110、ドゥルガー女神のラーガ(1) Raga:Durga

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ドゥルガーのイメージにみるインド人の母親像?
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商売人に人気なのはラクシュミ女神。音楽・舞踊家の信仰が厚いサラスワティー女神。では、その他の一般の人々にはどの神が人気なのでしょうか? これは多民族国家のインドのこと。地域が異なれば人気の神々も異なって来ます。

主婦であり母である一般のヒンドゥーMrsには、人間の子どもとして生まれたクリシュナに母性本能が掻き立てられると言う人が少なくありませんが、男女を問わず私たちにとっての「母」の存在の女神は、何と言ってもドゥルガー女神ではないでしょうか。

クリシュナの養母:ヤショダを神格化する人々も居ますが、基本的に彼女は人間であるからこその要素が大と思われます。彼女も紛れも無く母性に富んだ存在ですが、もしかしたら、養父:ナンダの父性の方を特筆する人の方が多いかも知れません。(寡聞ながらヤショダのラーガを私は知りませんが、ナンダのラーガは幾つか学びました)

その点では、「マ・ドゥルガー(母なるドゥルガー)」と呼ばれるだけあって、ドゥルガーの母性は、とりわけ信仰が厚いベンガル地方のみならず、インド全土でかなり確立された感じがあります。

しかし、私たち日本人の感覚で言うと、ドゥルガーより、元の姿のパールヴァティー女神の方が優し気に思えます。世界のあらゆる宗教と神話に共通する「天(宇宙)と地(地球)の融和」の創成神話に於いてもパールヴァティーが象徴する「地」は、正に「母なる大地」といった包容力があります。
それに対しドゥルガーは、「たくましい」を通り越して「勇ましい」。否、それをも通り越して「恐ろしい」というイメージさえ抱きかねません。

しかし、「母性の象徴である女神」に「優しさ」を求めるのは、私たちの「甘ったれ根性」の所為であり、「真実の母性」には、「力」と「威厳」そして、しばしば「恐怖」がつきもので、私たちは、甘えるどころか畏怖の念を禁じ得ないのが本来なのでしょう。その意味でDurga女神は、ブラフマン教~ヒンドゥー教の神々の中でも、より古く、より本質的な性質を継承し続けているとも言えます。

神話的に言えば、シヴァ神の妃:パールヴァティーが、悪神の侵攻に対し情けない敗北をくり返す男神を見かねて「私によこしなさい!」と男神達の武器を八本の手に取り、ライオンに乗って闘うとされます。信仰が盛んなベンガルでは虎に乗って描かれることの方が多いようです。そのドゥルガー苦戦した際、怒りに狂った彼女からカーリー女神が現れたとされますが、黒い肌に鉞を持ち、喰いちぎった悪神の血を滴らせる姿には、最早母性は望めません。

また、多くの信者が、パールヴァティー~アンバーマーター~バイラヴィ~カーリ………と繋がる一連の様相(Nava-Druga:九のドゥルガーとしても知られます)の根本に流れる「力」を全ての「力」の源である「Shakti」と考え、地方によっては、「Shakti」も様相のひとつとして具象化されます。

社会学的見地から見れば、各地のアニミズムに自然発生した「母なる大地」の神格化である女神たちを、プラーナ時代の隆盛期にシヴァの妃として統一の流れを構築したのである、となるのでしょう。

しかし、この連載で何度か述べていますように、意外に近い将来、科学的にも解明されるかも知れない「宇宙の波動=気=意志=粒子のような何か」として考えるのであるならば。それは正に「Shakti」と名付けられた或る種の波動であり、それが様々な様相に具象化されるということは、決して矛盾もなければ、おかしなことでもなく。またお伽噺でもないのでしょう。

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絶対音程の無い真言とドレミのド(Sadaj)
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「神とは、波動として宇宙を飛び交う何らかの意志である」という話しとは、一見異なるようで、実は深いところで関わっているのが、「真言(Om)と科学音楽と古典音楽の基本中の基本である「音列の第一音=Sadaj」には、「絶対音程/実音的な高さ」が存在しない、ということです。

インド古典音楽に於ける「始まりと終わり」であり、「全ての根源」とまで言いながら、その「ド=Sa」に絶対音程が無いということは、どういうことなのか?

なにやら「嘘臭い?」「まやかし?」めいた気分になる人が居たとしても当然でしょう。しかも、「ドレミのド」に絶対的な音程が無い以上、例えば「Raga:Durga」を説いたとしても、その実態には「絶対的な姿」というものが「無い」ということになってしまいます。

しかし、以前もどこかで述べましたが、「ドレミのド」に関して言えば、「他の音との関係性で、自ずとその絶対性が見出されて来る」ということなのです。

いみじくも人間が最初に見つけ出した「遠距離通信手段」は、「モールス信号」でした。奇しくもそれは「長い(ー)」と「短い(・)」の二つの信号を組み合わせるものであり、有名な「SOS」は、「・・・ーーー・・・」だそうです。これも絶対的な長さではなく、「長い」は、「短い」の存在によって確立され、アルファベットの各音は、その生み合わせによって確立します。

この連載の第一回目でお話しました「宇宙の波動=音楽の音」もまた、「光の波動」同様に、実は無限のグラデーションなのが、大きく捕らえると「虹の七色」「ドレミの七音」のようになり、楽音は、その関係性で「基音=Sa=Om」が導かれる訳です。

