スタッフ日記:フード・サービス・プログラムのご報告(病院の中の様子について)

フード・サービス・プログラムにご支援をいただいている皆様、本当にありがとうございます。

最近の写真が届きましたので、ご報告させていただきます。いつもと変わらない長い行列です。ケララでは先月の終わりに雨季であるモンスーンが始まりました。これからしばらくは、じとじとと湿った気候が続き、蚊が媒介する病気や、不衛生な状況から病院を訪れる人が急激に増えます。通常は150人から200人ほどの食事を準備していますが、倍になる400人ほどの食事を準備することもあります。

今日は、以前病院の中に入らせてもらった時の写真をご紹介いたします。病人の方たちなので、写真は控えた方がいいかなと思ったのですが、NGOの代表に「大丈夫だよ」と言われ、カメラを向けると、みなさんわざわざ立ち上がってくれました。

病室は簡単なベッドが並べてあるだけで、身の回りのものは全て自分たちで準備せねばなりません。話を聞くと、脳梗塞で身体が動かなくなってしまった方や事故にあった方、義理の家族から暴行を受けた女性もいました。仕事環境からか、呼吸器系の問題を抱える人々も多くいます。

病と貧困を抱え苦しい状況にも関わらず、訪問をした際には笑顔で暖かく迎え入れてくださいました。一日一食の配給を頼りにしている人々も少なくありません。

皆様の温かいご支援を心よりお待ちしております。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

(スタッフ:ひるま)

アシュタヴァクラのアーサナ

心身の解放に引き込まれるヨーガのポーズに、アシュタヴァクラーサナというポーズがあります。賢者アシュタヴァラに捧げられるこのポーズは、体を屈折させながら、両腕で全身を支えて身体を持ち上げるポーズです。アシュタヴァラは、生まれつき体の8つの部分が曲がりながらも、多くの教えを説いた賢者の一人でした。

アシュタは「8」、ヴァクラは「曲がった」を意味します。アシュタヴァクラは、母親のお腹にいた時、いつも父親が詠唱するヴェーダを聞いていました。ある時、父親がヴェーダの詠唱を間違うと、その間違いを笑ってしまいます。怒った父親は、アシュタヴァクラを呪い、その体の8つの部分を変形させてしまいました。そうして生まれたアシュタヴァクラは、さまざまな苦難を経験するも、その身体で多くの教えを示します。その教えは、「アシュタヴァクラ・ギーター」として、現代においても受け継がれています。

「自由だと思えば、自由である。束縛されていると思えば、束縛されている。」

アシュタヴァクラはそう述べています。このポーズを通じ、自らを不自由な状態におきながらも、そこで呼吸ができることに、真の自由の意味を学びました。

病患があったり、ハンディキャップがあったり、私たちは一人一人がさまざまに異なる肉体を持ちます。自分自身のおかれたその状況の中で、さまざまに限界を設け、不自由な境遇を作り出してしまうことも少なくありません。

ヨーガのアーサナは、そうした限界から、自分自身の身体と心を解放してくれるものでもあります。それは、自分自身に与えられた状況の中で、さまざまな気づきを生みだしながら、魂という永遠不変の存在に気づかせてくれるからかもしれません。

どんな出来事も、どんな状態も、最善のために起きているということを、このポーズは教えてくれます。日々の一瞬一瞬において、その事実に気づくことができれば、毎日を自由に、そして幸せに過ごせるに違いありません。

(文章:ひるま)

参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Ashtavakra

月の満ち欠けとヴラタ

大自然の動きと調和をするような風習や信仰が生きるヒンドゥー教の生活では、月の暦が重要視され、祝祭の多くも月の暦に従って祝福されます。

神々と惑星のエネルギーの関連などから、ヒンドゥー教では曜日毎に瞑想や断食をして祈りを捧げる神格がさまざまに異なりますが、月の満ち欠けによる暦に従って、神々への礼拝が行われることもあります。こうした時は、瞑想や断食を実践することが勧められ、これらの行いはヴラタ(戒行)といわれます。

