スタッフ日記:ケーララ豪雨災害の支援状況について

ケーララ豪雨緊急災害支援募金にご協力をいただいている皆様、温かいご支援をいただき誠にありがとうございます。
多くの命が奪われた豪雨災害の後、本格的に支援が始まって約1ヶ月が過ぎました。
これまでに実施してきた支援の状況をご報告させていただきます。

支援はまず、食材、洋服、台所用品、学用品など、生活必需品の配給に始まりました。
貧しい人々が暮らすダリット村では、これまでに複数回の物資の配給を行っていますが、まだ物資の不足が続いているため、今後も定期的に配給を行う予定です。
まだ支援が届いていない地域もあるため、可能な範囲で物資を届けることを計画しています。
配給の際には、冗談を言ったりして、人々が笑顔になるように心がけています。

そして、家屋の掃除に取り掛かりました。
家屋は泥や汚水にまみれ、亡くなった動物もそのままにされています。
感染症を防ぐためにも、しっかりと掃除をすることが必要不可欠でした。
多くの家屋はコンクリや石造りであるため、倒壊していなければ、洗い流して殺菌をすることで、以前のように使用することが可能です。
写真は、隣州タミルナードから出稼ぎ労働にやってきている人々の家屋です。
彼らはケーララ州の人とみなされていないため、政府からの援助を受けられず、非常に大変な思いをしているとのことでした。

また、重要となるのが井戸掃除でした。
ケーララ州では多くの人々が井戸水を使用していますが、汚水が入るなどして井戸が使えなくなってしまいました。
求められる支援の中でも、井戸の掃除をしてほしいという声が多くあります。
写真のように掃除をした後、浄化をする薬を入れて24時間待つと、通常のように使えるようになります。
井戸水が使えるようになり、清掃もはかどり、病を防ぐことが可能となります。

現在、問題なのがトイレです。
ダリット村の家にはトイレがないため、村で共同で使えるトイレを以前作りました。
しかし、洪水で被害を受けたため、修繕、もしくは作り直す必要があります。
トイレが使えないことは、女性にとって大きな問題です。
トイレのために森や茂みに入り、性的暴行にあうことも少なくありません。
また、我慢している人も多く、病気になりやすい環境です。
飲み水が汚染され、衛生的にも環境的にもよくありません。
ここで、環境にも良く、安全にいつでもトイレに行けるように、複数のトイレ建設を検討しています。
ご参考までに、トレイ建設の費用は以下のようになっています。
・一層式のトイレ:約40,000円
・二層式のトイレ:約60,000円
・三層式のトイレ:約80,000円

そして、今後はマイクロビジネスの支援に着手したいと考えています。
洪水によって、貧しい人々は家族のように大切にしていた多くの家畜を失いました。
以前のように卵やミルクや野菜を売って収入を得られるように、鶏小屋や家禽などの支援を計画しています。
また、NGOの支援によって洋裁訓練を受け、仕立て屋として収入を得ていた女性も多くいます。
しかし、浸水被害によって足踏みミシンが使用できなくなってしまったため、今後はミシンの支援も検討しています。

本格的に支援が始まって1ヶ月が経とうとしています。
貧しい人々の多くは、この豪雨災害によって、必死の思いで築き上げてきたものをすべて奪われました。
将来の望みを失い絶望の中にある人々も、皆様の温かいご支援に支えられ、日々を生きようとしています。
すべてを失った人々は、非常に大きなショックを受け、精神面でより大きなサポートを必要としています。
この苦難も、明るい未来への転換期となりますよう、皆様の温かいご支援を心よりお願い申し上げます。

(スタッフ:ひるま)

アナンタ・チャトゥルダシーの神話

2018年は9月13日に、インドの各地で盛大なガネーシャ降誕祭が祝福されました。
伝統に従う人々は、このガネーシャ降誕祭において土でできたガネーシャ神像を祀り、10日間に渡って礼拝を続けます。
そして10日目、その神像を川や海へと流す、ガネーシャ・ヴィサルジャンという祝福が行われます。
土でできたガネーシャが、自然に還りながら、私たちのカルマを溶かしていくのだと信じられています。

