シャクティパット・ディークシャの可能性

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今回のツアーで何度も頭をガネーシャの各寺院の入り口にぶつけたお話は前回、少し だけ書かせていただきました。
ガネーシャ寺院だけでなく、その境内にあるハヌマーン寺院などでも頭を打ち付け、 そのたびに目から火花が散りました。もちろんわざと打ち付けているわけではなく、 どんなに気を付けていても頭頂部をぶつけてしまうのです。最後には大きなコブがで きました。
過去に何度もインドの寺院を訪れていますが、こういった経験は初めてでした。
その様子をみていたツアー参加者の方(行者の家庭に生まれ育った方)から「これは ある種のシャクティパットではないですか?」と言われました。(シャクティパット とは聖者などが、主に弟子などの体に触れるなどして悟りの世界を見せるもの。エネ ルギーを注入して、クンダリニーを覚醒させたりする技法のことだと、個人的には考 えています。)
そういわれてみると、朝ホテルの鏡で自分の顔をみると、目が澄み切っていてまるで 黄色味がかったトパーズでできているようでした。参加された別の修行者の方にも 「今日の先生(私・ガネーシャギリ)の目は澄み切っていて聖者の眼をしている。」 とも言われました。(もちろん普段の私は普通の中年男性の眼をしています。)
最後のサイババ寺院でクンダリニーの覚醒らしき体験をしたことと考え合わせると、 神の恩寵によるある種のシャクティパットである可能性は否定できないかもしれません。

個人的には、(自分の力ではなく、師の恩寵により)1996年8月にブータンの寺院(タクツァン僧院)でクンダリニーの覚醒を体験しています。その時は大きなエネルギーが上がりすぎたせいか、10年ほど不思議な現象が続きました。しかしその後20年ほどクンダリニー行法に打ち込んできたのと、ガネーシャのマントラを23年ほど唱え続けてきたおかげか、今回は何ともありませんでした。

自分の能力がここまで開花したということをひけらかしたいわけではありません(実際に大した能力はないですし)。
私はどちらかと言えば愚鈍で才能に劣る人間です。
そんな私ですら、マイペースなサーダナを続ければ、(一時的にではありますが)このような素晴らしい体験ができるのだということを感じました。
才能に溢れ、まじめに修行に打ち込んでいる方であれば、一体どれだけ素晴らしい体験ができるでしょう。巡礼というものの素晴らしさを再確認しました。

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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沈黙の新月

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寒い日々が続いていますが、冬至を過ぎ、少しずつ日が伸びていることを感じます。そんな中で迎えようとしている次の新月は、1年に訪れる新月の中でもとりわけ重要な新月といわれ、インドの各地でさまざまな行いが執り行われる時です。マウニー・アマーヴァスヤーと呼ばれるこの新月は、マーガ月(1月~2月)の新月となり、沈黙の新月といわれます。

マカラ・サンクラーンティを終えたインドでは、太陽が北へ回帰するウッタラーヤナ(冬至から夏至の6ヶ月間)に入り、神々の昼が始まりました。その神聖な時に迎える最初の新月は、霊性修行を行う重要な時であるといわれます。

満ち欠けをする月は、変化をする私たちの心の象徴として捉えられてきました。喜びや悲しみ、慈しみや憎しみ、月はそうした変化に富む私たちの心のようであり、実際に、月の満ち欠けのエネルギーは、私たちの心に大きな影響を与えるといわれます。この神聖な新月の時、心の平安を得るために実践されるのが、沈黙の行いです。

沈黙は、マウナと呼ばれるヨーガの修練の一つであり、霊性を育む大切な術として広く実践されています。自分自身の本質に気づくための大切な行いとして、実際にヨーガの修練においては、沈黙を実践する時間が度々あります。

心にふとあらわれる感情や思考から生まれる言葉に自分自身を重ねる私たちは、簡単に自分自身の本質を見失う瞬間にあふれています。湧き出る感情や思考のままに言葉を操り、その結果に苦しむことも少なくありません。しかし、決して嘘をつくことがない沈黙は、いつも変わらずにある自分自身の本質に気づかせ、確かな平安を授けてくれることをその実践の中で学ぶことが幾度となくありました。

沈黙の新月は、1月28日(インド時間では27日)です。私たちの心に大きな影響を与える月と向かい合う吉兆なこの時、少しの時間でも、沈黙を保つ行いを実践してみるのも良いかもしれません。嘘のない美しい静寂の中で、言葉の奥深くに存在する自分自身の真実と、その本質である大きな平安に気づくことができると思います。

(文章:ひるま)

シャクティの恩寵

MUMBAI, INDIA - October 20, 2015: An idol of revered goddess Durga standing in the temporary temple in the city of Mumbai during Durga Puja festival celebration.