今回の図の「彩られた音の帯」で、「Raga:Durga」「Raga:Mohanam(クリシュナ神)」「Raga:Shankara(シヴァ神)」を羅列し比較したものの、最上段に書きましたのが、「西洋音楽のドレミ(CDEFで表した)とインド古典音楽のサルガム(SRGMで表し、大文字が高い方=ナチュラルもしくはシャープ音、小文字が低い方=フラット音)」です。色は、西洋楽音の場合、「自然倍音」の関係性を示しており、インド楽音の場合、「男性音」と「女性音」の分別をタントラ化して示しています。

しかし「Sa音をSaと感じる理由」は、私たちに「絶対音感」があるからではありません。(「私はある!」と思い込んでいる人以外でも、誰もがある程度は「ある」とは思いますが。「移動ド音楽」であるインド音楽には無用であるばかりか、或る意味不向き・弊害があります)
そもそも「Sa自体に絶対音程が無い」のですし。

では、「何故SaをSaと感じるのか?」

それは、「基音持続法」によって、定義付けされるからです。

例えば、きっと一回は聴いたことがあると思われる「津軽三味線の曲(曲芸的な)弾き」が冒頭に「ドドド、ドソソソソソ、ソドドドドドー」と弾いてから「ドミ♭ファ、シ♭ソ、ファファファファ」と始まりますが、実音は何であれ、その冒頭の「基音のド」と「属音(自然倍音の第五度)のソ」が示され、「じょんがらの音階=ド、ミ♭、ファ、ソ、シ♭、ド」が確立することと同じように、インド音楽も、伴奏弦楽器や、シタールなどが自身で持つ伴奏弦などで、「SaとPa」が鳴らされることで、「用いる音階」が確定する訳です。

しかし、ここに大きな「落とし穴」もしくは「トリック」があります。

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絶対音程の無いことのトリック
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受けとる側の「絶対音感」も、発する側の「絶対音程」も無いのですから、「基音と完全(自然倍音)五度の属音」と、「基音と完全四度の準属音(下属音)」の区別は着かない筈なのです。

何故ならば、「完全五度の音程(厳密な意味での音の隔たり)」は、「ドからソ迄を数えて5つ(半音7つ)」だから「五度」な訳で、「ドからファ迄を数えて4つ(半音5つ)」だから「四度」な訳ですが、「ファから上のド迄を数えて」も、「5つ(半音7つ)」なのです。つまり「ファ~ド」も「五度音程」なのです。

すると、鳴らされた「ドとソ」が「ファとド」では無い保証は、誰にも立証出来ない筈であり、前述の津軽三味線も、「ドドド、ドソソソソソ、ソドドドドドー」ではなく、「ファファファ、ファドドドド……..」かも知れないのです。

ここで、改めて「三種の神々のラーガの音列比較図」を見て下さい。
Raga:Durgaの「m」、即ち、「サレガマ」の第四音「Madhyam」を「基音」と見立てた、「(便宜上の用語としての)四度上転調」は、色分けした「本来の配分」とは大きく異なることが分かります。

その代わり、「Raga:Durgaの四度上転調」の音列は、なんと「Raga:Mohanam」の音配分と同じなのです。つまり、もしRaga:DurgaのSaの実音が「C(A=440hzの場合、下のCは260hz辺り)」の場合、C=260hzをSaと聴くからRaga:Durgaなのであって、もし、F=350hzをSaと聴けば「Raga:Mohanam」となってしまうのです。(実際は音の動きが異なりますから、上級者には分かりますが、響きの全体印象はそう聴こえます)

Durgaと言えば「シヴァ派・シヴァ屋のおかみ(姉さん)」であり、、Mohanamと言えば「ヴィシュヌ派・ヴィシュヌ屋の若旦那(番頭はRama?)」ですから「同じ」となれば大問題です。

この事からも、何度もお話して来ました「音の動きが重要であり、音階=Ragaではない」ことが明らかになりますが、「オクターヴの12半音から選ばれた音素材=音列(音階)」としては、「同じ」に思えるという「トリック(落とし穴)」があるのです。

その結果、「印象論」で言えば、「Raga:Durga」は、「如何にも優し気な母性の象徴」のような響きである訳が、「優しく可愛らしいクリシュナのラーガと同じ要素」だから、ということになるのです。

「絶対音程が無い」ということは、宇宙から「これがSaだ!」の波動は来て居ないということを意味します。Raga:Durgaに関して言えば、宇宙から届く「波動」は、別の図で「五色のひと帯」で示したものに過ぎないのです。まるで、「モールス信号」や「ゲノム配列」のようなものであり、それは、もうひとつ別の図(惑星と共に描かれた)のように、「連続的に無限に」発せられ、届いていて、「色帯」の「濃いピンク(赤?)」を「基音=Sa」と取るから「Raga:Durgaの基本音列である」、ということになるのです。

勿論、実際は、この「音帯=波動」は、図のような単純なものではなく、忙しく複雑に、しかし特徴的・規則的に「うごめき」ながら、連なって届いて来ますから、「基音」を鳴らさずとも「Raga:Durga」「Raga:Mohanam」が区別出来るのです。