とりわけ重要視されるヴラタを以下にご紹介いたします。

チャトゥルティー(月の満ち欠けの4日目):ガネーシャ神
シャシュティー(月の満ち欠けの6日目):カールッティケーヤ神
アシュタミー(月の満ち欠けの8日目):ドゥルガー女神、バイラヴァ神
エーカーダシー(月の満ち欠けの11日目):ヴィシュヌ神、クリシュナ神
プラドーシャ(月の満ち欠けの13日目):シヴァ神
シヴァラートリー(満月から13日夜/14日目):シヴァ神
プールニマー(満月):サティヤナーラーヤナ・プージャー
アマーヴァシャー(新月):先祖供養

月の満ち欠けのエネルギーは、私たちの心身にとりわけ大きな影響を与えるといわれます。そのエネルギーの象徴である神々を崇め、大自然の動きに調和をしながら、日々を幸せに生きる行いを実践してみるのも良いかもしれません。

参照:http://www.drikpanchang.com/vrats/hindu-vrat-list.html

91、インド科学音楽の将来: 樹を見て森を観ない「変質しつつある東洋医学(3)」

「近視眼的」になるには、理由がある
「私は猫を先生ほど愛せない」「猫絡みのこラムは……嫌いな人も少なくないし」「沢山の音楽と楽器を演ってるなんて、全部適当か広く浅くだろう」というお言葉は、恐らく「全て『枝葉=個人=個性=感性偏重(至上)主義」に偏った(殆ど?)タイプの感覚(思考性/価値観)の人の「誤解」であろうと思われます。それに対し、「剣道の名手の『遠山の目付』の技」「検査技師の『何気なく愚感する』必要性」「昔の火の見櫓の番人」は、「樹に捕われず森を観る」タイプであると言え、「宇宙~地球~様々な生き物~人間~個人~個性・感性」という「繋が・閨vを、「言葉だけでなく体感・実体験・実践している」と言うことが出来る筈と思います。

その一方で、前回敢えて「不愉快にお感じになるだろう」と前置きして「近視眼的」と申しましたが、そういった(上記の前者の)タイプの人をフォロー(弁護)する言葉やすべきこと、理解すべきこともまた沢山あります。端的に言ってしまうと、「とても真面目な人々」なのは間違いないことです。

またしても私事で恐縮ですが、私は小学校の六年間の殆ど「教師も呆れ匙を投げる」どうしようもない子で、今日の認識では、明らかに「学習障害児でPTSD」でした。何しろ殆ど授業を聞いておらず、黒板も教師も見ちゃいない。窓の外を「ぼーっ」と眺めて居る。「あっ!野良犬が侵入した!」「あっ!あの子早退か?どうしたんだろう」などと。
なので、或る教師は「あいつは座敷童と思え」と級友たちに言っていたほどです。

「無関心」なだけならば、成績が悪くなるだけで「自業自得」で、先生にしてみれば、「ほら見たことか!」となるのですが、興味のある科目は、三段階(でした)の「Aだったりするから厄介で、しかも、しばしば事業中に突然「先生!そのお言葉は、先ほどのお話に矛盾します!」などとくって掛かったりするものですから、始末に追えない。放って置くだけでは済まされない。教師にしても何らかの体裁を保つ反論をせねば恰好が着かない。
「大概真面目に聞いてないなら、全く聞くな!授業の邪魔をするな!」とは言い返せない。
なので、以後何らかの口実を見つければ、「廊下に立っていろ!」と早々に閉め出す教師も少なく在りませんでした。