このガネーシャ・ヴィサルジャンを行う日は、アナンタ・チャトゥルダシーとも呼ばれます。
アナンタ・チャトゥルダシーには、聖者として知られるカウンディニャと、妻であるスシーラにまつわる、ある神話が伝わります。

カウンディニャとスシーラが川沿いを歩いていた時、カウンディニャは沐浴のために川へ入りました。
一方で、スシーラは熱心に祈りを捧げる女性たちに出会います。
女性たちは、アナンタと呼ばれる永遠の蛇を礼拝していました。
その神前には、14の結び目がある聖紐が捧げられ、祈りが終わると、女性たちはその聖紐を手首に巻きつけました。
14年間に渡ってそれを身につけ、アナンタへの礼拝を行うことで、限りのない豊かさが授けられるのだとスシーラは教えられます。

信心深いスシーラは、アナンタへの礼拝を行うことを決め、その聖紐を手首に巻きつけます。
すると、カウンディニャとスシーラ夫妻は、みるみる豊かになり、周囲には富が溢れるようになりました。
ある時、カウンディニャはスシーラの手首に巻かれた聖紐に気がつき、スシーラはアナンタの礼拝について説明をしました。
しかし、豊かになったのは自分の努力のおかげであり、アナンタの恵みによるものではないと、カウンディニャは怒り、聖紐を捨ててしまいます。

しばらくすると、カウンディニャとスシーラは数々の苦難に見舞われ、極度の貧困に陥りました。
カウンディニャは、アナンタへの敬意を欠いたことによって、貧困に陥ったことに気がつきます。
その後、カウンディニャは14年間に渡ってアナンタへ捧げる苦行を行うと、罪は取り除かれ、再び豊かさに恵まれたといわれます。

強い自尊心や慢心は、私たちに苦難をもたらす大きな障壁であると、古代から伝えられてきました。
個々の心が全体である崇高な存在から離れることで、迷いや疑いに苛まれ、あらゆる物事が複雑に、そして困難が増していきます。
一方で、謙虚さは、私たちを全体である崇高な存在に結びつけます。
受け入れること、身を任せること、そうして生まれる大きな平安や至福の中で生きる時、限りのない豊かさに気づくことができるに違いありません。

こうした神話を学ぶことは、真の豊かさとは何か、自分自身の生き方を見つめる良い機会となるはずです。
アナンタを礼拝するアナンタ・チャトゥルダシーは、今年は9月23日(一部地域では14日)です。
皆様にも大きな恩寵がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

(文章:ひるま)

151、アーユルヴェーダ音楽療法入門13(宇宙からの音)