逆に言えば、その「定められた音の動き」を分からずに、「音階感覚」で弾いたり歌ったりしてしまえば、「DurgaとKrishnaが、無作為に混じり合う」という誠に奇妙で不謹慎な音のカオスが生じてしまうのです。実際、昨今の演奏者の多くがこのレベルですが。

ちなみに、比較図のシヴァ神のRaga(とは言っても、前々回の連載で述べたように、私自身Shankara=Shivaとは考えてはいませんが)は、奇しくも、DurgaとKrishnaの双方の要素を兼ね添えながら、独特な厳しさがあることが分かります。

もうひとつご紹介する金色のパネルの写真は、Sita-Ramaさんで通販されている「Durga-Yantra」です。

https://sitarama.jp/?pid=1207473

おなじくSita-Ramaさんが紹介されている「Parwati-Yantra」とも似つつも、歴然と異なるのが、均整の取れた安定感と毅然とした雰囲気でしょうか。

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何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

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また、この度「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」を実施致しております。
まだまだご回答が少ないので、
是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。

https://youtu.be/wWmYiPbgCzg

11月12月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行います。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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チャイルド・スポンサーシップのご報告(2017年11月)

チャイルド・スポンサーシップ(子どもの教育支援)にご協力をいただいている皆様、温かいご支援をいただき誠にありがとうございます。11月の配給時の様子が届きましたので、ご報告をさせていただきます。

ケーララ州でも大きな祝祭が落ち着いている時となり、子どもたちは勉学に励んでいるようです。キリスト教徒が多いケーララ州では、クリスマスが盛大に祝福されますが、支援家族にもクリスチャンの子どもたちがいます。アドベントのシーズンを迎えるこれからは、わくわくしながら過ごす子どもたちもいるようです。

女の子たちは、精一杯のおしゃれをして配給の日を迎えます。宗教やカーストに関係なく、お互いに助け合いながら成長していく姿を見ると、子どもたちの姿に学ぶことも少なくありません。配給物資の重い荷物を頭の上に乗せて、離れた村まで歩いて帰る家族もいます。

そして、11月14日はインドで子どもの日が祝福されました。インドの子どもの日は、初代首相であるジャワーハルラール・ネルーさんの誕生日にあたります。ネルーさんは大変子ども好きであったと言われています。

写真を撮れる人がおらず、今年の写真がなく申し訳ございません。以前の写真になりますが、SEEDS-INDIAでも、子どもたちがインドの旗を振って、子どもの日を祝福します。

SEEDS-INDIAでも、子どもたちの教育をとりわけ重視しています。幸せな社会を築くには、未来の社会を担う子どもたちの豊かな成長が欠かせません。ダリット村には、SEEDS-INDIAの支援を受けながら熱心に勉学に励む子どもたちが多くいますが、学校へ行かない子どもたちももちろんいます。そういった子どもたちは、組織犯罪に巻き込まれることが少なくありません。より良い社会のためにも、一人でも多くの子どもたちが幸せな道を歩むことができるよう、母親たちへの教育も含め、可能な限りの支援を続けていきたいと思っています。

いつも温かいご支援をいただき、心より御礼申し上げます。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

(スタッフ:ひるま)

成功の秘訣

成功の秘訣とは、行為の結果を捨てること。バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナ神はそう説いています。その真髄は、行動や仕事を通して完成の境地に達するカルマ・ヨーガにあります。クリシュナ神が示した、社会の中で豊かに生きるための方法、カルマ・ヨーガについて見つめ直したいと思います。

社会生活を営む私たちは、精神的な豊かさに加え、物質的な豊かさを願うことが少なくありません。そんな私たちにとって、日々の生活は何よりもの修行の場として存在しています。そこでの最大の修行とは、行為の結果を捨てることにあると、クリシュナ神は説きました。

成功すれば幸せになり、失敗すれば不幸になる。社会において、私たちは常にそんな結果にとらわれながら行動や仕事をしています。物質自然の三性質の下で生きる私たちにとって、行為の結果を捨てることは、決して容易いことではありません。そのためには、真理を知ることが必要不可欠です。

多くの教えが説くように、神々は天国や寺院にいるのではなく、それぞれの胸の内にいるということを、私たちはまず理解しなければなりません。自分自身の存在こそが、究極の至福であることを理解する時、行為して得るものも、失うものもないことに気がつきます。そうして行為の結果を捨て仕事に集中する時、私たちは最大限の力を発揮することが可能です。

その集中力から生まれる行為こそ、私たちの霊的な力を向上させるものに他ありません。それに従い、必要とされる他の力は自然と生み出され、成功や豊かさは自ずとやって来るのだと教えられました。物質的な豊かさを得るための第一歩は、霊的に進化をすることであり、社会生活を営む私たちにとって、その優れた方法は行為の結果を捨てることにあります。

霊性修行は、決して、洞窟の中だけで実践されるものではありません。バガヴァッド・ギーターには、人生を幸せに生きるための教えが満ちています。その教えを日々の中で活かすことによって、成功が授けられ、アルジュナのようにダナンジャヤ(富の征服者)となることができるに違いありません。

(文章:ひるま)

ヴィヴァーハ・パンチャミー2017

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2017年11月23日はヴィヴァーハ・パンチャミーの吉日です。ヴィヴァーハ・パンチャミーは、ラーマ神とシーター女神が結婚をした日として崇められ、マールガシールシャ月(11月から12月)の新月から5日目に祝福されます。

古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」の舞台の一つで、シーター女神が生まれた場所であり、また、ラーマ神とシーター女神が結婚した場所ともされるネパールのジャナクプルには、各地から帰依者が集まり、盛大な祝福が行われます。

2つの魂の結合を祝福するこの日、ラーマ神の御名やシーター女神のマントラを唱えたり、また祈りを捧げることで、大きな幸せが授けられると信じられています。

参照:http://www.drikpanchang.com/festivals/vivah-panchami/vivah-panchami-date-time.html?year=2017

スタッフ日記:第19回アンナダーナ終了しました!