そんな「駄目少年」から比べれば、他の生徒はどれほど「素直」で「真面目」であったか?
まずこの基本がひとつ或る訳です。

インドに於いてのインド音楽のレッスンでさえも、そのような「真面目さやひたむきさ」から、むしろ「師匠が黒と言えば白も黒だ!」に近い師匠は少なくありません。幸いにして、インドに限らず、世界中の数十人の師匠たちの半数は、私もしばしば唖然とするほど、私以上に突拍子もない人物が多く、洋の東西を問わず、その国の音楽家の中でも「異端」でしたが。

次に、若干面倒な話しになりますが、「樹に捕われず森を見る」という感覚は、西洋に於いては19世紀後半に、ドイツ哲学が次々に失態を見せ、生き残りに邁進し、その質ばかりか、基本理念を見失った後、英国哲学の「権力者子飼い」の専門家が台頭し、急速に「現実論」が主流になったと言う事情があります。

「哲学」と聞くと「訳が分からない」と思う方が多いように、或る意味「非現実的で難解で面倒臭い」からこそ「哲学」なのですが、それが「現実的」になってしまう、ということは、「本末転倒」「魂を抜かれた」ようなものです。
奇しくもその英国の植民地であったインドでは、英国留学も果たしたエリート層の中から「樹に捕われず森を見よ!」「それはヴェーダの叡智への回帰・再評価である」という運動が興りました。おそらく、インドの哲学家・思想家・宗教家(本来インドでは同源同義)にとってみれば、同時代の英国哲学は「幼稚」に思え、その「嘘」も簡単に見破れたのでしょう。

しかし、第二次世界大戦とその直後の分離独立などのゴタゴタの中で、前述しましたように「極端な保護主義・民族主義・ヒンドゥー至上主義者」によって、彼らに都合良い「一元論」にねじ曲げられたまま、本来の真意は、廃れてしまいました。

そして世の中は、20世紀に入ると、英国哲学の「現実主義」から遥かに飛躍した米国哲学の「合理主義・結果論」が主流になってしまうのです。

即ち「受容性と柔軟性が豊富な真面目で謙虚な態度」に、「結果主義、合理主義、現実主義」が加われば、「森をぼーっと俯瞰する」というようなことは殆ど忘れ去られてしまい、ましてや「それが大切なのだ」などとは誰も説かない時代になってしまうのです。

そして、世界中が苦難と悲しみの辛酸を味わった「第二次世界大戦」と「戦後復興」が、この基礎に決定的な「歪んだ結論」をあたえます。
それは「共感・連帯感の間違った解釈=誤った共感・連帯感」の流布です。

第二次世界大戦の敗戦国「日本、ドイツ、イタリア」は、何れも「全体主義(ファシズム)」(本来ファシズムは結束主義ですが、ここでは慣例に従います)と「軍国・拡張主義」が一体化したとして世界から非難され、「日本、ドイツ、イタリア」のいずれの国民を「そう思う」となってしまいました。

つまり、国民の殆どにとって「樹に捕われずに、森を見る」というのは、「戦前の全体主義」そのものであり、それは、「個人主義の否定」であり「個人の人格や命さえも投げ出して『お国の為』に捧げる」というような意味合いである、と、理解しようがしまいが、言葉に置き換えようが置き換えまいが、ほぼ殆どの人々が「そう感じてしまった」のです。

全くの大誤解です。

今回の図で示したように、本来の「森」は、それ以前に「一本の樹」が、一本の幹から無数のように出た枝葉に分かれようとも、「幹と根っこ」で「大地」に繋がっており、全ての樹が同じ森の大地で繋がっているのが、本来の「宇宙~地球~生命体~細胞」の繋がりと同義なのです。言わば「縦の関係性(枝葉~幹~大地)の自覚」が根幹ということです。

しかし「全体主義、ファシズム、個人主義の否定」は、写真の右上のような「樹木を縄で束ねた」ようなものであり、「縦関係」をほとんど無視しているのです。事実、戦中の日本は、「日本固有の伝統」を重んじているように見えながらも、軍国に都合の良いものばかりで、それ以外の伝統文化は排斥されました。ドイツ、イタリアはもっと酷かったですし、その後のソ連の社会主義や今日の北朝鮮に於ける「伝統文化」の弾圧と崩壊は、悲惨です。カンボジアの社会主義政権は殆どの伝統を葬り去りました。