ヒンドゥー教の神々の中で最も畏怖される存在であるシャクティは、女神として女性的なエネルギーの象徴であり、宇宙のあらゆる存在や動きの背後にある動的なエネルギーをあらわします。創造を担い、変化を生み出すシャクティは、悪の力を破壊し、宇宙に均衡を取り戻す、世界に必要不可欠な存在です。

そんなシャクティには、母なる女神、強力な戦士、暗闇の破壊者など、数多くの名前や姿があります。ヒンドゥー教のあらゆる神格は、そうしたシャクティのエネルギーを有するため、女神たちはインド全土で広く崇拝されています。

強さ、豊かさ、力の原型として崇められるシャクティには、パールヴァティー、ドゥルガー、カーリーといった姿があります。強い母のように姿をあらわすシャクティを、神々との強い結びつきを得るために崇めることができます。

パールヴァティーは、ヒンドゥー教では破壊神として崇められるシヴァ神の妻であり、その背後にあるエネルギーです。パールヴァティーは、シヴァ神との間に2人の息子をもうけました。世界を恐怖に陥れるタラカースラという悪魔を倒したクマーラ(別名:カールッティケーヤ、スカンダ、ムルガン、スブラフマニヤ等)と、象の頭を持ち学問や障害除去の神として崇められるガネーシャです。

母なる女神であり、宇宙のエネルギーでもあるシャクティは、マハーデーヴィー(偉大な女神)として、あらゆる女神が一つになった存在です。ドゥルガーとなったシャクティは、強力な戦士として、悪魔マヒシャースラを始め多くの悪魔を倒しました。「黒き者」を意味するカーリーは、破壊神としてのシャクティです。ヒンドゥー教では再生と破壊をあらわし、その力は現実世界と霊的世界を守ると、インド全土に広まる帰依者から信じられています。

数多くの名前や姿を持つシャクティには、それぞれにまつわる多くの神話が伝えられます。カーリーにまつわる有名な言い伝えには、アスラ族の指揮官であるラクタヴィージャとの戦いの神話があります。ラクタヴィージャは、地面に滴り落ちる自らの血から無数の分身を生み出すことから、戦いに挑んだシャクティを困難に陥れていました。そして、シャクティは長く伸びた真っ赤な舌を持つカーリーとなり、ラクタヴィージャの血を吸いつくしてラクタヴィージャを倒したと言われます。カーリーは4本の腕と共に描かれ、2本の腕で武器とラクタヴィージャの頭を掴み、もう2本の腕で祝福を授けています。

全宇宙に浸透しているシャクティのエネルギーは、私たち自身の活力を生み出す原動力となります。精神と肉体の調和は、シャクティの恩寵なしに成し遂げることはできません。エネルギッシュな毎日を送るために、シャクティを礼拝することは、大きな助けになるでしょう。シャクティは、慈愛と恩寵に満ちた全人類の母であり、寄る辺を求める信者たちに、分け隔てなく救いの手を差し伸べてくれます。

(SitaRama)

70、禁断のRaga

Sri Maha Mariaman Hindu Temple

はたして、インド古典音楽には、Raga(ラーガ/旋法)はいったい幾つあるのでしょうか?
結論から言うと、「誰も言えない」「誰も知らない」なのです。
一説には、「34,848である」と言われていますが、私はまだ全てを列記した資料と出逢えていません。

そんな、「計り知れないインド」のことですが、「禁断のRaga」という特殊なRagaは、そんなに多くはありません。
そもそも「禁断のRaga」という感覚は、インドに興味が無かったり、全く知らない人にはほとんど理解できない話かも知れません。
先ず、これを理解するには、「インド人の不思議な習慣(癖)」を理解する必要があります。

そもそも「机上の理論」で考案されたRagaですが、これは極めて「論理的」です。「論理」と聞くと現代人は、「理屈っぽい、融通が利かない」と敬遠しますが、全くの誤解です。

「論理」の基本は「考えられるだけ挙げる」ことです。故に「感性、好み、生い立ち、人生観、生活感、宗教観、思想の違い」から「思考性、指向性、理科系、文系、体育会系」そして、「大人、子ども、男、女性、障害者、高齢者」などあらゆる人々から、人間に限らぬあらゆる生き物や、石ころから大海に至る自然物に対しても「平等な考え方」なのです。