第19回アンナダーナにお気持ちを寄せていただきました皆さま、本当にありがとうございます。今回は寺院にて、滞りなく無事に終えることができました。

ディーワーリー祭を終えた北インドでは、大気汚染が深刻となっていました。経済の発展による影響だけでなく、ディーワーリー祭で使用される花火やクラッカーに始まり、この時期は冬に向けて焼き畑が行われるため、一年のうちでもとりわけ大気汚染が深刻となります。現在では焼き畑が終わり少し落ち着いたようですが、これから北インドは5度近くまで冷え込むこともあり、焚き火をして温まる習慣もあるため、まだまだ大気汚染が続く時となります。

寺院での実施では、アンナダーナの噂を聞き、毎回たくさんの方々が集まります。周囲まで香り立つギーを使用しているせいもあるようですが、案内等を掲示しなくても、寺院の近所の方たち、近くにある貧しいコミュニティの方たち、その子どもたちなど、アンナダーナの日はいつも寺院が賑やかになります。

特に多いのが、デリーに出稼ぎに来ている労働者の方たちです。労働者の方々は、家族や故郷を離れ、環境の悪いデリーで大変な労働を行う人々も少なくありません。小さな子どもをサリーに巻きつけて背負い、建設現場で働く女性を見かけることもあります。食事を満足に取れない人々も多いようですが、アンナダーナの温かく美味しい食事を通じて、険しい表情の中に穏やかな表情を一瞬でも目にすると、こちらの心も温まります。

いつものように、朝から準備が始まります。すっかり朝晩の気温が下がり、夏場は苦行のようだった火を使う調理も、心地よく進めることができます。

今回は12時半頃に配給がスタートしました。インドのお昼は2時頃のところも多く、配り始めは穏やかです。

1時を過ぎ2時頃になると、いつも行列となります。

小さな子どもたちの姿も多く目にします。

一人でも多くの人が、自分自身の周囲を見つめることで、穏やかな社会が生まれることを実感します。苦悩は自己への執着心から生まれるともいわれますが、本当に、自分の問題ばかりを見つめていると苦しくなります。他を想う過程でその執着心が減り、自分自身の内をかき乱す苦悩が消える時、心には平安が生まれます。他を想うことは、究極の霊性修行なのだといつも気づかされています。

次回は、病院でのアンナダーナを予定しています。次回も温かいご協力のほど、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

アンナダーナを通じ、皆様にも大きな恩寵がありますように。

(スタッフ:ひるま)

ヨーガ・スートラ第2章第46節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


स्थिरसुखमासनम्॥४६॥
Sthirasukhamāsanam||46||
スティラスカマーサナム
座法は、安定した、快適なものでなければならない。

簡単な解説:前節において、三昧の完成は至高神への祈念によって生じると説かれました。本節より、ヨーガの8つの部門の3番目の座法について説かれます。禁戒、勧戒を通じて純化された後は、座法を通じて肉体の純化を行い、それは安定した、快適なものでなければならないと説かれます。

ヨーガ・スートラ第2章第45節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


समाधिसिद्धिरीश्वरप्रणिधानात्॥४५॥
Samādhisiddhirīśvarapraṇidhānāt||45||
サマーディシッディリーシュヴァラプラニダーナート
三昧の完成は、至高神への祈念による。

簡単な解説:前節において、聖典の読誦という自己の学習を通じて、自分の希望する神霊があらわれ交流することができると説かれました。本節では、三昧の完成について、至高神への祈念によって生じると説かれます。本節で、ヨーガの8つの部門の禁戒、勧戒の説明が終わります。

瞑想の力

古代インドにおいて、神の探求のために発展した瞑想は、現代社会において、優れた健康法のひとつとして実践されています。補完・代替医療として、瞑想が積極的に取り入れられることも少なくありません。瞑想の効果については多くの研究がなされ、私たちに与えるさまざまな恩恵が明らかになってきています。

神とは一体どのような存在なのか、古代の賢者たちが静かに座り、熟考したことから広まった瞑想は、悟りを得る手段として大切に受け継がれてきました。現代社会では、瞑想を通じて心身を落ち着けることで、ネガティブな思考が静まり、心身は深い安らぎに包まれるといわれ、癒しの手段として好まれています。また、集中力が高まり、ストレスが軽減し、仕事のパフォーマンスやその満足度が向上するともいわれ、癒しを超えた幅広い分野で実践されています。こうした計り知れない恩恵がある瞑想は、日々の暮らしの中で、世界と調和をする大切な一瞬でもあります。

現代では、磁気共鳴機能画像法(fMRI)や脳波検査(EEG)といった技術の発達によって、脳生理学や神経学の観点から、瞑想の効果がさまざまに実証されています。研究者たちは、脳波を調べ、瞑想がどのように人体に影響を与えるのかを研究してきました。そうした研究は、脳の働きだけでなく、心の健康、認知力、鎮静効果、老化防止、幸福度の向上などにも及んでいます。