また、今日の欧米の「保護主義・民族主義・自国優先主義」と、欧州の「EU崩壊の危機」もまた、「束ねただけのこと」に対する「反発・反動」と見れば、或る意味当然のことです。

「地に根を張らず、幹から切り離され、束ねただけの枝葉」は、写真の「薪(たきぎ/まき)」のようなものです。「大誤解」というより、むしろ「大地~根っこ~幹~太枝~枝葉」という概念にとって、「全く逆の感覚」であると言わざるを得ません。
しかし「枝葉(個人・個性・価値観)」に執着(依存も少なくない)する傾向が強い現代人は、「縦の繋がりの意味」が理解出来なくなっているので、「薪のように括られること」との大違いが分からなくなっているのです。

「括られること」を由とする人々は「モラル(道徳)」「思いやり」「客観性」を説きますが、「個人主義」に依存している人々は、既に辟易としているようでもあります。反論・反発を覚悟で言ってしまえば、「幹から見て感じること」が出来るならば、「モラル、思いやり、客観性」などはいずれも「言う迄もないこと」な筈なのです。

例えば、「天道虫」のように、幹から「上へ上へ」と昇って行く時、或る二手に別れた枝葉などは、いずれも同じ価値である筈で、「たまたま右を選んだ」ならば、「左を選んだかも知れない」訳であり、右の枝葉から見た左の枝葉は「実在しなかった自分のもうひとつの歴史」「双子の兄弟」のようなものです。その理解の方向性の中では、「モラル、思いやり、客観性」などは、要求されずとも、自然に「共感・共存感・連帯感」が生まれるに違いないのです。

「東洋医学」に与える危機的な弊害
この、殆ど問題にもされず,殆ど説く人の居ない、しかし重大且つ明らかな傾向とその問題は,「東洋医学の基本精神」を歪めかねない重大な危機的状況に至っています。

もし、より正しく「常に大地~幹から考える」のであれば、「枝葉の違い」は、何時でも常に入れ替わり得ることです。

例えばアーユルヴェーダに於いて、「貴方の体質はPittaですから」のような診断を得たとして、もしかしたら、何かのきっかけで、別なDoshaに転じるかも知れないのです。

そもそも、前述しましたように「Tri-Doshaの解釈」が多くの場合、「遠からずとも当たらず」的に微妙にズレています。勿論、基本的なことをしっかりおさえている専門家は、「Vata、Pitta、Kapha」のいずれも、「生命維持」に必要な「要素であり、働きである」とし、「しかし、もしそれらがバランスを崩した場合、それらは様々な不調・偏重・病気の元凶となり得る」と正しく説いています。

しかし、決して少なくない割合で、上記の話しの後半だけが強調されています。これは、元々の「Dosha」の字義に、良からぬものが多いからもあります。つまり、古代インドのアーユルヴェーダの叡智に於いては「過ぎたるは及ばざるが如し」以上の「警戒感」を持って「過ぎたるは、極めて危険な有害因子の如し」と言っている訳です。しかし、これも「幹~太枝~枝葉」から考えてみれば、そのニュアンスはかなり変わる筈です。

アーユルヴェーダが説いた「本来の正しいバランス状態」は、「Tri-Dosha」がほぼ均等にある「純粋な性質=純性(Sattva)」でありますが、例えば「幹はSattva」であったとして、その先の「太枝」の或る一本が、何らかの障壁によって歪められて「バランス不調(異変=Vikrit)」が起きたとして、それは「過渡期の状態=プロセス」です。従って、「元凶(犯人探し)」をするならば「太枝」にある訳で、「幹(基/原因)」は、元凶ではありません。