スピリチュアル・インド雑貨のお店:シターラーマさんのご好意で連載させていただいております、このコラムの記念すべき第一回目で概略をお話しましたのが、「インド科学音楽(Shastriya-Sangit)では、楽器の音も人間の声(声楽)も、全ては『宇宙の波動:Nada』を受信したものである」という絶対的な基本についてでした。今回は、連載第一回目より一歩掘り下げたお話をしたいと思います。
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今日でも、インドの音楽院などで「インド音楽の楽理や歴史」を学ぶと、必ずこの話「楽器の音も人間の声(声楽)も、全ては『宇宙の波動:Nada』を受信したものである」が最初に登場します。
しかし「口先だけの空論」と言っては叱られますが、実際のところ、数千年の間に、インド古典音楽は「科学音楽」から「芸術音楽」に徐々に変貌し、後者に於いて「人間に聴かせる」という観念が台頭するに従って、「音楽=宇宙との対話」という観念が廃れて行きました。従って、音楽院などでのレクチャーは「お決まり・通過儀礼的・有名無実な話」と言わざるを得ないところもあります。
しかし、「鑑賞芸術音楽としてのインド古典音楽」ならばいざ知らず。「音楽療法」の場合、この基本から見直さない限りは、やはり「本末転倒・仏作って魂入れず・実も蓋も無い」ものになってしまいます。何故ならば、「宇宙との対話」の中で得た叡智は、「聴衆との対話」の中では、殆ど活用されない。それどころか、むしろ「邪魔な知識」になるからです。
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古今東西で、心ある音楽家にとって、「自分の信じる音楽・目指す音楽」と「聴衆の評価(好反応・盛り上がり・素人ものさしの批評)」は、得てして「諸刃の剣」で、前者を優先すると(最高レベルの音楽家のことですから、単なる「独りよがり」のレベルではないことは言う迄もありません)聴衆が引く・ノラない・冷める・しらける。後者を優先すると「その場の満足や楽しさ」は、聴衆のみならず音楽家自身も得るでしょうけれど、何処かに「後ろめたい・罪悪感や自己嫌悪」のようなものが拭い去れないものです。ある種「芸術家の永遠のテーマ」とも言えます。
これを「心ある音楽家」と述べたのは、昔(戦中=即ちインドの場合王国時代生まれ)の音楽家の場合、「後者に偏った演奏=大衆迎合=恥ずかしい、みっともない、下品、せこい」という「プロの目(評価)」があったからです。それをせず慎むのが「心ある音楽家」であり、「伝統、流儀、品格、重み、そして『音楽の在るべき姿』を守ることを優先している姿です。そうでない音楽家は「利己的・自分の俗的名声を欲し、守るべきものを遺棄する姿」であり、大いに軽蔑されたものです。
しかし、彼のインドでさえも、1980年代辺りから急速に変貌し始めました。そして、今日では、世界中でおそらく誰もがそう思って疑わない(かも知れない)「音楽って楽しむためや癒されるためのものでしょ?」という価値観が定着しつつあります。よって、最早今日、前述した「後ろめたい・罪悪感や自己嫌悪」などの感覚を「全く抱かない」音楽家ばかりかも知れません。
もしかしたら世界で「そうじゃないんだ!」と説いているのは、このシーターラーマさんでの私のコラムだけかも知れません。
(『西洋クラッシック音楽は違うだろう!』と思いたいところですが、有名なショパン・コンクールなどでも、日本人が上位入賞する頃から、「表面的な技巧が優先されるように変貌して来た」と嘆く人(海外に多い)も居ます。)
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しかし、「アーユルヴェーダ音楽療法」に於ける音楽は、そのような「楽しみ・癒し」の音楽では決してないのです。そう言い切ることが出来る根拠は、「体のアーユルヴェーダ」の「薬学」に於いて明言されていることが「心のアーユルヴェーダ(Mantra/Yantra/Shastriya-Sangit)」に於いて「無関係」の筈がないからです。(むしろ「全く同じだ」と言いたいですが、日本でも増えつつあるアーユルヴェーダ関係者でそう言っている人は皆無のようにも思えます。)
「体のアーユルヴェーダの薬学」に於いては、「薬(生薬)」の「味と効能」は、「通常意識=Ahamkaraの味覚(舌先で感じる味)」と「体(臓器や細胞)が感じる味」は「全く別物である」という基本があります。それはアーユルヴェーダ以外の東洋医学でも、アジア・アフリカ・アメリカ大陸(先住民族)の民間療法でもある程度は共通して言われています。(アーユルヴェーダ程論理的な体系を構築していませんが)
例えば、「夏野菜」の多くは、暖めようが、油で揚げようが「体を冷やす効果」があるような話しです。もちろん、実際に冷たいもの(カキ氷など)を食べれば、「口先~食道~胃」を通る間に一時、体は冷やされます。しかし「アーユルヴェーダ薬学」などで説いているのは、その成分が「消化吸収・代謝」された際に「どう効果するか?」というテーマです。これは「暖める・冷やす」のみならず「pHの上げ下げ」「対峙する二系列の自律神経系への作用」などもあります。
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本題の、「インド科学音楽(Shastriya-Sangit)では、楽器の音も人間の声(声楽)も、全ては『宇宙の波動:Nada』を受信したものである」という絶対的な基本には、実は、しっかりと論理的に考え理解すべき二つの大きな課題があります。
