スタッフ日記:第15回アンナダーナ終了しました!

第15回アンナダーナにお気持ちを寄せていただきました皆さま、本当にありがとうございます。今回は病院にて、滞りなく無事に終えることができました。

病院では、3回目の実施となりました。当日は朝から雨。雨が降ると少し気温が下がりますが、それでも湿気が多く、まだ体にこたえる天候が続いています。調理では熱したギーを使用するため、屋根の下でいつもより慎重に行いました。病院の近くでは、食事を配る場所に屋根がないため、どうにか止んでくれるようにと願っていると、配る間の2〜3時間ほどはぴったりと雨が止みました。

今回も、私たちが実施した時間帯には、周囲で3つのアンナダーナが行われていました。言葉も食文化も異なる遠く離れた地域から、家族の付き添いのために病院を訪れ、かさむ治療費に日々の食事すら得られない人々も多くいます。さまざまな思想や慣習が根づく広大な地で、増え続ける人口を支える社会保障制度の実施は容易ではありません。そんな時、助けになるのは人々の温かい気持ちや繋がりです。古代から受け継がれてきたこうした豊かさが、現代社会にもしっかりと生きるインドには、学ぶことが多くあります。

朝の7時頃、調理の準備が始まります。準備が始まった際には降っていませんでしたが、この後、大雨となりました。

出来た食事はトラックに積み、病院の近くへ運びます。そのまま、トラックの荷台で食事を配ります。

周囲で別のアンナダーナが行われているにも関わらず、列が途絶えることはありません。

順番を待ち、ただただ静かに列に並んでくださいます。

2〜3時間ほどで、用意をした1000食分以上の食事を配り終えることができました。

他を思うことで得られる心の豊かさは、決して廃れることなく、自分自身だけでなく周囲へと大きく広がっていきます。周囲に目を向け、常に全体と繋がり、自分自身と社会の幸せを願いたいと思います。

次回は、寺院でのアンナダーナを予定しています。次回も温かいご協力のほど、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

アンナダーナを通じ、皆様にも大きな恩寵がありますように。

(スタッフ:ひるま)

ヨーガ・スートラ第2章第31節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


जातिदेशकालसमयानवच्छिन्नाः सार्वभौमा महाव्रतम्॥३१॥
Jātideśakālasamayānavacchinnāḥ sārvabhaumā mahāvratam||31||
ジャーティデーシャカーラサマヤーナヴァッチンナーハ サールヴァバウマー マハーヴラタム
身分、地域、時間、状況の制限がなく、普遍的である時、偉大な誓戒となる。

簡単な解説:前節において、ヨーガの8つの部門の最初にあたる禁戒とは、不殺生、正直、不盗、純潔、非所有であると説かれました。本節では、その禁戒について、身分、地域、時間、状況に制限されず、どのような場合においても守られる時、道徳を超えた解脱の要因としての意味を持つ、偉大な誓戒となると説かれます。

シャクティの愛

ヒンドゥー教において、私たちを育む力は、偉大な母を意味する神聖な女性のエネルギーとして崇められます。シャクティと呼ばれるその力は、宇宙全体を動かす根源の力であり、女性の肉体と生殖能力をとってあらわれる一方、男性の内にも潜在的に見えない形で存在しています。シャクティは成長を司るだけでなく、あらゆる変化の源です。それは、スヴァータントラヤとして独立した存在であり、自らの意思に従って世界全体を動かします。

ヒンドゥー教の宗派の1つであるシャクティ派において、シャクティは最高の存在として崇められます。また、ヴィシュヌ派ではヴィシュヌ神の力をあらわし、シヴァ派ではシヴァ神の力をあらわす重要な存在であり、プルシャとプラクリティの関係で崇められます。古代の賢者であるリシ達は、女性原理をシャクティとし、女神として崇めてきました。

シャクティは、有力な男神の配偶神であり、母神として崇められるマートリカーとしても活躍します。マートリカーは、7人(サプタ・マートリカー)や8人(アシュタ・マートリカー)で伝えられる場合があります。「Hindu Goddesses」の著者であるDavid R. Kinsleyは、シャクティについて、神々の王であるインドラ神の妻、シャチー女神に基づいたエネルギーであるといいます。シャチー女神はインドラーニー女神として知られるマートリカーの1人です。