そして、その先の小枝は、太枝のアンバランスを受けて、「順列組み合わせ的」に「Pitta亢進」「Vata亢進」「Kapha亢進」の三種の症状が出得る訳です。そして、その先の「枝葉」に至ると、「小枝」の「三っつの偏重」に、「PittaとVataが亢進」「PittaとKaphaが亢進」「VataとKaphaが亢進」が加わった「六種」や、亢進の二種に差があるものを加えた「九種」もおのずと生じて来る訳です。
私の作図のふたつめの「棒グラフ的な図」と「円グラフ的な図」は、それぞれ「複合Dosha体質の9パターン」と「中医・漢方弁証論治の八綱弁証図」です。

しかしここに幾つかの大きな問題(落とし穴)があります。、まず、このような「順列組み合わせ的に考え得るパターンを統べて挙げる」という感覚は,古代インド・ヴェーダ科学の最も基本的な「論理的考証」のひとつの形に過ぎない。つまり、ヴェーダの論理にとっては基本中の当たり前のことである、ということです。当然のように「古代科学音楽」の旋法:ラーガの音の組み合わせも、この感覚が基本になっています。

次の問題は、そのような「基本的な構造」を、「現実論、結果論」に当てはめてしまうということ自体の「枝葉偏重論の誤り」に対する疑問を説く人が殆ど皆無である、ということです。そして、前述したように、そもそも「枝葉の状態は結果」である場合が殆どであるにも関わらず、より根源に近い「中枝」について考えないということは、より深刻な問題である筈です。

この問題は、「中医・漢方弁証論治」の現状にも見られます。「中医・漢方弁証論治」の場合は、「現代アーユルヴェーダ」のような「固定的な体質」という解釈に偏ることはしていません。あくまでも「結果論」は、何らかの病気・不調の結果であると考えるからです。これが「中医・漢方弁証論治」に於ける「証(状態)」です。

そして、その「より内面的な原因」を様々な看たてによって検証を進め「表=表面的に現れた急性症状」「裏=潜在する慢性病因」「実(亢進状態)/虚(衰退状態)」「熱(実の結果論)/寒(虚の結果論)」の組み合わせを「順列組み合わせ」的に分類します。しかし,近年「実=体力がある人の症状/虚=体力が無い人の症状」のような「現象・結果論偏重」のような「遠からずとも当たらず」の解説が、殆ど懐疑されずに、ネット上(漢方薬局を含む)に横行しています。

例えば「アレルギー疾患」と「自己免疫疾患」は、「免疫機構の誤作動である」という次元では、極めて近い関係にありますが、西洋医学では、前者を「体力があって免疫力が強過ぎる」と誤解し、後者が、しばしばかなり衰弱していることもあって「体力がない人の免疫機構の自虐的誤作動」のように解釈されることが多く見られます。さしずめ「現代アーユルヴェーダ」ならば,前者は「Pitta亢進」とされ、後者は、「Kapha亢進」とされるのでしょうが、これらもまた「遠からずと当たらず」です。

勿論、全身的な体力が衰弱すれば「免疫機構」全体が衰退し、「アレルギー」も「自己(攻撃)免疫」も衰退しますから、「体力」と無関係ではありません。しかし、瀕死の重傷を負った獣が追いつめられた時に見せる「過剰防衛」とも思える勢いや威嚇の様を「体力が有る」と判断するような感覚は、如何なものでしょうか? 同じ状況の獣がひっそりと岩の隙間に身を潜めることもあり得、その違いは、後天的な経験や知恵の違いが作用する部分も多い筈です。言い換えれば、後者の「潜んで居た獣」が発見され「追いつめ」られれば、前者になりえる訳ですから・A「証の虚実もPitta・Kaphaも」簡単に逆転しかねないのです。

