無知という暗闇を取り払い、知識という光をもたらすグルは、インドでは神の化身として崇められる存在です。
その存在のもとで歩みを続ける多くの人がいる一方で、グルを探し求めて歩み続ける人も多くいます。
数々の聖典をこの世に伝える、重要な聖仙であるナーラダも、その一人でした。
ある時、ナーラダ仙は神々の集いに赴きます。
その集いにおいて、ナーラダ仙が座る場所は、誰よりも低い位置にありました。
その理由をナーラダ仙が問うと、ナーラダ仙にはグルがいないからだといわれます。
ナーラダ仙は、いつも神の名を口にしていましたが、グルから与えられたマントラを持っていないことに気がつきました。
すると、ナーラダ仙は、夜が明け最初に出会った方をグルとしますと告げ、その集いを去って行きます。
次の日の朝、最初に出会ったのは、老いた漁師でした。
ナラーダ仙は漁師に、あなたは私のグルであり、マントラを授けて欲しいと頼みます。
漁師は、私はあなたのグルにはふさわしくないと断るも、ナーラダ仙は懇願します。
漁師が頭の中にあった神の名を口にすると、ナーラダ仙はその神の名をマントラとして受け取りました。
そして、再び集いへ赴き、グルを得たことを報告すると、神々にそのグルを連れてくるよう求められます。
ナーラダ仙は再び漁師のもとへ向かい、集いに出向いてくれるよう頼むも、漁師は足が不自由でうまく歩けません。
ナーラダ仙は腰をかがめて漁師を背負い、集いに赴きました。
そして、その御足に触れました。
すると、漁師はシヴァ神に姿を変えたといわれます。
このナーラダ仙の神話を通じては、自分自身を育む世界のすべてに、敬意を持って生きることの意味を教えられたように思います。
聖仙であるナーラダが老いた漁師を背負ったように、私たちのエゴを取り除くその存在は、どのような姿であろうと、私たちのグルとなるに違いありません。
そのグルは、日々の歩みの中で、エゴが生み出す暗闇を取り除き、真実という光に私たちを導いてくれるはずです。
グルの姿は、必ずしも見えるものではありません。
人生という学びの機会の中で、一つ一つの経験をグルとして崇められるように、謙虚に信愛を持って生きることを努めたいと感じます。
師への満月祭を迎える時、皆様にも大きな光が満ちるよう心よりお祈りしております。
(文章:ひるま)
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