シャクティとして崇められる女神は、南インドのタミル・ナードゥ州やケーララ州、アーンドラ・プラデーシュ州において、広くアンマとして親しみを持って崇められています。南インドの村には、シャクティの化身に捧げる寺院が多く存在します。シャクティは村の守り神であり、悪人を懲らしめ、病気を治し、村に幸せをもたらす存在であり、村人たちは1年に1度、盛大に女神たちを崇める祝祭を執り行います。

インド亜大陸には、シャクティ・ピータと呼ばれる51のシャクティ崇拝の聖地があります。シャクティ・ピータは、シヴァ神が焼身をはかった最愛の妻サティーの身体を抱え、悲しみのあまり破壊の踊りを踊った際、ヴィシュヌ神がその破壊の踊りを止めようと、武器であるスダルシャナ・チャクラでサティーの身体をバラバラにし、そのサティーの身体の一部一部が落ちた場所として知られています。インド、スリランカ、ネパール、バングラデシュ、チベット、パキスタンにもわたるシャクティ・ピータの多くは、高名な聖地として崇められるようになりました。アマルナート、ジワーラー、マニカルニカー、カーマーキャー、ナイナー・デーヴィーなどがあります。

あらゆる創造に内在する偉大な力である原初のシャクティは、アーディ・シャクティとして、ヒンドゥー教では古代から崇められてきました。ヒンドゥー教に限らず、インドでは母なる存在を深く崇める伝統が受け継がれています。シャクティへの祈りのマントラや賛歌の中でも、ビージャ・マントラ(種子真言)である「MA」は、シャクティを呼び覚まし崇める重要なマントラです。そのマントラを唱える時、偉大なシャクティと繋がり、母なる女神からの恩寵を授かることができるでしょう。

私たちは、常に母なるシャクティの慈愛の力に包まれています。困難に直面したとき、慈愛の源泉であるシャクティに祈りを捧げてみましょう。愛しい我が子たちを救うために、きっと温かい手を差し伸べてくれるに違いありません。

(SitaRama)

意識を内側に向ける

神とつながるために、意識を内側に向けるという作業はとても重要ですし、事実そうおっしゃっている聖賢は多いと思います。
しかしながら、現代は外側からの多様な刺激に溢れ、意識を内側に向けるのは容易ではありません。
意識を内側に向けるために、本来であれば瞑想をするのがもっとも重要ですが、ハタヨーガの訓練を通じて意識を体に向ける習慣をつけ、そこから瞑想を実践するのもたいへんよいことです。

人間は本来、赤ちゃんの時は内側に意識が向いています。
社会生活に適応するために意識を外に向ける訓練が、結果として成長の過程で為されます。
瞑想をするということは、外に向いた意識を再び内側に向ける訓練と言っていいのかもしれません。
しかし、この訓練で得た内側への意識の向け方は、赤ん坊の時とは違い、制御され静寂と至福に満ちたものになるでしょう。

インド占星術的に見て、ホロスコープ上で、10番目の部屋に関係する星の時期や、ラーフという星が関係する時期、場合によっては金星が関係する時など複数のタイミングで、特に強く意識が外に向きがちになることがあります。
一概にそれが悪いわけではありませんが、神とつながりたい方は、留意して意識を内側に向ける訓練をするべきでしょう。
私たちの大部分は、残念ながら聖賢になれないかも知れませんが、神とつながり聖賢に近づくことはできるはずです。
毎日少しの時間でもいいので、瞑想の習慣をつけたいものですね。

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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ガネーシャの導き

人は何か強く願望を抱くとき、そのエネルギーは願いの実現に向けた道標としてさまざまにあらわれます。その道標に気づくためには、不断の努力が欠かせません。そんな私たちの人生の歩みに、道標としてふとあらわれる存在の一人がガネーシャ神です。いよいよ近づいてきたガネーシャ降誕祭を前に、インドに伝わるある有名な神話を通じて、ガネーシャ神に近づきたいと思います。

インドで崇められる聖なる7つの川の一つに、南インドを流れるカーヴェーリー川があります。このカーヴェーリー川の誕生には、ガネーシャ神と聖者アガスティアにまつわる神話があります。

アガスティアは、干ばつに苦しんでいた南の大地に水をもたらそうと、長きに渡り努めていました。そして、シヴァ神から聖水の入った壺を授かると、南の適切な場所でその聖水を流すよう伝えられます。アガスティアは、その適切な場所を見つけるために歩み続けるも見つからず、疲れ果てていました。

