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雑記帳

聖典が繋ぐもの

ヒンドゥー教が人口の大多数を占めるインドであっても、南部のケーララ州やゴアなどはキリスト教徒の割合も高く、美しい教会を目にすることが多くあります。大都市などでは、クリスマスもまた祝福される様子が見られるようになりました。さまざまな思想や宗教が多様に混在しながらも、均衡を見せるこのインドの社会には学ぶことが多くあります。
「神の詩−バガヴァッド・ギーター」において、またヨーガの経典「ヨーガ・スートラ」においても、私たちはさまざまに沸き起こる思慮を静止し、真実に心を定めることが大切であると説かれています。そうでなければ、真実から心が離れ、さ迷い出る際に生じるさまざまな思考によって、迷いや疑いを経験せねばなりません。
時を超えて古くから伝えられるこれらの聖典には、永遠に変わることのない真実が記されています。そしてこのインドの地でさまざまな聖典に触れながら、それが宗教という垣根を超えて存在していることに気づく瞬間があります。例えば聖書において、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」(ヨハネの黙示録 / 1章8節)と記されています。
始まり(アルファ)であり、終わり(オメガ)である―時を超えたその領域を理解することは、ヨーガの修練においても必要不可欠のものに他ありません。それは、そこがまさに神の宿る場所であり、ただ「在る」という私たち個々が存在すべき住処でもあるからです。
過去や未来という存在しない瞬間へと向かう思考によって、私たちは神の宿る場所、その自らの住処を見失う瞬間に溢れています。思考を止め、自身をその神の宿る場所に結ぶことは、ただ「在る」ことであり、ここで悟りと呼ばれ、人々が求める究極の境地に他ありません。
思想や宗教を超え、古代の叡智には真実がただ一つ、述べられています。今こうして湧き出るさまざまな思考を超えて、個々の心がその真実のみに定まるならば、世界もまた一つに留まるに違いありません。聖なる時を迎えようとしている今、改めて、一瞬一瞬が神聖な瞬間であることに気づきながら、そこに自身を繋いでいたいと願っています。皆さまにとっても、祝福に満ちた時となりますことを心よりお祈りしております。
(文章:ひるま)

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