、食べもの、飲み物迄かなり統一されたこだわりがありました。70年代前半のハード・ロック全盛の頃は、食べもの、飲み物迄には至りませんでしたが、髪形・服装はかなり大事な要素でした。(この私でさえユニオンジャックのロンドンブーツを履いて居た)

ところが、70年代後半から一気に流行した筈の「精神世界ブーム」では、書店でブックフェアーが開催される割には、菜食主義の割合も低く、音楽に至っては、「インド音楽である必要」さえも全くなく。(まだヒーリング・ミュージックもさほど出回っていなかった)。老舗のヨガ教室さんとは70年代からお付き合いがありますが(BGMを担当させて頂いたところもある)、「精神世界ブックフェアー」以降、急激に生徒が増えた、ということでもなかったのです。

そして、2000年以降の「第二次ブーム」でも、音楽は相変わらずの「ヒーリング系合成音楽」で、電子音、金属音でもおかまいなし。アメリカ系の素材に飛びつく傾向も、大昔と変わらない。
何故か、「サーフィン・ブーム、ハード・ロックブーム」の頃の「形にこだわる」ことさえないのです。もちろん、同時代に隆盛した「価値観の多様化」「人それぞれ観念」の影響もありましょうが、何かもっと根本的なことが欠けている(ズレている)ように思えてなりません。

4、ラジニーシの言葉
wikipediaは、便利だけれど「誤情報も多い」という話もあれば、「世界が監視しているのだから、そこそこまともだろう」という意見もあります。実際「一般の最低限の基礎情報」として確認する価値があろうとしても、「肝心なこと」は、分からないことは事実です。が、それを言ったらネット情報で「肝心なこと」は、ほぼ全く得られないのも事実ですが。それでも時々「ほう!」と思わされる(千に一程度かも知れませんが)ことがwikipediaでもあります。

wikipediaが紹介している、前述の私の店でも売っていた、バグワン・シュリ・ラジニーシの言葉には、「なるほど」と思わされました。彼が、インド思想家の大先輩たちと、当時の世界のフリークたちを、淡々とながら、痛烈に否定している文言です。

それらの中から、まるで昨今主流のの枝葉意識のように「都合のよい部分」だけを抜き出して要約して挙げてみます。

「情報・知識を欲しがるのは、エゴイズムの餌だから」の言葉には、「言ってくれたね!」とさえ思いました。

世界で活躍し、インドでも評価を得ていた著名なヨギのラーマ・クリシュナ(Shri Ramakrishna Paramhansa/1836~1886)に関しては、「多くの人たちが感動し、歓喜の涙を流した。だが、それが彼らを変えることはなかった」と述べ、ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti/1895~1986)に関しては「多くの人が40年以上にわたって彼の言葉に耳を傾けてきたが、彼らの意識にはなんの変化も起きていない。クリシュナ・ムールティは知識人の玩具になったに過ぎない。人々は、クリシュナ・ムールティから仕入れた知識によって愚かさを隠すことができるようになっただけである」と強烈なことを言ってのけています。

興味深いのは、クリシュナ・ムールティが「人々の知性に訴えた」と評したのに対し、シュリー・ラマナ・マハルシ(Shri Ramana Maharshi/1879~1950)は、「人々の感情に訴えた」と分別しているところです。ラマナ・マハルシの方が20歳先輩ですから、先ず「Heart:Manomaya-Kosha(気分感情領域)に訴えた」ということになります。しかし「何も変わらなかった」。
そしてクリシュナ・ムールティは「Mind:Vijnanamaya-Kosha(論理思考領域)に訴えた」しかし、それは「まるで玩具遊びで終わった」というのです。

つまり、この時代(20世紀初頭)既に、大衆の「Mind:Vijnanamaya-Kosha(論理思考領域)」は、ほとんど「Manomaya-Kosha(気分感情領域)の感情系循環思考」に侵食されていた、ということでしょう。でなければ、クリシュナ・ムールティほどの聖者が、「Herat(感情)とMind(思考)」を見間違えることは考えられないからです。

かく言うラジニーシ氏は、「どのような手法」を試みたのか? そして「(彼の言う次元に於ける)変化を与えることは出来たのか?」。

先人たちの努力の虚しい結果について、「瞑想、意識をはじめとする多彩なテーマについてこと細かに議論する。とても有能で利口になっている。だが、あい変わらず凡俗であり愚かである」と言い切り、「変えられなかった理由」について、「彼ら(聖人たち)はあえて人々の人生に踏み込もうとしなかったからだ」と述べています。
その一方で、ラジニーシ氏自身は、「踏み込む」という手法であったことを示唆しています。同時に「人を形作っている多くの部分を削り落とす必要がある」「それにはハンマーを使わなければならない」という過激なことも述べています。

5、自発性・内発性以外に道はない
自分の店で20年販売していた位ですから、ラジニーシ氏の書籍やヴェーダーンタ文庫のナラーヤン内垣氏が要約したバガヴァドギータなどは、読むべき書籍と今も思います。しかしラジニーシ氏自身が述べているように、「読んで感動した」だけでは「知識・情報の玩具を与えられ満足するだけで『何も変わらない』。否、唯一変わったところがあるとしたら『知識情報で己の愚かさを隠す知恵・技』を身につけたことだろう」で、むしろ以前より性質が悪いとも言えます。