休息を必要としていたアガスティアのもとへ、小さな男の子が姿をあらわします。疲れ果てていたアガスティアは、大切な聖水の入った壺を男の子に預けると、少しの間だけ休息をとりました。しかし、休息から戻ると壺は地面の上に置かれ、壺の上には一匹の鳥が留まっています。壺が倒れ大切な聖水がこぼれては大変だと、アガスティアは鳥を追い払おうとしました。すると壺が倒れ、そこに聖水がこぼれると大河となり、干ばつに苦しんでいた南の地に豊かな水の流れを生み出したと伝えられます。

疲れ果てていたアガスティアの前にあらわれ、壺を預かった小さな男の子こそ、ガネーシャ神でした。ガネーシャ神は、そこが適切な場所であることを知らせるために、アガスティアの前にあらわれたのでした。

人生を歩む道では、時に疲れ果て、休息が必要になることもあります。しかし、強い願望がある時、道は必ず開けます。その道にあらわれる道標に気づき、学びを深め成長していくことで、アガスティアのように心から望む目的を達成することができるに違いありません。

自分自身の歩みが進んでいく時、そこにはきっと、ガネーシャ神の力が働いていることと思います。どんなにゆっくりであろうと、自分自身が歩めることに感謝をし、道標を見失わないよう、あらゆる出来事を受け入れながら日々を生きることを努めたいと感じます。

2017年のガネーシャ降誕祭は、8月25日です。皆様にもガネーシャ神の大きな祝福がありますように、心よりお祈り申し上げます。

(文章:ひるま)

参照:http://www.speakingtree.in/allslides/beautiful-stories-of-lord-ganesha/35798

98、音楽とパトロン

「パトロン」などと言うと、「援交(援助交際)」という語句が流布される遥か以前から、異性交遊関連の語句のイメージで捕らえる人が少なくありませんでした。それは世界的規模で、第二次世界大戦以前と以後で大きくその意味合いが変化したからに他なりません。 つまり、より正確な意味合いでの「パトロン」は、戦前の「アンシャン・レジューム(旧体制)」の崩壊と共に消失した、言わば「滅んだ概念」ということなのです。

私がすべき仕事ではないのに、黙って見ていても誰もしないので、やむなく説かねばならないことが少なくありませんが。ここで、「パトロン」「スポンサー」「援交(援助交際)」の語句の意味合いを再確認せねばなりません。

簡潔に言えば、「パトロン」は「見返り」の要素が「在っても50%である」と言うことが出来、「スポンサー」は、ほぼ100%でありますが対象者を選びます。「援交」に至っては、その「見返り(目的)」が不埒・不道徳であるばかりでなく、対象者を選ばない(ほぼ誰でも良い)ということが本質、と定義することが可能です。

なので、この三種が、「似たり寄ったり」に解釈されたり、「誤用」されることなど、本来あってはならないことなのです。

尤も、バブル経済期に、世界中から「儲け過ぎだ」と批判された日本経済界と大企業が、こぞって「企業メセナ」を実施しましたが、穿った見方で悪く云えば「売名行為的な宣伝行為」とも言えなくもないかも知れません。何故ならば、その後不景気になれば、簡単に中断してしまうからです。

一方、江戸時代、明治時代迄の「パトロン」は、急に羽振りが悪くなろうとも、密かに慎ましい食事に切り替えて迄も、支援者を支援し続けたという話しは幾つもあります。

勿論、総体的に言えば、「パトロン」も「企業メセナ」も、「見返り」は充分にある訳です。それは「アカラサマな売名行為・宣伝行為」や「余った資金の好評価を得る使い道」から、「人知れず密かに支援する」迄様々であり、言わばグラデーションであり、それらの「何処からがイヤラシい売名・偽善行為」であり、「何処迄が、純粋な社会貢献・文化芸術支援」であるか?は、誰も線引きは出来ない筈です。

「人知れず密かに支援する」といった、明らかに「売名行為ではないだろう」というものでも、その人自身がそれで精神的な満足が得られ、それが或る種の自己実現である以上、「見返り/メリット」が無いとは言えません。

ヴェーダ時代に「古代インド科学音楽」を探究したバラモン僧たちもまた。研究に専念出来るだけの「お布施」を得ていたのでしょう。中世イスラム宮廷音楽、及びヒンドゥー藩王国宮廷音楽もまた、王(シャーやマハラジャ)、太守(ナワーブ)、及び、その下の貴族の「お抱え楽士」となることで、「芸を究める」「伝統を守る」ことに専念出来たのです。