ひとつは「宇宙の波動」は、それこそ「無限」とも言えるだろう程の種類、バリエーションがあり、それには「有害なもの・無害なもの・有益なもの・無益なもの」などが混在している、ということです。それは、宇宙のほんの一惑星に過ぎない地球上にさえ、膨大な種類の生き物が生息していることと同様の神秘的なテーマの「宇宙サイズ」の話です。
そして、この「有害なもの・無害なもの・有益なもの・無益なもの」は、「受信者の日々の体調変化によっても作用・結果が異なる」ということがあります。従って、「Ahata-Nada(宇宙の波動:Anahat-Nadaを受信して、楽器や肉声から発せられる音。動物や鳥は自然に最善のそれが出来るらしい)」の達人でさえも、日々、瞬間に異なる「宇宙の波動」や「その乱れ」の中で、「最善のものを最適に」受信し変換することは極めて困難な技である、というテーマです。
もうひとつの課題は、この「宇宙の波動Nada」がヨガと瞑想でも語られていることとの照合です。ヨガと瞑想では、「宇宙の波動」は「Purana(気)」と呼ばれますが、本来は「Nada」であったことは、「体の中の経絡をNadi(Nadaの通り道)」と呼んでいることでも明らかです。「波動・気」を取り込むことの関連とも言えなくない「呼吸法(Puranayama)」との混同や説明の便宜上、何時しか「プラーナ」の呼称が一般化し、またその取り込みも(分かり易い)「呼吸」に限定される方向に至ったのでしょう。
同時に、「宇宙の波動の享受」も、「チャクラを通し第七チャクラで宇宙と連結する」という「個々の人間本意」のイメージに偏り、宇宙から常にあらゆるものに降り注ぐ「波動」を「如何にして受け止めるか?」というテーマが希薄になっています。
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実は、この二つの問題は同源同義でありながら、互いにそれぞれの理解を阻害している面もあります。前者(科学音楽に於ける宇宙波動の享受)の問題点は、「何故直接受け止められないのか?」という点であり、後者(ヨガ・瞑想に於ける宇宙波動の享受)の問題点は、「何故チャクラを開かないと繋がらないのか?」という点です。
後者を言い換えれば、「人間は普通にしていても、正しく波動を受け止めることが出来ない」ということであり、そもそも「波動は人間のどの器官(Indria)で享受するのか?」ということが謎のままなのです。
それは単純に第七チャクラではないことは明らかです、「七つのチャクラ全てが開き・滞りなく通じること」が不可欠だからです。つまり「稲妻」のようなもので、「七つのチャクラが開き、全てのナーディが滞りなく通じている」ことの他に、第一チャクラで地面の電極に接していなければ通電しない、かのような話です。
チャクラを整えることで体中のNadiとチャクラが立派な受信器官となるのですが、ヨガや瞑想は、そのテーマやその先のテーマをほとんど説かず「意識を宇宙と繋ぎ・宇宙に飛ばす」というような「現世からの逃避」的なテーマに大きく偏っています。(ヴェトナム反戦運動時代から定着した感があります)。これは極めて深刻な問題で、私の心の師(間接的には孫弟子とも言えますが)ヴィヴェカナンダ師が言い続けながらも、側近や共鳴者さえも充分に理解していない(理解しているからこそ歪曲した人も含め)テーマでもあるのです。
私が特筆したいヴィヴェカナンダ師の言葉は「論理は信仰の敵ではない。むしろ最大の味方である」というものです。これは私が何度となく図解(Yantra)で説いています「精神世界の構造」と「樹木に喩えた精神性」と同じテーマです。「論理的であること」は「理屈っぽい」でも「理性的」でも「理論的」でさえも全くなく、「樹木の幹~根っこの視座で物事の全体像を俯瞰し、より深く理解すること」に他なりません。それによって精神的に「地に足が着く」「大地に根を張る」ということが可能になるのです。
「地に足が着く」「大地に根を張る」という言葉を臆せず語る人は少なくありませんが、「枝葉感覚・価値観」と決別していたり、決別せずとも制御出来る論理的思考力を持った上でおっしゃっている方に、残念ながらまだ出会えていません。(意外にTVによく出ている老(という程でもないが)若男女で三名ほど、「あっ!この人は素質あるかも!」という人が居ますが。)
「論理的思考力の構築によって地に足が着く・大地に根を張る」ことに、ヨガによる「体のゆがみの修正と呼吸法の改善」が加われば、私たちの体は、まるで「避雷針」のように、「天と地(BrahmaとPritvi)」が通電した中に置かれ、立派な受信機となる訳です。
この段階に至れば、「波動を受け止める人間の器官は何処か?」は、最早愚問に至ります。宇宙(天)から降り注いだ波動が私たちの頭頂部の第七チャクラから下方へ進み、第一チャクラから地に至るであろうと、逆であろうと。
そもそも私たちの体から大地(地球)に抜けた(通じた)後、それは地球を貫通して行くのでしょうから。
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しかし、それでも尚、「無限の種類の波動をどう選択するのか?」という課題と、前述した「避雷針のようなチャクラ・ナーディ受信機」で体(無論心・精神もですが)を貫通させただけで、「心と体」にどんな効果効能があるのか?という課題が未解決です。
そこで「同じNada」を科学音楽(Shastriya-Sangit)がどう解釈し説いているか?が重要な鍵となるのです。詳しくは、このテーマの第三弾(一二年後?)になりますが、搔い摘んで述べますれば。
科学音楽にのみ存在する論理性(古典音楽にも片鱗はありますが、論理的には理解されていないことがほとんどです)によって、「波動を選択する」ことと、「論理的思考のフィルターによって心と体の必要部位に届けられる」ということによってのみ、前述の「未解決の課題」が理解(納得)されるのです。