こうしたさまざまな恩恵が伝えられる瞑想に取り組む際は、まず、静かで穏やかな場所を見つけましょう。心地よく、リラックスした状態で行うことにより、より深い瞑想状態へと達し、究極の安らぎを得ることができるといわれます。瞑想には、真言を唱えるマントラ瞑想や、自分自身の精神状態を内面的に観察するシンプルな瞑想もあります。視覚化を実践する瞑想は、想像力を使って心身により良い状態を生み出す瞑想テクニックです。その他にも、今という瞬間につながる呼吸を用いた瞑想や、ヨーガのように身体を積極的に動かす瞑想などもあります。自分にとって適切な瞑想を実践することで、その恩恵を深く実感することができるでしょう。

(SitaRama)

ハヌマーンの守護

前回に続きヤントラの不思議な話をご披露させていただきます。
以前、あるクライアント様から電話がありました。何でも車で高速道路を走っていたら、突然どこからともなくバールが飛んできて車に刺さったとのこと。
ご本人に怪我はなかったそうなのですが現在はパーキングエリアにおり、警察の到着を待っている、とのことでした。
この方のホロスコープをみると、その時はちょうど水星・ラーフ・ケートゥのタイミングでした。
この方の土星は4室(乗り物を表します)が自分の家なのですが、度数的に非常に性質が悪く、水星の家で、ケートゥと同居しています。
そしてラーフとケートゥは、その土星を除いて、部分的なカール・サルプ・ドーシャ(過去記事ご参照ください)を形成しています。
この数か月前に鑑定にいらしたときに、すぐにやってくるこの時期(水星・ラーフ・ケートゥ)はかなり危険だと感じました。
そのため、いろいろ検討し、1種類ですべての星をなだめられるハヌマーン・ヤントラの礼拝をお勧めしました。
ヤントラが届くとこのクライアント様は、熱心にマントラを唱えたそうです。
改めてすべての星を詳細に検討すると、他にも良くない星が絡んでおり、この時期本来ならもっと致命的な事故になっていた可能性が非常に高いです。
ハヌマーン・ヤントラが厄災を最小限に抑えてくれたのは間違いないと思います。
神々の依り代ともいうべき、入魂されたヤントラや神像を礼拝することは、人生を本質的に豊かにするだけでなく、大きな守護が与えられるのは間違いないでしょう。
まさに「備えあれば患いなし」ですね。

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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[ガネーシャ・ギリ 同行]最強厄除開運・インド縦断 – 女神と聖者とガンジス川から力を貰う旅

ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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109、古代声楽の後継 Dhrupadの流派 (その1)、(シリーズ:インド古典音楽の流派:第一弾)

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「インドで最も古い声楽様式」は本当か?
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伝統の継承「Parampara」は、インド科学音楽のみならず、ヴェーダの叡智に根ざす様々な科学・文化・芸術にとって、最も大切なものであることは言うまでもないことです。

そもそも、古今東西全ての人間にとって、「自分が属する地域(邦/Des)の伝統文化」に根を生やすことは、「生きる上で最も重要な糧」であることは言うまでもありません。

それに加えて、昔から人間の中には、(たとえばマルコポーロなど)「強く引かれる外国(異邦/Bides)の文化」を徹底的に探求せんとする強い熱望を抱く人が居ましたが、今日のように前者(自国文化に根ざす)をないがしろにして、「国際人」気取りで外国文化没頭に逃避・依存しているような人間は、昔は何処に行っても相手にされなかったものです。

「自国文化に根ざす」こと、

それは枝葉は瑞々しく、太い幹の中も健康でたくましい大樹のひとつの枝葉に生きる意識と感覚の人間、地に足を着け、枝葉の回りの出来事に反応した気分・感情に支配されることはない「あるべき姿」の人間にとって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり「不可欠」でありながら「それだけで充分」の唯一のアイデンティティーでもあるのです。

しかし、近現代の人間の「殆ど」と最早言うべきかも知れないほど多くの人々は、「枝葉に執着・依存」し、外界の条件・影響・日々の出来事などに支配され、それに反応した気分・感情に支配されています。「自国/外国」にかかわらず、そのような感覚の人間に「伝統」というものが果たして正しく理解されることはあるでしょうか?

ところが、インドのみならず、世界的な奇妙な現象で、この10年の間に、「(自国の)古い文化のルネサンス」のようなことが多く興っているのです。そして、外国文化に憧れ熱中する人々もまた、現地のその風潮を「最先端」と感じて追従する傾向にあります。

これは、近年一層顕著になった「(偏った・排他的な)民族主義」の隆盛と、その根底にある「強烈なアイデンティティー願望(承認・肯定願望)」と無縁ではないでしょう。

例えば、今回の表題とテーマである、現存するインド古典声楽の中で、「最も古い」とされる声楽様式「Dhrupad(ドゥルパド)」は、私が現地修行をしていた1980年代には、風前の灯火だったのが、ここ数年で欧米・日本人でも演っていると自称する人が現れ、当然のようにインド人演唱(演奏)者も増えて来ました。