私はこれこそが「古代インドの科学」も最も誇らしい素晴らしい人間性溢れる叡智であると強く理解しています。
これこそが「森羅万象」であることは言う迄もありません。

ところが、そのインド人は、「論理的に考え挙げ出したもの=机上の理論」を実際、Raga演奏をする段になると「○○はつまらないから演らんで良い」と極めて「現実的、感覚的、情感的、慣例的」に判断を下すのです。大いなる「矛盾」と言わざるを得ません。

しかし、「最後で最年少の宮廷楽師」であった私の師匠の世代までは、これは「矛盾」ではなかったのです。樹木に喩えれば、「幹〜太枝〜中枝」と基礎を積み重ね、充分な理解と認識、分別を持って居れば、「全ての枝葉を実見聞する必要はない」ということに他なりません。

これに対し、インド人も含め、現代人は「樹を見て森(森羅万象)を見ない」。自分が選択を繰り返し歩んで来た「今居る枝葉」でしか物事を理解しない。故に「争いや誤解、決めつけ」が無くならない。「虐め」もしかり。

つまり、昔のインド人の場合「実見聞しなかった枝葉」も実体験したものと同価値があって「存在する」ことを忘れてはいなかった。なので「一を聞いて十を知る」というセンスに長けていたのです。
しかし現代人は、西洋的な「合理主義、現実主義、結果論」に固執して、「今を生きる」と素敵に言いつつ、「自分の枝葉のことしか考えない、理解しない」訳です。

そもそも、この感覚で弾くならば、あらゆる「Raga」が「Raga」ではない、とさえ言えるのではないでしょうか?だとすれば、既にそれは「禁断のRaga」であるとも言えます。

私の40年近くの教師人生で最も哀しいと思ったことは、延べ数百人の生徒さんやお弟子さんの殆どが「間違いを恥じる」ことでした。
私が「インド音楽の論理性」の話しを何度しても、「間違いこそは、森羅万象」という教えを理解してくれないのです。「何故間違ったのか?」に様々な学びの「豊かな源泉」「無尽蔵の金山」のような豊かさがあるのにも拘らず。「間違ったってことは分かってます」「そんなに追求しないで下さい」が本音だろう、という人が多いのです。

入門から一人前になる迄の「修行」は、「間違いが多い程豊か」であり、「正しい一音」に至った時に、その「一音」に深み、豊かさと優しさが溢れます。言い換えれば「正しい一音」とは、「様々な(間違いの)音の代表」の自覚がある「一音」なのです。
更に言えば、「修行とは、間違いをより多く体験出来る唯一のチャンス(時期)である」とさえ言いたい程です。
ところが、「間違い=忘れよう=忘れてくれ=追求なんてしないでくれ」という感覚では、悪く云えば「正しい一音は、様々な間違った音を淘汰(撲滅)させて生き残った一音」ということになります。なので、多くの人が「修行とは正しいことを知る過程である」という感覚なのでしょう。

私は生徒さんそれぞれが、「とっても素敵で面白い間違え方」「戸惑い方」「つっかかり方」「こだわり方」「引きずり方」をするのが、お教えする度に楽しくてなりません。「人間もまた、本来は森羅万象の中に散らばる、様々な姿なのだ」ということを充分に満喫出来ます。

ところが、習う方は「間違い=恥ずかしい」としか感じない。「今の間違いはとてもユニークで興味深い」などと言えば「意地が悪い」と感じてしまう人さえ少なくない。

しかしそうやって得た「正解」というものは、少なくとも私の信じる「Raga音楽」としては、「正しい」とは思えないのです。
さすればそれは、「正しい時間帯」に「間違えずに弾いても」正しいとは言えない場合がある、ということです。

表題に関して数行になってしまいましたが。インドで所謂「禁断のRaga」と呼ばれているものは、「正しく演奏すると身体が燃えてしまうから」という理由の「Raga:Depak(北インド)」と、「教え教わりすると師弟共に縁起が悪いので教え教わりせず、聴いて学ぶ(盗む)べきである」とされる「Raga:Shri(南北)」「Raga:Varali(南インド)」です。

「Dipak」と「Shri」は、恐らく近年後付けした感がありますが、「Varali」は、かなり昔から言われていたようです。

勿論、聴いた感じは不気味でも難解でもないのです。科学音楽としての理論的な根拠ではなく、神話の神々でさえも「トラウマ」を引きずるインドのことですから、人々が原典を忘れてしまった「何か」があって、ただただひたすらに「縁起が悪い」ということだけが残ってしまったのだろうと思われます。
ただ、理論から考えれば「根拠は無い」ということであり、「間違った習慣」ということになります。しかし私は、そのような、昔は日本にも多くあった「こだわり」や「言い伝え」も愛すべき学ぶべき習うべきものと感じます。何故ならば、そもそもそれらは「非合理的」であり「非科学的」であるからです。