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何時も最後迄ご高読をありがとうございます。

福岡市南区の自宅別棟楽器倉庫の教室では、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行っています。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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ピトリ・パクシャ2018

日本において先祖供養が行われるお彼岸の中日は、秋分の日(昼と夜の長さがほぼ同じになる日)として知られています。悟り(仏)の世界を彼岸、煩悩に満ちた世界を此岸と呼ぶ仏教では、彼岸は西に、此岸は東にあるとされてきました。太陽が真東から昇り真西に沈むこの秋分(また春分)は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなるとされ、この時に先祖を供養する行いがされるようになったと言われます。

インドではこの先祖供養の時にあたるのが、2018年は9月25日から10月9日までの約2週間、ピトリ・パクシャと呼ばれる期間です。この間は、先祖が地上にもっとも近づくと言われ、熱心な先祖供養の行いが執り行われます。それにはこんな言い伝えがあります。

マハーバーラタに登場する不死身の英雄カルナ王は、多くの人々に金や銀を与えてきましたが、天界にいった時、食事と水を与えられず空腹に苦しみました。それは、カルナ王が人々に金と銀しか与えず、食事と水を施さなかったことに理由がありました。神々はカルナ王に、地上に戻り人々に食事と水を施す機会を与えます。再び地上に戻り、人々へ食事と水を施したカルナ王は、その後、天界で幸せに暮らしたと言われています。

カルナ王が地上に戻ったのが、このピトリ・パクシャの約2週間であるとされ、人々は先祖だけでなく、貧しい人々への食事の施しを熱心に行います。インドでは、私たちは先祖と血縁関係で結ばれているだけでなく、先祖の行いや思いの影響を非常に強く受けていると信じられています。先祖を飢えさせないよう、先祖だけでなく、貧しい人々にも食事や水を恵むことで、先祖の魂は満たされ、私たちもまた祝福されると伝えられてきました。何より、そうして行われる善行は私たち自身の行いを清めるものでもあり、これから先をより良い方向へ導くものに他ありません。

