「音の動き」が複雑になったり、その動きに法則を見出したり、さらには即興演奏を繰り広げて行くと、音数が増す一方になり、やがては、旋律の美しさや形や、力や勢いに主眼が置かれがちになります。
しかし、この連載の始めの方で説明しましたように、元々インド科学音楽は、「ひとつの音=OM」から始まったのです。
幼稚な喩えで恐縮ですが、「基本のOMの音」を忘れ、旋律の妙技に酔いしれてしまうことは、抜群に美味しい「お米」なのに、「おかず」をたくさん盛って「お米」の味を忘れてしまう様子に似ています。
つまり「インド音楽はド(Sadaj)に始まり、ド(Sadaj)に終る」と言い切ることができるのです。
それもこれも、原点や基本といった「樹木の幹や根」と、立派で派手な「枝葉や花や果実」のどちらに偏っても駄目であるという、「両極の価値観がセットで揃って自然体を為す」というインドならではの「両極端の共存」を基本とした価値観を忘れてはならないということでしょう。
私事で恐縮ですが、TVの「鑑定団」に出演した時は、出品された他人のシタールで「2分で」を要望されました。
本番直前、楽屋で必死でメンテナンスをしてどうにか成し遂げました。
一方、自分のライブハウスでは「9時間ライブ演奏」に挑戦し達成したことがあります。
つまりRaga演奏は、「2分から9時間」如何様にも伸び縮みさせることが可能であることを実証したのです。
しかし、もし「1秒で!」とか「1音で!」と要求されたらどうでしょうか? それも可能です。
「ド(Sadaj)」だけを弾けば、立派なインド音楽なのです。
「それじゃあRagaも何もないじゃないか」と言われるならば、「2~3音」弾くことが許されればかなりRagaに迫ることが出来ます。
前出のRaga:Yamanならば、「シ♮ドー」か「シ♮レドー」で充分Raga:Yamanかその系列であることを示せるはずです。
「シ♮ドーだけじゃレ♭のRagaかも知れないじゃないか!」とおっしゃる詳しい方も居るかもしれませんが、中世のある種のRaga分類法では、「Raga:Yamanの系列」と「レ♭」を用いる「Raga:Purbiの系列」は大きなひとつのグループでしたから、あながち「外れ」ではないはずです。
同様に、以前述べました「Raga:Bhairavi」ならば「シ♭レ♭ドー」でしょう。これも「ファ#」を用いる「Raga:Todiの系列」と同じ大きな分類にあります。
逆にRaga:Bhairaviの夫であるにもかかわらず「Raga:Bhairaw」では、そうは弾きません。
また「シドレー」と弾いた場合、全く異なる系列を示唆します。
ところが、実は、これらは、「すべてド(Sadaj)」なのです。
「ドー、シドー、シレドー、シラシレドー、シラソファソラシレドー、シレミレドシラソラシドレドー」もインド音楽では、全て「ド(Sadaj)」の範疇です。
この少しずつ発展し、音世界の範囲を広げてゆく手法は、幼児が家の垣根を越えて外に出ないけれど、次第に少年になって、三軒両隣、更に少し遠くに冒険に行く成長の姿に似ています。
実際、このようにしてインド古典音楽の冒頭の前奏曲「Alap(アーラープ)」が始まります。
それぞれのRagaならではの手法で、充分に「ド(Sadaj)」を示した後は、属音の「ソ」にやっと移ります。そして、その後に間の音の個性を見せ、やっとオクターヴ全域に至り、更には低域、高域のオクターブを交えて行く。
その結果、前奏曲だけで、優に1時間は経ってしまうのです。
この様子は、「単音のMantra」が千年、千数百年かけて「2音のMantra」に発展し、さらに千年、千数百年掛けて「3音のMantra」に発展し、さらに数百年掛けて「5度上で展開し」........................。
という気の遠くなるような膨大な歴史を、毎度ひとつひとつのRaga(旋法)を弾く度に辿っているようなものです。
かと思えば、Alapを数分で終える「短縮系:Aochar-Alap」もあり、また上下行音列を、必要箇所にコブシを入れて「さっ!」と歌う(弾く)だけの、前唱(奏)曲と言うより「歌い出し」的な序唱(序奏)もあります。
このように、インド科学音楽と、それにより近い古典音楽は、「幹から枝葉へ」展開しては「また幹に戻って別な枝葉へ」と進みを繰り返し、常に「本質(Prakriti)」を見失わないようにしながら、個々の「様々(多様)」を具現し説いてゆくのです。
(文章:若林 忠宏)
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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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