グル・プールニマー2017

インドでは、グル(師)に対しては、とても大きな尊敬が払われます。家庭にあっては親、学校にあっては先生、会社にあっては上司など、グルの指導のもと、人は大きく成長していくことができます。インドでは、グルは神と同一のものと見なしなさいといわれています。それは、太陽の光が反射して月が輝いて見えるように、グルの英知に照らされて、人々が輝きだすといわれるからです。

2017年7月9日は、グルに感謝の意を捧げるグル・プールニマー(師への満月祭)です。
グル・プールニマーの起源は、聖仙ヴィヤーサの誕生日にあたります。
聖仙ヴィヤーサは、ヴェーダ・ヴィヤーサ(ヴィヤーサは編者の意味)とも呼ばれ、ヴェーダ聖典を編纂したことで知られています。彼は、後の時代に、人々の心が醜くなり、すべてのヴェーダを学ぶ能力がなくなることを見通して、莫大なヴェーダを現在の4部(リグ、ヤジュル、サーマ、アタルヴァ)に編纂したといわれています。
さらに、彼はプラーナを記述し、物語や寓話を通じてヴェーダと同様の霊的英知をやさしく説き、それによって多くの人々がヴェーダの英知に触れることができるようになりました。また彼は、ヴェーダンタの本質をなすブラフマー・スートラの作者としても知られています。このような偉業を残したグル・ヴィヤーサを祝福するため、彼の誕生日がグル・プールニマーとして祝われることになりました[1]。

グル・プールニマーの日には、新しい誓いを立て、それを実行することが慣例的に行われています。
例えば、霊的な師がいれば、師からマントラを授かり、それを毎日唱える誓願を立てます。
あるいは毎日瞑想をする、肉食をしないなど、その他の霊的な誓願を立て、実行するのもよいでしょう。

グルの役割について、スワミ・シヴァーナンダは次のように語っています[2]
「人が成長するために、あなたはグルの重要さと神聖な意義について理解していますか。インドがいままでグルを大切にし、グルの意識の光の中で生き続けているのには理由があります。理由もなく、毎年この古くからの伝統を祝い、度々グルへ敬意を払い、信義と忠誠を再確認しているのではありません。グルは、悲しみと死の束縛から脱却させ、真理を体験させる、人々にとっての唯一の保証人なのです。」

またスワミ・シヴァーナンダは、グル・プールニマーの日に行うべきことについて次のように語っています。
「このもっとも神聖な日は、ブラフマームフルタ(午前4時)に起床しなさい。そして、グルの蓮華の御足を瞑想するのです。心の中で、彼の恩寵を祈りなさい。こうしてはじめて、あなたは成就に至ることができます。早朝には、熱心にジャパや瞑想を行いなさい。」
「沐浴したあと、グルの蓮華の御足を礼拝しなさい。また彼の絵や写真に、花やフルーツを供え、お香や樟脳を焚くのもよいでしょう。この日は、断食をするか、食べても牛乳やフルーツだけにするべきです。午後は、あなたのグルの信奉者たちと一緒になり、彼の栄光や教えについて話し合うとよいでしょう。」
「夜は、信奉者たちが集まり、神の御名やグルの栄光を歌いなさい。グルを礼拝するもっともよい方法は、彼の教えに従うことです。彼の教えの顕現としてあなた自身が輝き、彼の栄光とメッセージを伝えなさい。」

グル・プールニマーの日からは、チャトルマースとよばれる神聖な時期が4ヶ月間続き、インドではこの期間に多くのお祭りが行われます。特に2017年7月10日から2017年8月7日までの期間は、シュラヴァナと呼ばれ、チャトルマースの中でも特に神聖な期間とされています。(地域によって異なります)
この時期は、シュラヴァナ(聞くこと)と呼ばれるように、聴聞等による学習に適した期間です。師の教えを聞き、それを実行に移せるよう努力すれば、きっと大きな実りがあることでしょう。

[1]”Guru Purnima”, http://www.amritapuri.org/cultural/guru/purnima.php
[2]Subhamoy Das, “The Guru Purnima”, http://hinduism.about.com/od/festivalsholidays/a/gurupurnima.htm

スタッフ日記:第11回アンナダーナ終了しました!