さまざまな聖典の記述に従って複雑な儀式が執り行われるインドの先祖供養では、シュラーッダと呼ばれる儀式が重要視されます。「信頼」や「信念」を意味するシュラーッダは、信愛から生じる不変的な気づきに他なく、家族という身近な存在を敬う気持ちが、私たちをより良い道へと導きます。起こる物事にはすべて大切な意味があり、それらが私たちのこれからを最善に導いていることに気づき、こうして与えられた今という機会を大切に生きていきたいと感じています。

(文章:ひるま)

参照:”Significance of Pitru Paksha”, http://www.speakingtree.in/blog/significance-of-pitru-paksha

ヨーガ・スートラ第3章第35節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


सत्त्वपुरुषयोरत्यन्तासङ्कीर्णयोः प्रत्ययाविशेषो भोगः परार्थत्वात्स्वार्थसंयमात्पुरुषज्ञानम्॥३५॥
Sattvapuruṣayoratyantāsaṅkīrṇayoḥ pratyayāviśeṣo bhogaḥ parārthatvātsvārthasaṁyamātpuruṣajñānam||35||
サットヴァプルシャヨーラティヤンターサンキールナヨーホ プラティヤヤーヴィシェーショー ボーガハ パラールタトヴァートスヴァールタサンヤマートプルシャジュニャーナム
サットヴァとプルシャは、絶対に混合しないのに、想念において、両者を区別しない状態が経験である。他の目的から、自己の目的に綜制をする時、プルシャの知識があらわれる。

簡単な解説:前節において、心臓へ綜制を行うことにより、自分の心をすべて知ることができると説かれまました。本節では、まず、絶対に混合しないサットヴァとプルシャが、想念において混同されている状態が経験であると説かれます。そのため、自己のためのみに存在するプルシャに綜制を行うことにより、真我の知識が現れると説かれます。

スタッフ日記:第31回アンナダーナ終了しました!

第31回アンナダーナにお気持ちを寄せていただきました皆さま、本当にありがとうございます。

今回は、今まで実施していた首都のデリーから場所を移し、聖地として知られるリシケーシュでの実施となりました。リシケーシュは、ヒマーラヤ巡礼の起点となる場所でもあり、インドの各地から多くの巡礼者が訪れる地です。こうした巡礼者に食事を施すことは、功徳のある行いとして古くから伝えられてきました。リシケーシュより、有名な巡礼地であるケーダールナートへ向かう巡礼の途中でも、巡礼者に食事を提供しようと、アンナダーナが実施されていることが多くあります。

リシケーシュでの実施場所は、ガンジス川沿いにあるサイババ寺院のあるガートでした。サイババ寺院は地域に根づいたとても小さな寺院ですが、日常的に多くの人が礼拝に訪れる場所です。特に、サイババを礼拝する吉日である木曜日には、たくさんの人が訪れます。こうした小さな寺院にも、巡礼の途中で立ち寄る人が多くいます。

今回は、そんな聖地において、人々が心を寄せる場所であるサイババ寺院にて実施することができました。地域住民、子どもたち、巡礼者、修行僧の姿が多くありました。サイババ寺院は一般的に木曜日が重要な礼拝日であるため、実施した日曜日の人出はそれほど多くありませんでしたが、お昼過ぎから夕方頃まで、ゆっくりと配膳を進めることができました。口伝えで広まり、離れた場所から来てくださった人も多くいます。

普段デリーで実施しているアンナダーナと同じ予算で準備を進めましたが、首都のデリーに比べ、リシケーシュは若干物価が安いため、デリーで実施するよりも多くの食事を準備することができました。今回は、およそ1300食分を滞りなく配り終えています。