より具体的な、西洋医学で立証された理論も踏まえて言うならば。「免疫機構」は、自律神経の二系統によって、言わば「正規軍と武装警察」のような役割分担をしています。最終段階的に体力が弱まれば、どちらの武装集団(免疫系統)でも兵糧が尽きたような状態になります。しかし、そもそも「軍」と「公安」は命令系統が異なりますから、現場の「武装集団」をなだめたり、武装解除を強制したりすることは、「火急的な一過性のもの」に過ぎず、命令を下している大元を変えない限り、第二第三の武装集団が送り出されることは必至なのです。これが「局所・対処療法」と「全身・根治療法」の考え方の根本的な違いです。

つまりこのテーマは、東洋医学を代表する「アーユルヴェーダ」と「中医・漢方弁証論治」のいずれもが、西洋現代医学のような「現実論・結果論」に偏って、「局所対処療法」的な考え方をし始めて居るということの現れなのです。これは極めてゆゆしき事態と言わざるを得ません。何故ならば、「東洋医学」がその最も基本的な在り方と価値を自らで失い掛けているということだからです。

東洋医学の最も基本的で、最も重要な論理は「全身医療、予防医療、自然治癒力サポート、根治療法」であることは言う迄もありません。

しかし「枝葉という結果論に局所的に対処することに偏る」というのでは、「全身医療」でもなく、「根治療法」でもないのです。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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ヨーガ・スートラ第2章第23節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


स्वस्वामिशक्त्योः स्वरूपोपलब्धिहेतुः संयोगः॥२३॥
Svasvāmiśaktyoḥ svarūpopalabdhihetuḥ saṁyogaḥ||23||
スヴァスヴァーミシャクティヨーホ スヴァルーポーパラブディヘートゥフ サンヨーガハ
客体と主体の力と本性を認識する目的で、結合する。

簡単な解説:前節において、解脱した見るものに対して見られるものは消滅するが、見るものは生物の数だけあり、解脱しない見るものがある以上、依然として見られるものは消滅しないと説かれました。本節では、その見るものと見られるものの結合は、両者の本性を認識するためであり、また、両者の力を展開するためであると説かれます。

国際ヨーガの日

2017年6月21日は国際ヨーガの日です。

国際ヨーガの日は、ヨーガの普及を目的としたもので、インドの現首相モーディー氏の提案を受け、2014年12月11日に国連で決定されました。今年が第三回目の国際ヨーガの日となります。

6月21日は、一年の内で昼間の長さが最も長い夏至にあたります(夏至の日にちは前後にずれが生じます)。夏至はさまざまな慣習で重要な意味を持ち、太陽礼拝が重視されるヨーガにおいても、特に重要視される時です。

インドの暦では、夏至の後の最初の満月が師を讃えるグル・プールニマーとして祝福されます。一説に、ヨーガの伝承は、その起源であるとされる偉大なグル、シヴァ神によってこの日(夏至)に始まったと信じる人々もいると伝えられます。

6月21日は世界の各地でヨーガに関するさまざまな催し物が行われるようです。この機会に、インド古代の叡智であるヨーガに触れているものも良いかもしれません。

शान्तिमन्त्रः śāntimantraḥ シャーンティマントラ

「シャーンティマントラ」として知られる、
世界や生類の安寧を祈るマントラ
lokāḥ samastāḥ sukhino bhavantu
実はこれは一部分で、全体は次のような詩節です。

स्वस्ति प्रजाभ्यः परिपालयन्तां न्यायेन मार्गेण महीं महीशाः ।
svasti prajābhyaḥ paripālayantāṃ nyāyena mārgeṇa mahīṃ mahīśāḥ |
「民に幸あれ。正しい道理に従って地上の王たちは地上を守護したまえ。」

गोब्राह्मणेभ्यः शुभमस्तु नित्यं लोकाः समस्ताः सुखिनो भवन्तु ॥
gobrāhmaṇebhyaḥ śubhamastu nityaṃ lokāḥ samastāḥ sukhino bhavantu ||
「牛や聖者たちに常に恵みがありますように。世界のすべてが幸福でありますように。」

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||
「オーン、シャーンティ、シャーンティ、シャーンティ」