第11回アンナダーナにお気持ちを寄せていただきました皆さま、本当にありがとうございます。今回は孤児院にて、滞りなく無事に終えることができました。

孤児院でのアンナダーナは2回目となりました。今回は、デザートにいつも通りのハルワーを予定していましたが、前日に孤児院とお話をして、急遽キールを配ることになりました。前回、ハルワーがとても美味しかったようで、何人かの子どもたちがスタッフに甘えて、今度はキールが食べたい!とリクエストをしていました。

前夜に孤児院と最終の確認を取ったところ、子どもたちの希望を叶えるため、急遽キールを準備することに。ハルワー(ハルワ、ハルヴァなどとも)は、セモリナ粉を炒って、たっぷりのギーとドライフルーツとお砂糖を加えて作るお菓子です。キールは、お米を牛乳でおかゆのように煮て、たっぷりのドライフルーツとお砂糖を加えて作ります。予算的にも、どちらも同じでしたので、急でしたが、ケータリングの方々にお願いしキールを準備しました。

サブジー(野菜のおかず)、プーリー(揚げたパン)、キール。孤児院の子どもたちは、普段はなかなか、こうした豪華な食事を食べる機会がありません。今回の食事がキールだと知った子どもたちは大喜びでした。

食事をするホールには一度に30人ほどしか入れないため、交代で食事をいただくようです。

いつも200人くらいの子どもたちが生活をしているそう。お世話をする方たちなどを含め、今回も200~220食分を準備しました。

食事を配る前。孤児院の外では、子どもたちが元気に遊んでいます。勉強をする子の姿も。

孤児院は女の子の孤児院となるため、スタッフやケータリングの方達を含め、外部の男性が長く施設内に留まることができず、食事は外で作ってリキシャで運んでいます。

家族がおらず、住む家もない。子どもたちは、とても辛い思いをしていると思います。美味しいものを食べると私も嬉しくなりますが、こうした食事を通じて、子どもたちの心が少しでも豊かになることを心から願っています。何よりも、たくさんの方々から寄せられた気持ちを通じて、幸せを感じていることと思います。

次回は、6月24日(土)、病院でのアンナダーナを予定しています(孤児院でのアンナダーナも、今後、継続していきます)。次回も温かいご協力のほど、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

アンナダーナを通じ、皆様にも大きな恩寵がありますように。

(スタッフ:ひるま)

ヨーガ・スートラ第2章第21節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


तदर्थ एव दृश्यस्यात्मा॥२१॥
Tadartha eva dṛśyasyātmā||21||
タダルタ エーヴァ ドリシュヤスヤートマー
その目的だけが、見られるものの本質である。

簡単な解説:前節において、「見るもの」とは、純粋な意識であるにも関わらず、心の働きによって、その影響を介して見ていると説かれました。本節では、その見るもの(プルシャ)のためだけに、見られるもの(プラクリティ)は存在していると説かれます。

ガンガーの聖地

母なるガンガーとして崇められるガンジス川は、インドとバングラデッシュを流路とし、ネパールやブータンにまで流域を持つ大河です。ヒマラヤ山脈のガンゴートリー氷河から湧き出た後、ベンガル湾に注ぐまで、その全長は2500㎞を超えます。ナンダー・デーヴィーやカメット峰といった標高7000mを超える山々からの雪解け水が流れ込むこの大河は、ヒマラヤの峡谷を約250km南下すると、巡礼の聖地であるハリドワールに流れ出ます。ハリドワールでは、ガンジス運河が形成され、周囲に豊富な水を供給しています。