インドはアンナダーナの文化が根づいているため、ケータリングを手配するのも割と容易です。

リシケーシュの日差しはとても強く、テントも張りました。

できた食事は、まず神前にお供えし、僧侶の方にも召し上がっていただきます。

配膳が始まると、次々にたくさんの方々が集まってくださいました。

今回は、今までとは異なる環境の中での実施となりました。さまざまなバックグラウンドを持つ人が集まるデリーとは異なり、霊性修行を実践する人々が多く集まる場所です。こうした聖地に慎ましく身をおく時、必要な時に必要なものが授けられることを実感することが多くあります。手放すことで見えてくる豊かさには、何よりもの幸せを感じるものでした。アンナダーナの実践は、行う側も受ける側も、そうした恩寵に気づく大切な機会となるものです。

リシケーシュでも、定期的にアンナダーナを実践できるように計画をしていきたいと思っています。その他にも、広大なインドのさまざまな地域で実施できるよう、努めたいと思っています。これからも温かいご協力のほど、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

アンナダーナを通じ、皆様にも大きな恩寵がありますように。

(スタッフ:ひるま)

第31回グループ・ホーマ無事終了のお知らせ

第31回グループ・ホーマにお申込みいただきました皆様、誠にありがとうございました。

第31回グループ・ホーマは、9月13日に無事に終了いたしました。

プージャーの写真を以下に掲載させていただきます。

神々の祝福と、より良い体験がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

ウマー女神の愛

ヒンドゥー教の神々は、男神と女神が対になり、夫婦として崇められることが多くあります。
男神は女神の力なしには何もできず、女神は男神なしにその力をあらわすことはできません。
男神も女神もお互いを必要とし、その結合によって宇宙が生まれます。
その象徴に、シヴァ神とウマー女神の存在があります。

ウマー女神は、シヴァ神の妃であるパールヴァティー女神と同一視される女神です。
その名は、「知識」という意味を持ち、シヴァ神の知識という力として崇められます。
ウマー女神は、シヴァ神を夫として得るために、大変な苦行を行なったことで有名です。

シヴァ神は、最高のヨーガ行者ともいわれるように、世界の安寧を願い、山にこもって瞑想に耽るばかりでした。
そんなシヴァ神を振り向かせるために、ウマー女神は大変な苦行を始めます。
その苦行から生み出される熱は、大自然を荒れ狂わせ、神々をも恐怖に陥れるほどでした。

シヴァ神は、そんなウマー女神の姿に心を打たれ、妃として彼女を受け入れます。
シヴァ神とウマー女神は、プルシャ(精神:男性原理)とプラクリティ(物質:女性原理)の象徴であり、その結合は、宇宙が生まれることを象徴します。
そうして生まれた宇宙の中で、私たちは真実を知るための歩みを続けています。

ウマー女神は、シヴァ神への愛を通じた自己犠牲から生まれたといわれます。
その力は、神の存在を知るための光となり、真実に至る道を明るく照らすものとなりました。
私たち自身も、神への自己犠牲を通じて、真実をはっきりと見るための知識を獲得することができるはずです。

その道のりは、ウマー女神が大変な苦行を行ったように、困難や破壊を伴い、容易なものではないかもしれません。
しかし、私たちが経験するさまざまな苦難は、真実を知るための力となるものです。
その力を用いて苦難を乗り越えた時、神との一体という究極の至福にたどり着くことができるに違いありません。

季節の変わり目という変化の時に祝福されるナヴァラートリー祭は、この世界を動かす女神の力を讃える吉兆な時です。
この時を通じて、ウマー女神の愛に気づきながら、知識の光を灯し続けたいと感じます。

(文章:ひるま)

ガネーシャ降誕祭において月を見てしまった際の対処法

2018年9月13日はガネーシャ降誕祭です。

ガネーシャ降誕祭においては、決して月を見てはならないという神話が伝わります。ガネーシャ降誕祭に月を見る者は呪われる、とも伝えられるほどです。その理由は、「ガネーシャと月の神話」にてご紹介しております。