 

【単語の意味と文法の解説】

 

左から、デーヴァナガーリー表記、ローマ字表記、<名詞の語幹形、動詞の語根形 >、語意、(文法的説明)、「訳」、という順番で説明しています。

 

स्वस्ति svasti <svasti-> 幸い、安寧(格変化せず祝詞として使われる。)「幸あれ!」「安寧あれ!」

प्रजाभ्यः prajābhyaḥ <prajā-> 生類、人類、民、子孫(女性名詞、複数形、為格)「民のために」

परिपालयन्ताम् paripālayantām <pari√pal-> 保護する、守る(能動態、3人称、複数、命令)「保護せよ!」

न्यायेन nyāyena <nyāya-> 正しい(形容詞、単数、具格)→次のmārgaを修飾

मार्गेण mārgeṇa <mārga-> 道(男性名詞、単数、具格)「道に沿って」

महीम् mahīm <mahī-> 大地(女性名詞、単数、対格)「大地を」

महीशाः mahīśāḥ < mahī-īśa- > 大地-支配者(男性名詞、複数、主格)「大地の支配者たちは」

गो go <gau-> 牛(女性(または男性)名詞、複合語:神聖な存在としての)「牛と」

ब्राह्मणेभ्यः brāhmaṇebhyaḥ <brāhmaṇa-> ブラーフマナ(ブラーミン)(男性名詞、複数、為格)「ブラーフマナたちのために」

शुभम् śubham <śubha-> 吉祥、恵み(中性名詞、単数、主格)「吉祥が」

अस्तु astu <√as-> ある、いる(能動態、3人称、単数、命令)「あれ!」

नित्यम् nityam <nitya-> いつも(中性形、単数、主格:副詞的に使われる)「常に」

लोकाः lokāḥ <loka-> 世界 (男性名詞、複数、主格)「世界が」

समस्ताः samastāḥ <sam-√as-> まとまった、全部の(形容詞、男性形、複数、主格)「一切の」

सुखिनः sukhinaḥ <sukhin-> 幸福(男性形、複数、主格)「幸福な~」(loka-を修飾する形容詞として)

भवंतु bhavantu <√bhū- > なる、ある(能動態、3人称、複数、命令)「~になれ!」

ॐ om < a-u-m > 聖なる音「オーン」

शान्तिः śāntiḥ <śānti-> 平安(女性名詞、単数、主格:)「平安」

 

様々な日本語訳、英語訳がありますが、
もともとの意味はとてもシンプルです。
現代の日本では、「王」や「牛」といった言葉は
実感がわきにくいかもしれませんが、
マントラの背景にはインドの文化や社会があります。

「牛と聖者(=ブラーフマナ)」という言葉は神聖なものの代表で、
そういう神聖な存在が正しく敬われる状態を
平和な世の中として表現しています。
律法書『マヌ法典』では
国や人民を守る王の役割が重要視されているのも
古代から戦争が多かったこととは無関係ではないでしょう。
「プラジャー प्रजा prajā」は人民、子孫の意味で使われることが多いですが、
生類、被造物という意味もあるので、
今では地球環境や生き物も含めた平和の祈りとも解釈されています。

このマントラと似たような表現はプラーナ聖典にいくつかあるのですが、
正確な出典は不明です。さらに長いヴァージョンもあるようです。
世界の平和を願う人々の気持ちから自然に広まったのかもしれません。
(文章:pRthivii)

バクティ・ヨーガの教え

宗教を超えた信仰のあり方に、バクティ・ヨーガの実践があります。中世のヒンドゥー教において盛んとなったバクティ・ヨーガは、献身的な礼拝、絶対神への帰依、信愛や奉仕を特徴とし、近代の代表的聖人であるシュリー・ラーマクリシュナ・パラマンサの生き方にも見ることができます。長きにわたり偉大な信仰の規則に順々と従いバクティ・ヨーガを実践し続けたラーマクリシュナは、そこで完全な悟りの境地に到りました。ラーマクリシュナの人生は、言葉では証明することが難しいバクティ・ヨーガの本質を明らかにし、それがサマーディに近づくための、とりわけ優れた方法であることを伝えています。