聖地ハリドワールを流れ大平原へと出た後、次なる聖地イラーハーバード(アラーハーバード)で、最大の支流であり、ガンガーと同じように聖なる川として崇められるヤムナー川に合流します。 イラーハーバードは、ガンガーとヤムナー川に加え、地下を流れるサラスヴァティー川の3つが合流していると神話において伝えられ、聖なる川が交わるプラヤーグと呼ばれ崇められています。ガンガーはここで、北部平野の南東方向へと流れを変えます。

インドの地は、遠い昔からこの大河を、マカラという怪魚に乗る母なる女神、ガンガーとして崇めてきました。古代の聖典では、ガンガーはヴィシュヌ神の御足から流れ出ていると伝えられることから、崇高なヴィシュヌ神の御足から流れ出たことを意味する「ヴィシュヌパディー」と呼ばれることもあります。

ヒンドゥー教徒は、死す時、ガンガーの聖水に触れることで、魂が解放されると信じます。ガンガーでの沐浴なしに人生は完結せず、その恩恵を求め、日常的に沐浴を行う人々もいれば、特別な時を選び沐浴を行う人々もいます。ガンガーで肉体を離れる時、その魂は解放され、解脱に到達すると信じられることから、苦しみを生み出す輪廻転生からの解放、そして永遠の至福を求め、家族の遺灰をガンガーに流す人々の姿も見られます。インドの家庭では、神聖さをもたらすガンガーの聖水が入った壺を祀ります。

「クンブ・メーラー」や「チャタ・プージャー」など、ヒンドゥー教における数々の祝祭の儀式は、その多くがガンガーのほとりで行われます。聖地ヴァーラーナシーには、雨季の洪水に耐えながら、ガンガーに沿って数百もの古い寺院が祀られています。数あるガンガーの聖地の中でも、ヴァーラーナシーはヒンドゥー教徒にとって永遠の聖地であり、解脱の地であり、最も重要な巡礼の地としてあり続けています。

(SitaRama)

殺生と運命

身も蓋もない言い方ですが、生きていることは同時に他の生き物を殺して食べることでもあります。
普段、肉食をしている人のみならず、ヴェジタリアンであっても(植物などを)殺生して食べていることに変わりはありません。
より厳格なヴェジタリアンの実践をし、普段マスクを着用し、外出時は箒を持ち、虫など殺さぬよう、掃きながら道を歩くジャイナ教徒でさえ、まったく殺生をしないで生涯を全うすることは不可能でしょう。
では、殺生を防げないから、殺生し放題でいいのかというと、もちろんそうではありません。
同じ殺生と言っても、大型動物を殺すのと植物を殺すのでは、意味合いが全く違います。
筆者(ガネーシャ・ギリ)は、かつて世俗の仕事として警備員の仕事を10年ほどしましたが、こんな個人的体験をしたことがあります。
担当した施設(ホテル)で深夜に巡回(見回り)をするときに、魚をさばく部屋と、肉をさばく部屋では入った時の雰囲気が全く違うことをいつも感じていました。
肉をさばく部屋に入ると、殺された動物たちの残留想念が、悲鳴として聞こえるのです。いつもその声を感じるため、巡回が憂鬱になったこともありました。
しかし、魚の部屋ではそういう経験はほとんどありませんでした。

肉食はやめた方がいいですよ、と強くお勧めするわけではありません。
でも、もし食べることに選択肢があるなら、なるべく動物よりは魚、魚よりは植物、というようにお勧めしたいです。

占星術で読み解く、星に記された運命はもちろんとても重要です。
しかし、同じ運命の持ち主なら他者から恨みを買わない方(≒大きな殺生が少ない方)が、幸せな人生を歩めるでしょうし、来世もよいものになるでしょう。
運命改善法の本当の土台は、殺生の量と質をなるべく少なくすることだと思っております。

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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心身を清める11日目

2017年は6月5日に、とりわけ重要なエーカーダシーを迎えます。エーカーダシーは「11日目」を意味し、月の満ち欠けのそれぞれ11日目に訪れる、ヴィシュヌ神を礼拝する吉日です。次のエーカーダシーは、「ニルジャラ(水の無い)・エーカーダシー」と呼ばれ、断食が重要視されるエーカーダシーの中でも、水すらも飲まない厳しい断食が執り行われる時となります。