これは、西洋クラッシックのバッハ、モーツァルトからベートーヴェンなどと全く変わりませんし、アラブ、トルコ、北アフリカも同様であり、マレーシア、インドネシア、タイ、ウイグル、ウズベク、そして、アフリカ各地も同様です。

即ち前述で、「パトロン」「スポンサー」「援交」に於ける「見返りの有無と対象者の限定の違い」というのは、厳密に言えば「遠からずとも当たらず」とも言えます。

ところが、「パトロンに於ける自己満足的な見返り」と、「スポンサーや援交の見返り」に、はっきりとした大きな「線引き」を着けることも一方で可能かも知れません。

それは「大衆迎合性の有無」です。

「スポンサー」は、支援対象の社会的な活躍や売れること。つまり「多くの人々に歓迎されること」がなくては、出資の意味を失います。明らかに最も「大衆迎合性が強い」関わり方であると言えます。「援交」に直接的な「大衆迎合性」を見ることは出来ませんが、それが性欲を満たすだけであり、対象者の人格や信念・理念を選ばないのであるならば、極めて俗的であるという意味では「大衆性以下」である訳ですから、言わば「論外」とも言えます。

ところが、「(戦前の本来の意味の)パトロン」の場合は、出資者が「売れるか売れないかは分からない(どうでも良い)」「だが、俺はこの仕事(創作者の創作や研究者の探究)には価値(その国の文化などに於ける価値や人間的・人類滴な価値など)があり、それを支援することには深い意味があると信じるのだ」というような信念があった訳です。結果論として、極めて「非大衆的」であり、極めて「非商業的」だった訳です。

結果として、晩年や死後に、その創作が社会~世界から高く評価された創作者(研究者)はおびただしく存在します。勿論、もしかしたら人間社会、及び自然界や地球にとってより価値の高いものが、遂に「パトロン」を得られないまま、道半ばで潰えたものも無数にあることでしょう。

現実、今日私達が聴くことが出来る「インド古典音楽」もまた、「非商業的なパトロンの支援」と、その後の「メインストリームに於ける成功」によって「生き残ったものだけである」ということも出来る訳です。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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第10回グループ・ホーマ(8月15日)無事終了のお知らせ

第10回グループ・ホーマにお申込みいただきました皆様、誠にありがとうございました。

クリシュナ降誕祭に実施の第10回グループ・ホーマは、8月15日に無事に終了いたしました。

プージャーの写真を以下に掲載させていただきます。

神々の祝福と、より良い体験がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

※第10回グループ・ホーマ(8月15日)は、クリシュナ降誕祭の祝祭の混雑により、建物内での実施ができませんでしたため、寺院の敷地にて実施されています。以下、昨年の祝祭の様子になりますが、ご参考になりましたら幸いに存じます。

スタッフ日記:クリシュナ降誕祭の様子

ブラフマンへ至る道

ヒンドゥー教における重要な概念の一つに、宇宙の根本原理であるブラフマンの存在があります。ブラフマンは創造主であり、万物に浸透する根本原理を示す語として、古代から用いられてきました。あらゆる存在はブラフマンから生まれ、そしてブラフマンへ戻ると信じられています。

チャーンドーギャ・ウパニシャッドは、ブラフマンについて「तत् त्वम् असि(タットゥ トヴァム アシ)」を説いています。「汝はそれである/それは汝である」という意味があるこの大格言は、ヴェーダンタの学派によりさまざまに異なる解釈があります。アドヴァイタ(不二一元論)学派においては、窮極の真実であるブラフマン「タットゥ」と、個人のジーヴァとしての「トヴァム」の絶対平等を意味します。ブラフマンと個人が同一となる時、ブラフマンの名は真実となるのです。

ブラフマンを定義する場合、それはブラフマンを制限することになるため、定義することはできないといわれています。それ故、ブラフマンについては数多くの逆説的な解釈がなされています。

最も深い本質において、人間の魂は宇宙全体を包む不滅のブラフマンと同じです。バガヴァッド・ギーターには、ブラフマンについて以下のような記述があります。

さて 永遠の生命を得るために
知るべきことを これから説明しよう
大霊ブラフマンは無始であり
有と無を超越している

あらゆるところに かれの手あり足あり
眼も頭も顔も至る処にあり
至る処に耳があって全ての音を聞き
全てを覆いつくして時空に充満している

かれはあらゆる感覚機能をもつが
かれ自身には感覚器官が無い
一切を維持しながら一切に執着なく
物質性を楽しんで 物質性を超越している

全てのものの内にも外にもかれは在り
不動であって しかも動く
はるかに遠く また極めて近く
その精妙なこと とても肉体感覚では認識不可能だ

個々に分かれて存在するように見えるが
かれは決して分かれず常に一である
かれは万生万物の維持者であるが
全ての絶滅者であり 創造育成者である

かれは光るものの光の源泉であり
物質性の明暗を超えて光り輝いている
かれは知識であり 知識の対象であり
知識の目的であって全個々の心臓に住む
(バガヴァッド・ギーター 第13章第13-18節 田中 嫺玉訳)