もし月を見てしまった場合は、シャーマンタカとクリシュナ神の神話(シュリーマド・バーガヴァタム)を読むことで、その呪いを解くことができると伝えられます。その物語を読むことができない場合は、以下のマントラを唱えることが勧められています。

सिंहः प्रसेनमवधीत्सिंहो जाम्बवता हतः।
सुकुमारक मारोदीस्तव ह्येष स्यमन्तकः॥

Simhah Prasenamavadhitsimho Jambavata Hatah।
Sukumaraka Marodistava Hyesha Syamantakah॥

シンハハ プラセーナマヴァティートシンホー ジャーンバヴァター ハタハ
スクマーラカ マーローディースタヴァ ヒェーシャ スヤマンタカハ

皆様にガネーシャ神の祝福がございますよう、心よりお祈り申し上げます。

秋のナヴァラートリー祭2018

ナヴァラートリーとは、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティー女神をお奉りするヒンドゥー教の三大祭典のひとつです。「ナヴァ」はサンスクリット語で9をあらわし、「ラートリー」は夜を意味します。したがって、ナヴァラートリーとは、9日間の夜となります。この祭典は、春と秋の年2回、9日間にわたって行われます。ヒンドゥー教のカレンダーでは、月齢にしたがっているために毎年開催時期が多少前後しますが、2018年は10月10日から10月18日まで行われます。

ナヴァラートリーの9日間は、礼拝する神さまに応じて、3日間ずつに分けられます。はじめの3日間は、わたしたちの心の中に潜む不純物や悪徳、欠点を破壊するため、強力な戦士でもあるドゥルガー女神を礼拝します。次の3日間は、すべての帰依者に尽きることのない富と幸福を授けるといわれるラクシュミー女神を礼拝します。そして、最後の3日間は、創造主ブラフマーの妻であり、学問と芸術、そして叡智を授ける女神であるサラスワティー女神を礼拝します。わたしたちは人生のさまざまな局面で、神々からの祝福を求めて、3つの側面をもつそれぞれの女神さまにお祈りを捧げます。そのために、この祭典には9日間が費やされます。

ナヴァラートリーの期間中、真摯な帰依者の中には、断食をしながら、健康や繁栄を願って祈りを捧げる人々もいます。じぶん自身の日々の生活を見つめ直して、人生の向上につながる新しい習慣をはじめるには、昔からナヴァラートリーはこの上ない吉祥の日であるといわれています。

また、ナヴァラートリー祭はドゥルガー・プージャーともいわれ、ドゥルガー女神がとりわけ熱心に崇められる時です。マヒシャースラという悪魔によって世界が征服され大変な混乱に陥っていた時、ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神の3神が力を合わせると、神々の力をすべて兼ね備えた悪を倒す最強の戦士として、ドゥルガー女神はこの世界にあらわれました。

ドゥルガー女神は9日間の戦いの後にマヒシャースラを倒します。この9日間はナヴァラートリー祭として祝福され、ドゥルガー女神がマヒシャースラを倒した日として最後に迎えるのが、2018年は10月19日のダシャラー祭です。

私たちは悪質な感情や思考の数々にまみれることがあります。季節の変わり目は、そういった悪質がとりわけ強くなる時ともいわれ、まるでマヒシャースラに支配されたかのように、私たちの内は混乱に陥ります。ナヴァラートリー祭は、そんな季節の変わり目に訪れます。9日間にわたる断食や瞑想を通じてドゥルガー女神を呼び覚まし、その力を礼拝することで、自分自身の内は浄化され悪質は倒されます。そうして私たちは清らかな心身を取り戻し、ダシャラー祭を祝福します。

ナヴァラートリーは、自身の内面に潜む不浄な傾向を克服するために、非常に重要な期間とされています。この神聖な期間を活かして、わたしたちの内面に潜む悪魔を討ち滅ぼすことができるよう日々を過ごされてみるとよいでしょう。

参照
[1] “Navaratri” from Wikipedia, Free encyclopedia, http://en.wikipedia.org/wiki/Navratri