毎月2回、一年におよそ24回訪れるエーカーダシーには、それぞれにとても深い神話が伝えられます。その多くは、エーカーダシーが罪を清める吉日であるということを伝えています。

断食や節食が勧められるエーカーダシーでは、特に、穀物を食べてはいけないといわれます。さまざまに伝えられるエーカーダシーの神話には、エーカーダシーにお米を食べると、お腹に虫がわくという、次のような言い伝えもあります。

ある時、ブラフマー神の頭から汗がこぼれ落ちると、その雫が悪魔となり「私に住む場所を与えてください。」といいました。ブラフマー神は、「米の中に住み、エーカーダシーに米を食べた者の中で虫になる。」と述べたと伝えられます。

月の満ち欠けは、私たちの身体と心に大きな影響を与えることが古くから伝えられてきました。食物の消化や吸収は、とりわけ大きな影響力を持ち、エーカーダシーに穀物を食べると、身体や心の働きを妨げるような悪影響が出るといわれることもあります。それは、倦怠感や疲労感であったり、感情の高ぶりや気分の落ち込みであったりするかもしれません。そうした心身の状態は、良からぬ行為を生み出しがちです。

エーカーダシーの断食を通じては、心身の奥深くにまで行き渡る清らかさと、より明瞭になる意識を幾度となく実感してきました。断食は「ウパヴァーサ」と言われ、その言葉には、「神に近づく」という意味があると伝えられます。エーカーダシーは、欲望を制御し、心身を清め、自分自身の本質である崇高な存在に近づく吉日の一つです。

大自然の動きと密接に繋がり、そのリズムの中で幸せに生きる術を伝えてきた古代の叡智。その教えを実践することで、罪深い行為を生み出すことなく、清らかな日々を過ごせるに違いありません。

(文章:ひるま)

参照:https://www.ishtadevata.com/blog/why-cant-we-eat-rice-on-vaikunta-ekadasi.html

2017年6月の主な祝祭

lotus flower

2017年6月の主な祝祭をご紹介いたします。

多くの地域で酷暑期を迎えているインドでは、6月に入ると南より少しずつモンスーンが北上し、恵みの雨が降り注ぎます。今月は、ガンジス河の生誕祭や、一年で一番厳しい断食が実践されるニルジャラ・エーカーダシーが祝福されます。

6月4日 ガンガー・ダシャラー
6月5日 ニルジャラ・エーカーダシー/ガーヤトリー・ジャヤンティ
6月9日 満月/カビールの生誕祭
6月15日 ミトゥナ(双子座)・サンクラーンティ
6月20日 エーカーダシー
6月22日 シヴァラートリー
6月24日 新月
6月25日 ラタ・ヤートラー

*地域や慣習によって、祝祭の日にちには差異が生じることがあります。

皆様もどうぞ良い時をお過ごしください。

1年を通じた祝祭、またその詳細について、インド暦カレンダーでご紹介しております。

参照:http://www.drikpanchang.com/panchang/month-panchang.html

88、ヒンドゥー献身歌 Bhajanの現代と未来

写真は、インドの首都デリーの「ビルラ寺院」に於けるヒンドゥー讃歌「Bhajan」の演奏風景です。「ビルラ」は、「タタ、リライアンス」と並ぶ「インド三巨大財閥」のひとつで、タタ財閥は、7世紀にアラブ・イスラームがペルシアを併合した際、西インドに逃れて来たゾロアスター教徒(パルスィー)が起源ですが、ビルラは、中世にインドのほぼ全域がイスラム帝国に支配された際も、ヒンドゥー藩王国として存在し続けた西インド(今日のラージャスターン地方)の、文武両道に長けたマールワール族の財団です。