ヴェーダは、万物に存在するひとつの本質について示唆しています。宇宙を支配する原理であるブラフマンと、個人を支配する原理である我が同一である(梵我一如)と理解することは、非常に難しいことです。それを理解する時、誰もが永遠の至福に到達することができるでしょう。

ブラフマンを知るには、まず、自己の本質を知る必要があります。それは、究極の自己認識に他ありません。梵我一如を悟る時、私たちは永遠に自由となり、あらゆる苦しみから解放されることでしょう。

(SitaRama)

自由のための戦い

クリシュナ降誕祭がいよいよ近づいてきました。2017年は、8月14日、または15日に祝福されます。8月15日は、インドの独立記念日でもあります。この日を迎えるために、そして自由を勝ち取るために、インドの地で流された涙は計り知れません。自由とは何か、バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナ神が説く教えを思い出します。

マハーバーラタにおいて大戦が始まろうとしている時、クリシュナ神は、敵方に親族や友人の姿があるのを目にし戦いを拒んだアルジュナに、「卑小なる心の弱さを捨てて立ち上がれ」と諭しました。武士としてのアルジュナが戦わない限り、社会に平和がもたらされることはなかったからです。そして、滅びるのは肉体であり、魂は不滅であると、その永遠性をアルジュナに説きました。

私たちは何よりもまず、魂の永遠性について理解する必要があります。そうして死という恐怖から自由になる時、私たちは物事の変化に悩まされることなく、自分自身の義務をまっとうし、人生を生きることに集中できるからです。そこで、私たちは真の平和と幸福を見つけることができるはずです。

クリシュナ神が、「戦いを放棄せよ」とは決してアルジュナに言わなかったように、魂の永遠性を理解するまでには、肉体の中で尽きぬ欲望や無知と戦い続けなければなりません。その戦いは、私たちが真実を理解するための義務の一つです。そうして戦い終えた後、永遠の魂として自由になることができるに違いありません。

インドを独立に導いたのは、バガヴァッド・ギーターを指針とし、非暴力を礎に戦ったガーンディーでした。胸を張って敵にすら愛を示す戦いは、自分自身を制する戦いでもあります。誰しもの内にあるその戦場において、バガヴァッド・ギーターの詩句は私たちを導き、いずれ社会に平和をもたらしてくれるでしょう。

霊的叡知の宝庫であるインドの独立記念日に重なる今年のクリシュナ降誕祭。意義深いこの日、改めて、クリシュナ神の教えを読み返し、自分自身の義務について見つめ直したいと感じます。皆様にとっても、祝福に満ちた時となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

(文章:ひるま)

アサトー・マー・サッド・ガマヤで始まるパヴァマーナ・マントラ

非真実と真実、闇と光、死と不死、という対比の繰り返しが印象的な「アサトー・マー・サッド・ガマヤ」で始まるマントラの解説です。

 

白ヤジュルヴェーダの祭儀書シャタパタ・ブラーフマナ(शतपथब्राह्मणम् Śatapathabrāhmaṇam)14.4.1.30詩節に出てくるのが最も古い典拠で、最初期のウパニシャッドの一つ、ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(बृहदारण्यकोपनिषत् Bṛhadāraṇyakopaniṣad*1)1.3.28詩節にも登場し、「パヴァマーナ・マントラ(पवमानमन्त्रः pavamānamantra)」と呼ばれています。

パヴァマーナとは、√पू pū(漉す)という動詞から派生した「精製」「濾過」「浄化」といった意味の語で、それには「ソーマ(सोम soma)*2」という植物が深く関係しています。

 

ヴェーダ時代に行なわれていた重要な祭祀「ソーマ祭」では、ソーマから作られた興奮作用ある飲み物を神にささげる=祭火に注ぐことが祭祀の中心で、祭主や司祭たちは神にささげたソーマ酒の残余を頂き、長寿や吉祥を神に祈りました。ソーマを搾ったり精製したりするときに唱えられるマントラが「パヴァマーナ・マントラ」です。リグ・ヴェーダ第9巻が全てソーマに捧げる讃歌(マントラ)でまとめられているほど、ソーマはヴェーダ時代の重要な神格で、「パヴァマーナ」=「自ら清まるもの」と呼ばれています。