しかし、かつて英国人宣教師が世界に初めてインド音楽を大いなる敬意を持って紹介した文献などで「Dhrupadは、牛三頭を引っ張れるような男に歌わせろ」という有名文句を紹介されたように、肺活量は勿論、体力・精神力がかなり求められる難解かつ重厚な声楽様式だったのです。ところが、近年のインド人演唱(演奏)者に至っては、「猫三匹も抱き上げられない上に、難病の世話など『とんでもない!』んじゃないか?」と思うほどの人物が、マイクに頼ってブレス音さえ聴こえさせて演っている、という有り様です。「腹式呼吸」が出来ない声楽家などあり得ませんし、DhrupadどころかKhayal、Thumriは勿論、インド映画主題歌さえ歌うことが出来ない筈です。しかし「出来ている」と思い込む。

かく言う私は、器楽では、SitarでもSarodでも、当然「Dhrupad-Ank」を演らねばならない流派の一員で。同じ師匠が声楽家でもあったので「Khayal」も専門領域であり、ステージで披露することもあります。

しかし「Dhrupad」は、舞台修行の段階であると師が認めてくれていても、「まだまだとても無理」と思うほど、修行が足りません。それでも本気で練習していた頃は、八畳の教室の窓ガラスがビリビリと音を立て、吊るしてある弦楽器が勝手に共鳴してなるようなことが頻繁にありました。

それが近年インド内外で、まるで小唄をやっと歌えるような発声で、(実際小唄は表現が難しいですが)義太夫を吟ずる。しかも免許皆伝であるかのように人前で、がはびこっていますから驚かされます。

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勿論、そのような「思い上がり」に対しては、古代からインドでも戒めが求められた。と言うことは、何時の時代にも存在したのですが…………………………..。
だから「Narada-Muniの逸話」がある。

「人間で初めて神(Saraswati女神)に師事した」ことで奢ったNaradaが戒められたという逸話です。 日本でも室町時代の雅楽家の残した言葉に「最近の若い演奏者には目を覆うものがある」があると言われます。

しかし、今日に至っての極めて大きく深刻な問題は、インド内外で「苦言を言う」者は愚か「眉をひそめる」者さえも、殆ど居ない状態であることです。完全に「やったもん勝ち」状態です。「バチが当たる」ということさえないのでしょう。

尤も、洋の東西を問わず「バチが当たる」と言われ続けて来ながら、実際「大して当たらない」ことの方が圧倒的に多く。「神頼みしたところで叶えられないし」「神をも恐れぬ輩の方が一生笑って暮らしていやがる」というような状態を百年前から、「どうもおかしいぞ」と気付き始め、とうとうこの10年ほどで、「神は信じない」「アテにしない」「当然『バチ』も当たらない」と考える気運が主流になって来たということなのでしょう。

しかし、もしこれが「自分自身の健康」「自分自身の心と体の正常化」の問題に於ける「健康食品や薬」の問題だとしたら。「より正しい食事や薬」の「より正しい食べ方や処方」を「いい加減で良い」とは思わない筈です。ならば、何故? 自らが熱心に修行し、学び、人に紹介せんと情熱を注ぐ「音楽芸術」に関しても「より本物をより正しく」とは思わないのか?

不思議でなりません。

まず、「Dhrupad」に限らず、インド古典音楽の情報は、ネット情報の殆どが嘘か、幼稚で安直で短絡的な理解や、その引用に終始しており、文献に至っても、最低でも十数冊、しかもより古い文献を検証し、比較して「矛盾する部分に隠された事実(つまり書かれてはいない)」を推測しない限りには、「真実・本物」には近づくことさえも出来ません。

具体的に「Dhrupad」は、「現存する最古の声楽様式」ではありますが、「インドで最も古い様式」ではとんでもないのです。むしろ、並の演唱(演奏)者よりは、Dhrupadから派生したとも言える「18世紀の新様式:Kahyal(カヤール)」の心在る流派の心ある演唱(演奏)者の方が遥かに「伝統的」であり、重厚で格式高く、本物に近いと言える例が幾らでもあります。

加えて、現存するDhrupadのみならず、既に16世紀に「完成した」とされる段階で、かなりにアヴァンギャルドな音楽だったのです。

「伝統とその継承:Parampara」には、「師弟制度と流派」が不可欠です。しかし、それ故の弊害・欠点が、「師匠が黒と言えば白も黒」な「妄信的」な姿が生み出す「疑わないことと思考しないこと」という、安直で短絡的で幼稚な「依存状態」であると言えます。

その結果「師匠が最高」「師匠の流派が最高」と、宣伝員のようなことを自らで義務付けているように見えて、実際は、「地に足も着いていなければ、幹の在り処さえ分からない枝葉人間」が、強い「自己承認願望」の為の「アイデンティティー」に利用しているに過ぎない様子も多く見られます。なので、少しでも「けなされる」と内心孟列に憤慨・拒否反応・反発心が生まれる。

「お前だって似たようなもんじゃないか!」と良く言われますが、おそらくインド人音楽家の数倍は勉強しています。事実、今や巨匠の年齢になったとある有名流派の演奏家が来日した際に色々質問しましたら(互いに20歳代でした)、殆ど返答出来ない。遂に彼はキレて、「お前にこれが弾けるか!」と、父親のフレイズ丸コピーのようなことを弾いてみせて「音楽は理屈じゃない!腕だ!」の捨て台詞を吐いていました。