何時も最後迄、ご高読ありがとうございます。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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冬のナヴァラートリー

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インドの盛大な祝祭の一つに、女神を讃える9日間の夜「ナヴァラートリー」があります。この祝祭は春と秋の2回行われることで有名であり、春はラーマ・ナヴァミ、また秋はダシャラーと共に、盛大な祝福が行われます。

このナヴァラートリーは春と秋の2回が有名ですが、もう2回、年に計4回祝福が行われます。その一つが、1月29日より始まるマーガ・グプタ・ナヴァラートリーです。

このナヴァラートリーは、マーガ月(1月〜2月)の新月の次の日より9日間に渡り、主にシャクティ派の人々によって祝福されます。2017年は、日本時間で1月29日から2月6日まで行われます(インド時間では2017年1月28日から2月6日まで)。

ナヴァラートリーは、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティー女神を9日間に渡りお奉りする祝祭です。はじめの3日間は心の中に潜む不純物や悪徳、欠点を破壊するため、強力な戦士でもあるドゥルガー女神を礼拝します。次の3日間は、すべての帰依者に尽きることのない富と幸福を授けるといわれるラクシュミー女神を礼拝し、最後の3日間は、創造主ブラフマーの妻であり、学問と芸術、そして叡智を授ける女神であるサラスワティー女神を礼拝します。女神の9つの姿もまた、この時に讃えられます。

ナヴァラートリーの期間中、真摯な帰依者の中には、断食をしながら、健康や繁栄を願って祈りを捧げる人々もいます。季節の移り変わりに訪れるこのナヴァラートリーは、自身の日々の生活を見つめ直して、人生の向上につながる新しい習慣をはじめるこの上ない吉祥の日であるといわれています。

日本では寒さの厳しい時が続きます。皆さまもどうぞお体をご自愛の上、吉兆な時をお過ごしください。

参照:http://www.drikpanchang.com/navratri/magha-gupta-navratri-dates.html

スタッフ日記:第5回アンナダーナ終了しました!

第5回アンナダーナにお気持ちを寄せていただきました皆さま、本当にありがとうございます。前回は日程に変更が生じ、大変ご迷惑をおかけしてしまいましたが、今回は滞りなく無事に終えることができました。

前回からのご寄付もあったので、分量を増やせないか検討していたのですが、現在アンナダーナを実施している地域では、今まで通りの分量が適当だろうとのことで、無駄になることがないよう、今まで通りで進めさせていただきました。

マカラ・サンクラーンティを終えましたが、北インドでは一月下旬頃までは朝晩の冷え込みが続きます。寒い時期はこってりした食事が喜ばれ、ギーを使用したハルワーが特に子どもたちに大好評だったようです。

前回ほどではなかったようですが、たくさんの人が集まり、1,000食分以上の食事を無事に配り終えることができました。ギーの匂いが周囲に立ち込めて、多く人々に伝わった様子。当初は、アンナダーナの案内を寺院に掲示した方がいいかも、という話をしていたのですが、5回目ともなり、あまり使用されない美味しいギーを使用した食事を心待ちにしている人もいるようです。今回もたくさんの方々に喜んでいただくことができました。

準備は前回と同じく8時頃スタート。冬場は少し遅めです。下に写っているガスボンベは、各家庭で1年間に使用できる数に制限があり、入手が難しいことがあります。

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準備も整い、雨になりそうな予報だったため、少し早めにスタート。

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子どもたちが夢中でハルワーを食べていたそう。ギーで作られるハルワーは本当に美味しいです。

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今回も混雑ぶりが伺えます。

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現金の問題はまだ続いているようで、正常に戻るにはしばらく時間がかかりそうです。それでなくても、波乱万丈なインドの日常なので、こうした温かい食事は、多くの方々の心を幸せにしてくれることと思います。現在、来月の日程も調整中です。来月も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

アンナダーナを通じ、皆様にも大きな恩寵がありますように。

(写真を掲載しきれなかったので、Facebookにアップロードしました。こちらからもっとたくさんの写真をご覧いただけます。)

(スタッフ:ひるま)

第3回グループ・ホーマ無事終了のお知らせ

第3回グループ・ホーマにお申込みいただきました皆様、誠にありがとうございました。

第3回グループ・ホーマは、1月14日インド標準時午前10時から午後2時に無事に終了いたしました。

プージャーの写真を以下に掲載させていただきます。

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神々の祝福と、より良い体験がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