 

混濁した液体が漉し器(パヴィトラ、पवित्र pavitra)を通って精製され滴り落ちる様子を、ヴェーダの詩人達は天界の光景や宇宙の生成と重ね合わせて讃えました。また、ソーマ酒を飲めば不死が得られるとも歌われています。

しかし、人格神としてはあまり発達せず、天体の「月」がソーマの容器と見なされるうちに「月」そのものと同一視されるようにもなりました。

 

現代では、ソーマへの讃歌という意味合いはほとんどありませんが、無知から真実への導きを祈るマントラとして広まっています。

 

【逐語訳】

असतो मा सद्गमय

asato mā sad_gamaya

私を非真実から真実へお導きください。

(アサトー マー サッド ガマヤ)

 

तमसो मा ज्योतिर्गमय ।

tamaso_mā jyotir_gamaya |

私を闇から光へお導きください。

(タマソー マー ジョーティル ガマヤ)

 

मृत्योर्मामृतं गमय ।

mṛtyor_mā_amṛtaṁ gamaya |

私を死から不死へお導きください。

(ムリティヨール マー アムリタン ガマヤ)

ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥*3

om śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ

オーム、平安あれ、平安あれ、平安あれ

(オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティヒ)

 

(Śatapathabrāhmaṇam 14.4.1.30/Bṛhadāraṇyakopaniṣat 1.3.28)

 

【単語の意味と文法の解説】

 

左から、デーヴァナガーリー表記、ローマ字表記、<名詞の語幹形、動詞の語根形 >、語意、(文法的説明)、「訳」、という順番で説明しています。

 

असतः asataḥ <a-sat-> 非真実、(sat- はbe動詞√as-(ある)の現在分詞で、「存在する~」「存在」が根本的な意味。それが拡張して「善」「真」「正義」の語となった。冒頭のa-は否定の意味を付け加える。語末の-aḥはサンディのために -oと変化。中性名詞、単数、奪格)「非真実から」

 

मा mā <mat-> 私、(一人称代名詞、単数、対格、附帯形)「私を」

 

सद् sad <sat-> 真実、(asataḥを参照。語末の -tはサンディのために -dと変化。中性名詞、単数、対格)「真実へ」

 

गमय gamaya <√gam- > 行く、(使役、命令、2人称、単数)「行かせてください」

 

तमसः tamasaḥ <tamas-> 闇、(語末の-aḥはサンディのために –oと変化。中性名詞、単数、奪格)「闇から」*無知蒙昧な状態も指す

 

मा mā <mat-> 上のmāを参照。

 

ज्योतिः jyotiḥ <jyotiḥ> 光、(語末の-ḥはサンディのために –rと変化。中性名詞、単数、対格)「光へ」

 

गमय  gamaya <√gam-> 上のgamayaを参照。

 

मृत्योः mṛtyoḥ < mṛtyu-> 死、(語末の-ḥはサンディのために –rと変化。√mṛ-(死ぬ)から作られた中性名詞、単数、奪格)「死から」

 

मा mā 上のmāを参照。

 

अमृतं amṛtaṁ <a-mṛta-> 不死、(√mṛ-(死ぬ)の過去分詞からの中性名詞、単数、対格)「不死へ」

 

गमय gamaya <√gam-> 上のgamayaを参照。

 

ॐ oṃ <a-u-m> 聖音、プラナヴァ「オーム」

 

शान्तिः śāntiḥ <śānti-> 平安、(女性名詞、単数、主格)「平安あれ」

 

(*1 サンスクリット語のサンディ(連声)のルールに従えば語末の-dは-tと発音されるため、「ウパニシャット」と言うのが正しいですが、ローマ字およびカタカナでは従来どおり「ウパニシャッド upaniṣad」と表記しました。)

 

(*2 ソーマ祭の伝統が失われ、ヴェーダ聖典の記述からはソーマが何の植物だったのか判然とせず、麻黄科の植物や、ワライタケのような毒キノコ類との仮説もあります。文化的、言語的に同一起源を持つペルシャのゾロアスター教で用いられていた「ハオマ」という植物は、ソーマと同一だったようです。)

 

(*3 最後の一行 om śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ は原典にはありません

 

(文章:pRthivii)