ラーマクリシュナは、自己を放棄し、俗なるなものとの繋がりを断ち、願望を捨て、神へ無条件に身を委ねる必要があるバクティ・ヨーガを、あらゆる修行の中でもっとも容易で直接的なものであると考えました。しかし、それが一番難しいと感じる人もいるでしょう。バクティ・ヨーガは、明瞭で定まった心を持つ人にとって実践しやすいものであり、どんな人でも容易に実践できるものではないかもしれません。集中(ダーラナ)、瞑想(ディヤーナ)、三昧(サマーディ)を同時に実践するバクティ・ヨーガやラージャ・ヨーガにおいては、主体は自分でなく、神という全体であり、そこで自我が完全に消え去る、究極の境地に到ります。

バクティ・ヨーガは、思考ではなく感情に働きかけるものであり、私たちの心に深く浸透します。それは、感情を壊すと同時に、感情を育むことでもあります。自己を制しながら欲望を超越しようとする教えは、時に強い反応を生み出しますが、バクティ・ヨーガは、神への愛に夢中になることで苦しみを生み出す欲望が自然と消え去ります。

バクティ・ヨーガは、宗教を持たない人にも、信仰を育むシンプルな方法となるでしょう。バクティ・ヨーガの思想は、他のヨーガに比べ、西洋文化により近いものかもしれません。本質的な部分は同じであり、バクティ・ヨーガに似たライフスタイルが西洋の宗教の慣習にあるためです。

バクティ・ヨーガの教えを説くバガヴァッド・ギーターで、クリシュナは次のように語っています。

「私に意(こころ)を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。あなたはまさに私に至るであろう。私は必ずそうなると約束する。あなたは私にとって愛しいから。」
(バガヴァッド・ギーター第18章65節、上村勝彦訳)

職業、性別、年齢にとらわれることのないバクティ・ヨーガの教えは、宗教の枠を超えて、いま世界中に浸透しています。

(SitaRama)

マータンギー女神の隠された性質

マータンギー女神と言えば、サラスヴァティー女神のタントラ型とも言われ、芸術や言語などの分野の方に、信奉される神様です。
しかし、マータンギーには隠された性質があるのをご存知でしょうか?
マータンギー女神を信奉していたマータンガ族は、インドの歴史の中で、最下層のカーストに組み入れられた歴史があります。
そのため、人々が嫌がる死体の処理に関する仕事などを強いられました。また歌舞音曲を披露して日銭を稼がなければならないような生活もさせられたと想像されます。
そのため、彼らの信奉していたマータンギー女神は芸能の神となる一方、現代ヒンドゥー教で唯一ともいえるたいへん穢れに強い女神となったのです。
マータンガ族は、被支配者階級だったとは言え、もともと大変優秀な民族でした。
彼らの信奉していたマータンギー女神は、次第に支配者階級にも取り入れられるようになったとも考えられます。
さらに、マータンギー女神の異なった形として良く知られるラージャ・マータンギー女神は、不可能を可能にする神としても知られています。
以前、インドの某州の知事が、ラージャ・マータンギー女神の信奉者で、本当は知事になれる運命にはなかったのですが、この女神のプージャーによって知事の座につくことができた、という話も聞いたことがあります。
この女神を信奉することにより、大いなる祝福を得ようではありませんか!

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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第8回グループ・ホーマ無事終了のお知らせ

第8回グループ・ホーマにお申込みいただきました皆様、誠にありがとうございました。

第8回グループ・ホーマは、6月15日に無事に終了いたしました。

プージャーの写真を以下に掲載させていただきます。

神々の祝福と、より良い体験がありますよう、心よりお祈り申し上げます。