流石にひとつ「分かってらっしゃる」と感心したのが、「音楽は理屈じゃない!『心』だ!」とは言わなかったところです。何しろ彼の演奏は、何一つ「心に届かない、残らない」のですから。尤も、この問題は、彼の技量・才能・精神性だけの問題ではなく、インド(日本の伝統邦楽もしかりですが)の徒弟制度・流派制度の「やむない弊害」の所為でもあります。これについてはまたいずれ。

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Dhrupadは、かなりアヴァンギャルドだった
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Dhrupadは、サンスクリットを勉強する方なら良くご存知の、紀元前数百年~千年前から、北インドでも16世紀頃まで、南インドでは18世紀まで大流行した韻文形式「Prabandha」の「末期派生型から発した様式の簡略型声楽様式」です。

「派生型から派生した簡略型」。つまり、今日では誰が聞いても「重厚で難解」な声楽ですが、発生当時の主流の声楽から比べれば、極めて安直な軽い形式だったのです。

このことを理解をせずに「歌う」ことは勿論「分かった」も「知っている」も言えないはずです。

などと言うと、「枝派感覚」の人は「なら、お前は知っている、分かっていると言えるのか!」と返して来ます。「枝葉感覚と幹・根っ子感覚」の決定的な違いは、「論理性である」を言う以前に「分類力の有無」にあると言い尽くせます。

そうお考えになって、ヴェーダ科学に基づく様々な叡智について見回して見て下されば、果てはインドに無数な種類がある、所謂「カレー料理」に至るまで、全てに共通して「分類」が極めて重要であることがわかる筈です。

とにかく、ヴェーダ関連、ヨガ関連、アーユルヴェーダ関連には、「専門用語」が多くありますが、ほとんど全てが、「分類」の為に生じた「分別・区別用語」であるとさえ言えます。

例えば、「カレー料理」に関して言えば、大分類は「宮廷料理系」と「家庭料理系」に二分出来、それらは、「インド各地の準菜食カレー」「沿岸部のペスクタリアン(魚介OK)・カレー」「僧侶階級の純(もしくはそれに近い)菜食カレー」と「アフガン民族がもたらしたカレー料理」の四種に分類出来ます。(と説く料理本も意外にないのですが)

この「分類力」と「分類こそが論理性の第一歩」であることの価値が分かる人は、まず「知識であろうと道具であろうと玩具であろうと」、それを整理整頓する為に必要な「引き出し」の数から思考と分類の準備を始めます。

ところが、「分からない人」は、「目の前にあるもの」を取りあえず、目の前に在る引き出しにしまい込みます。

不思議と言うか、皮肉と言うか、個人的な思考性が、「枝葉」の人でも、コンビニやホームセンターに勤めた場合、極めて「論理的な分類」を強いられます。それは「扱う商品」が決まっていたならば、「売り切れ」たとしても、「その商品のスペースは残されている」という習慣・システムです。「只今品切れ中」の札が陣取って。

しかし、そのような習慣があるにも関わらず、実生活・プライベートでは、かつて1980年代に流行した「路上で勝手に不要物を売る→神社などでのフリーマーケット」のように、広げた布に適当に並べ、売れてスペースが出来れば、鞄から他の物を取り出して置く。というような感覚なのです。全て「情報」も「理解」もこの類い。

その感覚の中では、「Dhrupadのルーツ」などを知る必要は無いのでしょう。しかし、これもカレーに喩えれば、「師匠から出来上がったカレーを貰って、日々小出しに披露している」に過ぎず、自分自身で、「具材とスパイス」から料理出来るとは、到底思えません。

ルーツから理解していれば、「具材」や「スパイス」の配分や、万が一の代用も考えつく筈ですが、レトルトの切り売りでは、それは不可能です。

「Dhrupadを分かる・知る」には、そもそも5世紀以前の「Prabandha」から、どのように「Dhruva-Gana」と「Dhruva-Pada」(いずれもDhrupadの前矩形)が生まれたか? を注視せねばなりません。

その結果、既に5世紀~11世紀の段階で、「Prabandha」が時代と用途、つまり「縦軸と横軸」でかなりのヴァリエイションが生じていたことが分かります。

イスラム文化がかつて無いほど強烈に導入された10世紀の段階で、それまでの主流13種のPrabandhaの内の「最も簡潔(簡単?)な四種」ばかりが演じられるようになっていました。 そして、その内の一種が、取り立てて大流行していましたが、ほどなく、その「重要な6要素」を具現する「4つの楽章」の或る様式の7つのスタイルの内のひとつばかりが頻繁に演奏されるようになったのです。

このこと自体は、何度か説きましたように「宇宙の摂理=自然の摂理=生命体の基本構造」と何ら矛盾しません。つまり「拡散・拡大と収束・収斂はくり返されバランスを保つ」ということです。

Prabhandaは、紀元前のヴェーダ科学音楽の実践であった、「歌曲:Gita」が、拡大して生まれた「収束・収斂」の結果だったのです。 しかし、その後また「拡散・発展」を続け、それぞれに数種のスタイルを持つ、13種(→総数は、100種近い)に膨れ上がり、現実世界では、もっぱら数種ばかりとなって、或る種その他は「自然淘汰」された訳です。

今回作成した図版で、流儀や様式が「拡大:増える」時代と、「収束:減る」時代が、百年二百年単位で交互に現れることや、消失した流儀や様式が如何に多いかが見て取れると思います。