マハトマ・ガンディーを支援したことでも知られますが、私にとって馴染み深いのは、このヒンドゥー寺院の他に、インドで最も世話になり、最も不安を味合わされた国産車「アンバサダー」の製造メーカー「ヒンドスタン・モータース」の創始者であることです。

写真のこの時私は,今でも我ながら吹き出してしまう失態を演じました。

まず、写真からだけでも様々なことが確認出来ます。
第一に、主唱者は、近代的な鍵盤楽器「ハルモニヤム」を弾き語りしています。しかし、この習慣は、かれこれ80年90年経ていますから、最早「モダン」とは言えないかも知れません。
第二に、主唱者は、聴衆の方に向かって歌っています。実は、主唱者の背後に「神棚」があるのですが、主唱者は「神棚」に背を向けている訳です。
第三に、手前左に座っているのが、伴奏太鼓タブラの演奏者ですが、彼は主唱者より「一段低い位置」を強いられただけでなく、主唱者に対しても、「神棚」に対しても聴衆に対しても真横を向いて座って演奏しています。これはインド以外の国の人間にとっては極めて奇異な様子に違いありません。

太鼓奏者が、このような身分階級のしきたりを厳しく受けるのは、「獣皮に触る」からですが、私のタブラの師匠の中には、バラモンなのにタブラ奏者という人も居ます。勿論それは例外中の例外ですが、完全に許されないことでもないのです。しかし、普通は、長い歴史の習慣上、写真のような形を取るのが一般的なのです。

「後になっては笑える」私の恥ずかしい失態とは、
一曲聴き終わったところで、「いいぞ!」の掛け声と共に、拍手をしてしまったことです。
聴衆は、全員私を驚いた表情で見て、そして、「くすくす」と笑っていました。
「ああ、日本人か!」「知らないんだから仕方が無いね」だったのでしょう。

その直後、誰に教わるともなく、私は事態を理解しました。
「Bhajan」は、神々への讃歌の一形態ですから、「神々に向かって歌う」のであり、「聴衆」は、実は「聴衆」ということでもなく、主唱者の歌を聴くといく形で「業」を行っている「祈祷者」なのです。

そして、もし「拍手をする者が居るとしたら」「それは神々に他ならない」ということなのです。

これは世界各国の「国家斉唱」と似ています。全員がしっかり声を出して歌わずとも、その場で、直立し、真摯に経験な心持ちでたたずむだけで、充分参加していることになります。
なので、「Bhajan」の演奏も、アメリカのゴスペルのように一緒に歌わずとも、「祈祷に参加している」ということになるのです。

尤も、インドの地方の祭り歌では、ゴスペル同様にリーダーと村人の「Call & Responce」の掛け合いが繰り広げられる場合もあります。また、「Bhajan」同様の「神々への讃歌」の一形態である「Kirtan」は、主唱者の他に、伴唱者が数名ステージに上がって掛け合いや合唱をします。が、やはり聴衆は歌いません。

これは、日本の仏教儀礼と似ています。供養等で僧侶に来て貰ってお経を唱えて貰う時、いい加減なお坊さんよりも親族身内の素人(しかsぢ熱心な信者)の方が「読経」が上手くても、そこでしゃしゃり出ることはないでしょう。

なので「Bhajan」では、聴衆は歌わないし、掛け声も掛けないし、拍手もしないのです。

では主唱者は、何故「神棚」に背を向けるのか? 「神々」に対して歌うのならば、聴衆に背を向けて「神棚」に向かって鵜経つべきでしょう。

これがインド文化の面白いところで、「相反する異なる理由(道理)」が存在すると、矛盾おかまい無しに習合させてしまうのです。
主唱者が「神棚」偽を向けて聴衆に向かって歌うのは、「Bhajan」の別な性格「口説/説教節」の所為です。

つまり、「Bhajan」は、まだ入信していない庶民や、入信したての信者。長年の信者でも日々の社会的なしがらみに心を疲れさせ、初心に返りたいなどの時にうってつけの、「分かり易く信仰のあるべき姿や、神々の恩恵について説く」歌なのです。

