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インド音楽

84、声楽家の陰:Sarangi (2)

サーランギーが、独奏するようになったのは、殆ど戦後も1960年代になってからのことと言われます。ただ、戦前に唯一の例外があり、それは、結局は分離独立でパキスタンに移った巨匠:ブンドゥー・カーンでした。彼は、良くも悪くも「狂人的」と言われるような人で、悪意も他意も無いのですが、演奏の度に「ラーガの精霊」が降りて来てしまい、精霊との向い合いに集中してしまえば、主人である「声楽家」を立てる「黒子、職人」であることさえ忘れてしまい、毎度「声楽家」を遥かに凌いで「ラーガ」を表現(正確には降臨的な具現)してしまい、(余程の名人以外)誰にも使ってもらえなくなったのです。
それでもインド知識人、音楽ファンの強い要望があって、ソロの演奏会が持たれるようになった訳です。もちろん、前述のサダーラングとの共演を王に命じられたサーランギー奏者もブンドゥー・カーンと同様の人だったのかも知れません。

「御殿を建てるチャンスを失った」私の師匠も、ブンドゥー・カーンもイスラム教徒ですが、「ラーガの精霊」と出逢ってしまった音楽家は、精霊を傷つけることは出来ないのでしょう。少なくとも精霊のことを半分も理解出来ていない声楽家や器楽奏者、そして聴衆の前で、適当な振る舞いを精霊に要求するという、言わば「見せ物」とようなことは出来なかった。
ラーガの世界(これこそがインド科学音楽ですが)は、ヒンドゥー教徒音楽家だけが理解出来るものでもないのでしょう。

その一方で、サーランギー奏者には、「黒子、職人」としての強い求めもあり、同時にそれは奏者にとっての誇りでもあり、重責でもあったのです。

日本の三味線屋さんの昔の話しで、「演奏が終わり緞帳が居り切った瞬間に破けた場合、とてつもない金額のご祝儀が出た」と言われます。
それは「より強く張れば音は良いが、本番中に破けたらおじゃん」しかし、それを心配して「緩めに張れば」それもまた音が冴えない。そのギリギリを狙うと三味線屋は、「命が削られた思いがする」と言います。それを語った私の三味線屋の師匠は、「名人の皮」を張る時には、「一月前から酒を断ち、身体を整えて臨んだ」と言いました。
つまり、自らを「黒子、職人」と誇りを持つと同時に、お客の「名人」とそうでもない演奏者との分別がかなり厳しいのです。或る意味でこの分別は差別であり階級であり、身分・格なのです。それが「公平だ平等だ」で、ごっちゃになってしまうことで失われる精神性や技もあろうという話しです。

ちなみに、その三味線屋の師匠は、庭先に来る野良猫に餌をやっていました。愛猫家ではなかったのでしょうが、慈しむ心はある。しかしそれも今の感覚からすれば、「そりゃおかしいだろう!偽善か!」と言われそうです。
「猫を慈しむ人間が何故猫皮を張れるんだ!」そう問われ見事に返答出来る人は居ないかも知れません。私の立場で見れば、「だからこそ、やや緩く張る時でさえ、否、むしろ音は立派で且つ破けにくく張る為に、技を磨き、酒断ちこそはせずとも、命を削っている」と確かに見えます。猫の命を貰い音に替える為に、自分の命も削る。

猫の命と計りに掛けて「どうなんだ?」と問われてしまえばそれまでですが、少なくとも、師匠は、一枚一枚丹念に吟味し、喧嘩傷を修復していました。その時にはその猫の生涯を想い浮かべていたような気がします。
その感覚は料理人にも言えるのではないでしょうか? そして私たちも、その料理を食べる度に「(命を)頂きます」「有難い(得難い)」と言って来ました。

これらこそが、日本の伝統やインドの伝統に残る「アニミズム(自然崇拝)」の名残ではないでしょうか。

流石に、「ラーガの精霊」を「見せ物」「なぶりもの」にするような声楽家や聴衆の前では演奏せずとも、ある程度のことであるならば、例え声楽家の技量が足りないとしても、聴衆の理解度が低めであるとしても、そこはサーランギー奏者が「俺がフォローする」という気概があったように思います。

そんなサーランギー奏者の「誇り」と「気概」に対して、それを「粋」と感じた昔のインドの音楽家や聴衆は素敵な言葉(称号)を作りました。
それは「チャヤ・キ・ガーン(Chhaya-ki-Gan)」。文字通り「歌の影」です。歌い手が即興で歌わんとしているフレイズを半拍、一拍遅れて追従し、決してリードすることなく、しかし、見事にフォローし、誰にも気づかれずに実は導いて行くのです。

また、これはブラフマン教初期には太陽と対等の扱いだった「太陰(月)」の世界でもあります。中国の「陰陽五行」の観念より2000年以上古いと思われる「光と影」の世界の観念でもあるのです。歌舞伎・文楽の黒子もまた、「見たまま黒い布を被っている」ではなく、「黒、闇、裏側」といった対局の世界を意味しています。「目に見える=形而下に対する形而上」という意味でもあります。もちろん「物質世界に対する精神世界」でもある訳です。

確かに現代社会でも正すべき差別、不条理はまだまだありますが、それとは別に、全ての「日陰のもの」を「日向」に持ち出すことが果たして「正義、公平、平等」なのか?というテーマもあるのではないでしょうか。

(文章:若林 忠宏

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