そして、「或る種のPrabandha」つまり、「全体の百分の一」に過ぎない声楽様式をまた、更に「簡潔」にしたのが、「Dhruba-Gana」であり、それを、より実践的に簡潔にしたものが「Dhruva-Pada/Dhrupad」だったのです。

ところが、この「PrabandhaからDhruva-Gana」が生じる、10世紀から16世紀、迄の長い期間には、様々な「舞台」つまり、「用途の違うDhruva-Gana」が生じていたのですが、このことを理解している演唱(演奏)者は、私の知る限りでは皆無に近いと思われます。

ひとつは、カシミール、ヴィジャヤナガル、ヴリンダーヴァン等に於ける「科学音楽Prabandha」を基本とする「ヴェーダ科学音楽系Dhruva-Gana」であり、それと近似(しかも地域がほぼ重なる)ですが、目的と意識が異なる「ヒンドゥー寺院のDhruva-Gana」があり、後者の中の巫女(Deva-Dasi)の舞踊のためのDhurva-Ganaと近似しますが、より大きい意図(ヒンドゥー布教の為の)の「舞台芸術に於けるDhruva-Gana」があり、これを「為政者の宗教への布教」とした場合の「庶民の宗教運動(KirtanやBhajanなどのBakiti:献身歌)から生まれらDhruva-Gana」そして、巷でこれらが流行していることからの求めで開発せざるを得なかった「花柳界のDhruva-Gana」。更に、それらの師匠達である「宮廷楽師のDhruva-Gana」の最低6種の「明らかに異なる精神性と技法」のDhruva-Ganaを理解しなくてはなりません。

つまり「Dhrupadを知っている」と言う限りには、前述の「音楽的異なりの(最低でも)13種」の他に、上記の「舞台(精神性)の異なりの最低6種」の計、19種を「知っている」ことが不可欠なのです。

しかし、前述しましたように、「枝葉感覚」の人には、このことの重要性も価値も、また、「知っている」ということの概念も理解出来ないかも知れません。実際、13種の幾つかは、「総論」だけで、「実例」は、全く情報がないものがあります。しかし「引き出し」は、用意されているべきです。確かに、インド古典音楽は、「理論は極めて論理的であるが、実践は極めて合理的・現実的」であります。だからと言って、前者を割愛してしまうことは、「幹からの滋養」を断つ、極めて愚かなことであることは言う迄もありませんし、そもそも「インドの叡智」にもとるものです。

より詳しい説明と「音楽的な異なり」については、いずれ「その2」でお話しますが、上記の異なりを「Dhali(芸系)」とするならば、この後、この「6種のDhali」の幾つかから、或る種の「ステイタス」が主導し、「芸風が二の次に追い掛けた」感じの「楽派:Vani」が生まれます。定説では、Vaniは四種とされますが、これも誤りです。

そして、「次世代新声楽様式:Khayal」が台頭し、Dhrupadが、或る意味「権威的・象徴的」な存在となった(一部のKhayal流派と器楽流派にはコアな部分が継承されましたが)時代以降、或る意味「生き残り」を掛けた創意工夫と、人脈、言わば政治も絡んで生まれたのが、「次世代音楽の流派の観念:Gharana」に準じた、「Dhrupadの新興Gharana」で、最終的には、1947年の「宮廷音楽消滅」迄の間に、8種+6亜流の14流派がDhrupadに生じました。 (その2)につづく

写真のインドEMI盤LPジャケットは、Dagar-Senior-Bros.の名盤です。Dagar一族のAllah Bande Khan が宮廷音楽最後の時代の巨匠で、その息子Nasiruddin Khanも宮廷と共和国初期に名声を博しました。 Nasiruddin には、四人の息子が居て、いずれも兄弟のデュオで人気を呼びました。
上の兄弟(Senior-Bros)と下の兄弟(Young-Bros)には、取り立てて大きな条件の差があったとは思えません。強いて言えば、幼少期に祖父の姿を心に焼き付けたとは言っても、すでに80歳近い高齢でした。しかし、下の兄弟は、Allah Bande Khan没後に生まれています。恐らく、41歳で急逝した父:Nasiruddin Khanの教えを幼少とは言え十分に得ることが出来た上の兄弟と、二三歳の頃に父を亡くした下の兄弟とでは、結果大きな違いが出てしまったようです。

世界中のファンが、二つのデュオを比べざるを得なくなり、残念ながら「力と魅力が半減した」と上兄弟の一方の早世を惜しみ、嘆きました。

それでもご紹介した、解説も加わった動画
https://youtu.be/XyuFtVOiPB0
では、下の兄弟の往年の素晴らしい歌声が聞こえます。

その他にも、いくつか動画がアップされていますが、著作権問題が無難そうなものが少ない中では、秀作に思います。
尤も、ご紹介の動画にも問題があることが分かりましたら、申し訳ございません。

1950年代から,戦後共和制の新しい時代にもDhrupadが行き続ける可能性を多くの人々に提示した四兄弟ですが、今日の後継者は、末っ子の息子一人のみ。申し訳ないですが、既に中堅を超えた年齢ながら、父親の十分の一ほどの力もありません。これは、分家Ziauddin家の後継(Vina専業で名声を得たものが多い)でも同じことが言えます。

何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。

現在「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」を実施致しております。
是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。
https://youtu.be/wWmYiPbgCzg

11月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行っています。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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