なので、恐らく「Bhajan」の前には、「神棚」に向かっての「祈祷歌」や「讃歌」も歌われたのでしょう。その後、場を清め、神々の許しを得て、聴衆(祈祷参加者)の方を向いて「Bhajan」や「Kirtan」が歌われる訳です。

広義の意味では「Bhajanの一種」とも言えなくもないユニークなジャンルが、ベンガル地方独特の「音楽宗教」とも言える「Baul」の歌と演奏です。

「Baul」のルーツは、西インド~パキスタンの中世イスラム系神秘主義の一派で、系列の派では、「Qawwali」などの「大合唱団」が知られるように、数或る神秘主義(Sufiと総称される)の中でも音曲をむしろ重用する宗派です。
それが、ベンガル地方に伝わった際に、「Kirtan」や「Bhjan」などの影響も受けて、むしろ「歌と演奏」が「主たる業」となったのです。

教義は極めてユニークで、「一神教で、偶像崇拝は認めないが、輪廻転生を信じる」もので、「財産の所有」を厳しく禁じ、所謂「社会的行為」を否定します。しかし、野に下って庶民にまみれることを重要と考えますから「在野の出家者」のような不思議な存在です。

更に、「財産所有の禁止」の他に、それと同源同系の「契約の禁止」がありますから、「結婚」を認めません。しかし「神が男女を作りたもうたならば、男女で暮らし、子を儲けるべきである」となって、家族は存在します。しかし、基本的に「家を持つ」ことは「契約」が絡みますし「財産」ですから、ホームレスであるべきとなります。

そして、最も重要な「業」であると共に、最も「不可解な」点が、その歌こそは「Baulの教えを広める為の宣教歌」なのですが、殆どの場合、その歌詞は普通に聞こえてしまい、その真の意味は庶民には理解されていないのです。

私が20歳代から歌って来た曲は、古典音楽のラーガ(旋法)を用いていたので、「良い教材だ」という意味でレパートリーに加えたものでしたが、後に「Baulの教祖Lalon Shah Faqir」の作品でした。そう教われば、確かに3~4番目の歌詞に「Faqir Lalon」と歌い込まれています。この雅号を歌詞に埋め込むのも、「Bhajan」と同じ「しきたり」ですが、非宗教的なアラブ式叙情詩「Ghazal」も同じなので、時代の慣習と思われます。

ところが、最初のベンガル人出稼ぎ労働者の「歌詞の師匠」に歌詞を聞き取ってもらい、私の発音をチェックして貰ってライブで五六年歌った頃、ライブにベンガル人留学生が来て「凄い曲を知っているんだね!驚いた!」「しかし、勿論歌の意味は知っているんだろう?」と語って来ましたので、最初の師匠に教わった通りに言えば、大層呆れられてしまいました。

私は、単語の訳のままだと思っていたのです。要約すると、「鳥籠の中の小鳥はどのように出入りするのだろう?と思っていたら或る日小鳥は逃げてしまい二度と返って来なかった、と修行僧ラロンは何ながら歌うのであった」
確かに意味が分かる様で分からないとは思っていました。

留学生は、呆れながらも「駕篭=人間の体」「小鳥=魂/命」「逃げた=魂が肉体を離れた」であり、「鳥籠やその中の巣作りに励むj人間は多いが、誰しもいずれは死んでしまうのだ」「重要なのは、魂の品格ではなかろうか」というテーマだというのです。しかし初めの師匠はそんなコメントはくれませんでした。即ち、「布教活動の歌」で在ると言っても、効いている人の殆どがその「裏の意味/真の意味」を理解していない可能性が高いのです。