具体的な手法はともかく、そこでラジニーシ氏は、「規制の精神性・観念を打ち壊す」必要を説いているのです。

しかしこの考え方は、数年遅れて、日本で急速に成長し、後に大量殺戮事件を起こす教団も同じことを説き、過激に信者の人格を破壊しました。そのことの是非を「社会的結果論」や「社会的評価」に則ってこのコラムで述べるつもりは毛頭ありません。しかし、このテーマは、精神世界の長年の大きな課題でもあったことは事実です。

ラジニーシ氏ほどではないとしても、その前から、往年の聖者たちは異口同音に「知識だけで終わって何も変わらない」ということは説いて来ました。そして、多かれ少なかれ「個々の人間の人生観・生活観に入り込む必要性」と「既成の観念や常識」及び「依存している観念や理念」との「決別」。ある種の「それらの破壊」も説かれて来ました。

しかしそれらの考え方・やり方が「反社会的」として弾圧される以前に、それら自体が「成果」を見出せなかったことも事実です。その結果、それらのやり方は、「成果が得られない理由・原因=犯人」を更に「社会」に求め、より一層「反社会的様相」を色濃くして行ったのも普遍的事実です。

しかし、根本的な原因は、個々の人間の「依存気質」にあることは明らかです。往年の聖人の説法が、「表層的な知識・お飾り」で終わるのは、人間が「既成観念」に執着依存しているからに他ならないのです。ところが、それを「引き剥がす」とその人間は「無個性(非自立性・非自律性)」になってしまい、社会の規則に反するか否か以前に、既に「現世の社会人」としての存在感を失っているのです。
これは果たして「悟り」なのか? 単なる「逃避の果ての虚脱」なのか?もまた長年の課題です。

今回特に申し上げたいことは、ラジニーシ氏が述べた「何も変わらない(むしろ悪くなった)」というテーマです。これは「個々の人間の個人的結果論」としては、重要なテーマな筈です。

「宗教や信心」と「社会的全うな人間像」との「せめぎ合い・諸刃の剣」の課題に加えて、「個性ある人間像」と「社会的普遍性」もしくは「宗教的無個性」の「せめぎ合い・諸刃の剣」の課題もあります。しかし、それらを超越した「解決策」があるはずです。

例えば、ヴィヴェカナンダ師が説いていた「論理の助けによって、自分と向かい合う」という手法は、別な結果に至れる可能性が高いそのひとつに違いないのです。
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ラジニーシ氏がヴィヴェカナンダ師をどう評価したかの文言には未だ辿り着いていませんが、ヴィヴェカナンダ師の晩年で既に、その思想を曲解する門弟や取り巻きも現れていましたから、ラマナ・マハルシ、クリシュナ・ムールティーと同様の結果であったことは容易に想像がつきますし、そもそも「論理思考を失う人間」が、20世紀~21世紀に急増していること自体、ヴィヴェカナンダ師の主旨が曲げられて広められたことは明らかです。

また、問題は、「Anandamaya-Kosha(歓喜鞘)」の解釈と取り扱いにもあります。そもそも紀元前の「Kosha論」では、人間は、「健全な5鞘」を備えてなければならず、19世紀の「ヴェーダーンタ論」の「梵我一如=不二一元論」も、その基本が絶対な上でのことです。

しかし民衆の「厭世観・責任転嫁」は古代から執拗で顕著なのでしょう。「5鞘の健全さ=我の鞘は健全であるか?」という「自分との向かい合い」と「鞘(城壁、言わば殻)の強靭さ(同時に利害・善悪を見極めた門戸開放やブロック機能)の鍛錬」などという自分自身の努力よりも、「他力本願(俗的な語法としても仏教本来の意味としても)」に頼り「安直な楽・開放」を求めるのが常だった訳です。

それが20世紀に至り、戦後はより一層、とりわけ1980年代以降、「鞘(殻)など要らない」という観念が決定的になってしまえば、古代からの人間の性(特に何かに依存しようとする志向)は、「はばかることを知らない・恐れを知らない」ほどに隆盛してしまって当然だったのです。
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奇しくも「あの人は心に殻を作っている」とか「殻の中に閉じ篭っている」などと、良くないことのように言い「オープン・マインド(※)が素晴らしい」などという風潮も1980年代に隆盛し90年代に確立したのです。

(※)一見「美しげな言葉」ですが。語彙的には実にクレイジーな言葉「オープンマインド=解放された思考」=正に「あっぱらぱー」に他なりません。

「ヴェーダーンタ論の梵我一如=不二一元論」も、ラジニーシ氏が述べた「何も変わらない」という問題も、非社会的教団が破壊した「人格」も、いずれも「二足歩行」ではなく、「一足歩行」のような無理・無茶があるのです。

その「二足」とは、言うまでもなく「鞘(殻)の強化・領域毎の機能活性」があった上での「ヴェーダーンタ論・梵我一如=不二一元論」に他なりません。

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何時も最後迄ご高読をありがとうございます。

福岡市南区の自宅別棟楽器倉庫の教室では、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行っています。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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是非ご参考にして下さいませ。

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(文章:若林 忠宏

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