ヨーガ・スートラ第1章第51節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


तस्यापि निरोधे सर्वनिरोधान्निर्बीजः समाधिः॥५१॥
Tasyāpi nirodhe sarvanirodhānnirbījaḥ samādhiḥ||51||
タスヤーピ ニローデー サルヴァニローダーンニルビージャハ サマーディヒ
それさえも止滅する時、全てが止滅することから、無種子三昧がある。

簡単な解説:前節において、真理を保持する智慧から生まれる潜在印象は、心の働きによって生じていた他の潜在印象を抑圧すると説かれました。本節では、その真理を保持する智慧すらも止まるとき、一切の心の働きが止まることから、解脱である無種子三昧が生じると説かれます。「ヨーガは、心の働きを止滅することである」とはじめに説かれた第1章は、この節をもって終わります。

マントラ・ヨーガによる心身の解放

Meditation and yoga concept

ハタ・ヨーガやアシュターンガ・ヨーガが広く普及する社会では、ヨーガといえば、身体的なポーズやエクササイズ、または呼吸法を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、伝統的なヨーガには、さらに多くの種類があります。

特に、マントラ瞑想はヨーガの伝統であり、その真の目的である神との合一に欠かすことのできないものです。サンスクリット語の「ヨーガ」という言葉は、「合一」や「結びつき」を意味し、神または崇高な存在との繋がりを象徴します。もちろん、ハタ・ヨーガやアシュターンガ・ヨーガの実践も、崇高な存在に近づくよう人々の意識を開く助けとなるものです。ヨーガの実践に伴い活性化するチャクラによって、最終的には生命力がコントロールされ、意識が上昇し、神との合一を遂げることができると信じられます。

マントラ瞑想で用いられるマントラは、神聖な音や言葉を含んだ特定の波動です。マントラという言葉は、サンスクリット語で心を意味する「マン」と、解放を意味する「トラ」から生まれたといわれます。マントラは、心を物質世界から解放し、精神世界へと導く神聖な音の波動です。その音が物質世界を超越することから、超越的な音と呼ばれることもあります。

マントラは、神の御名やその存在に基づいた神聖な音から構成されます。実際に、マントラには「ラーマ」、「チャンドラ」、「クリシュナ」、「シヴァ」などの神の御名が多く含まれると共に、「ハレー」、「シャーンティ」などの神聖なサンスクリット語の言葉が用いられます。

マントラを唱える際には、その音に注意をしながら、心の中で繰り返し唱えたり、または声に出して唱えることができます。心がさ迷い出ても、マントラの神聖な音に意識が引き戻されるでしょう。数珠を用いて唱えたり、楽器を用いて賛美歌のように唱えたりすることもできます。マントラの詠唱を続けることで、物質世界を超えた神聖な音に心が定まり、内なる世界には平安が生まれます。

また、マントラ瞑想にはすばらしい恩恵があり、神の御名が人々の意識を浄化すると信じられます。私たちの身体は、魂が宿る一時的な場所であり、崇高な意識は身体という物質に覆われていると考えられます。身体という物質は幻想であり、あらゆる苦難が生まれる場に他ありません。物質世界を超越するマントラを定期的に聞いたり唱えたりすることで、身体という物質に束縛され生み出される苦悩から解放されると信じられています。

日本では、マントラというと、怪しい宗教のひとつと捉えられることがあるかもしれません。しかし、マントラ・ヨーガは、インドの伝統的なヨーガの系統に属し、生活の一部として定着しています。聖なる音の持つ力、そしてその音に意識を向けることによって得られる心身の解放に、あらためて目を向けてみてはいかがでしょうか。

(SitaRama)

ローリー祭

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インドではいよいよ、1月14日にインドの冬至とも言われるマカラ・サンクラーンティを迎えます。太陽が北に向きを変え、冬が終わるとも言われる時。インドの数ある祝祭の中でも、とりわけ盛大な祝福が行われます。

そして前日となる1月13日は、主にパンジャーブ州でローリー祭が祝福される時です。農業が盛んな地域において、冬を乗り越え撒いた種がしっかりと芽を出し、成長するように祈る収穫の祝祭であり、人々は小麦や落花生、砂糖やバターなど、豊作を祈り神に捧げます。日没後、大きな焚き火を作り、捧げ物を火に投げ入れ、火が絶えるまで踊り歌を歌い、祝祭が続きます。

皆さまにも太陽の大きなお恵みがありますようにお祈り申し上げます。