別な歌では「何処に行ったのチャイタニア!私は貴方無しでは生きていられない」というありきたりの恋歌としか聴かれないだろうというものもあります。「Chaitaniya」は、ベンガルでは珍しい名前ではありませんが、中世に「Kirtan」を創始した聖者の名でもあり、「純粋意識」のことでもあります。そこで分かるように、「「Baul」は、「Sufi」と「Hindu」の共通項の上に成り立っているとも言えますし、「Sufiの教えをHInduで翻訳した」とも言えます。

しかし、やはり庶民の殆どはその「真意」を理解していないのです。「不思議」と言えば「不思議」、「奥義」と言えば「奥義」ですが、少なくとも「合理的、結果論、現実論」とは全く逆の価値観です。

「Bhajan」は、「Baul」ほどではありませんが、神々の名をそのまま歌わない「諱」が特徴ですから、それに関しては事前に知識が不可欠です。また、その「諱」に使われる「別名」にはエピソードが必ずついていますから、それも知らないと全体的には通じていないということになります。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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ニルジャラ・エーカーダシー2017

大自然の移り変わりと密接に結びついたインドの暦の中に、エーカーダシーという吉日があります。ヴィシュヌ神に捧げられるエーカーダシーは、断食を通じて感覚器官を統制し、自己を清めるための吉日として知られ、この日は完全な断食、もしくは穀物を除いた果物などの食事が行われます。

月の満ち欠けのそれぞれ11日目にあたるこのエーカーダシーは、年間でおよそ24回訪れます。そして、これから迎えようとしているニルジャラ・エーカーダシーは、一年の内でももっとも厳しい断食が行わる時となります。「ニルジャラ」は「水の無い」を意味し、敬虔な人々は水すらも口にしません。ニルジャラ・エーカーダシーにおいて、水すらも飲まずに断食を成し遂げた者は、一年の24回のエーカーダシーを全て達成したことに値するとも伝えられるほどです。

このニルジャラ・エーカーダシーにはある言い伝えがあります。マハーバーラタに登場するパーンダヴァ5兄弟たち(ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ)は、その妻も含め、誰もがこのエーカーダシーの断食を実践していました。しかし、その内のビーマだけは、非常に強いアグニ(消化の火のエネルギー)を持つことから、空腹に耐えることができず、どうしても毎回の断食を実践することができずにいたといわれます。

エーカーダシーの断食は、解脱を得るためには必須の行いと伝えられるほどの行いです。そのため、ビーマは聖仙ヴィヤーサに相談します。そしてヴィヤーサは、一年のすべてのエーカーダシーを行うに等しいこのニルジャラ・エーカーダシーを実践することを勧めたといわれています。

ニルジャラ・エーカーダシーを迎えるジェーシュタ月(5月~6月)は、インドの多くの地域が一番の酷暑期にあたります。この時、水すらも口にしない断食を行うことは大変な苦行を意味し、これを達することにより、肉体だけでなく、精神が深く清められると信じられています。

エーカーダシーの断食の実践により、心身の奥深くにまで行き渡る浄化は、より明瞭な意識を授けてくれることを度々実感してきました。2017年のニルジャラ・エーカーダシーは6月5日です。この日、エーカーダシーに挑戦してみるのも良いかもしれません。

(文章:ひるま)

参照:http://www.iskcondesiretree.com/page/pandava-nirjala-ekadasi

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ヨーガ・スートラ第2章第20節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


द्रष्टा दृशिमात्रः शुद्धोऽपि प्रत्ययानुपश्यः॥२०॥
Draṣṭā dṛśimātraḥ śuddho’pi pratyayānupaśyaḥ||20||
ドラシュター ドリシマートラハ シュッドーピ プラティヤーヌパシュヤハ
見るものは、見る力そのもので、純粋にも関わらず、心の働きを通して見ている。

簡単な解説:前節において、「見られるもの」の三つのグナについて、特性のあるもの(五大、十根、意)、特性のないもの(五唯、我慢)、痕跡だけのもの(覚)、痕跡のないもの(自性)と、4つの展開の段階があると説かれました。本節では、「見るもの」について、それは純粋な意識であるにも関わらず、心の働きによって、その影響を介して見ていると説かれます。