96、音楽会議の頓挫の訳は



全国音楽会議の実施と頓挫

奇しくも20世紀の前半の同じ時期に、インドとアラブ諸国で「音楽会議」が開催されました。しかし、いずれも数回・数年で頓挫してしまいました。

インドは、ご存知のように州単位で主要言語と文字が全く異なります。英語とスペイン語では、文字は二三しか違わないのと比べて、同じ国なのにそれ以上の違いがあるという感覚です。結果的に、同じ古典音楽の同じ旋法:ラーガが、地域によって名前は勿論、その内容(主音、副主音の解釈など)から基本の音階さえも異なったりするのです。

ところが、インド音楽数千年の歴史の中で、インドの音楽家がこのことを理解したのは、つい最近(20世紀初頭)のことなのです。基本的に異なる流派・異なる師匠を渡り歩くような不埒な生徒は居ませんでしたので、各流派、各地域の音楽家は、自分たちの流儀以外を殆ど知らないし興味がない。演奏会などで他流と同じ舞台になったとしても、そこから何かを学ぼうとはしなかったのです。

これはインド音楽に限らず、世の中のあらゆる物事に通じる「収斂収束系・血が濃くなる」という方向性が持つ必然的で、或る種切ない負の要素です。

勿論、この連載でもお話致しましたように、13世紀のアミール・フスロウとゴパール・ナヤック。16世紀のターン・センとバイジュ・バウラ。18世紀のハッドゥー・ハッスー兄弟とムハンマド・カーンなどの、「王が余興に求めた歌比べ」などのような場面で、「密かに相手の手の内を事前調査すること」はありました。

結果的に、他流の良いところを部分的に盗み取り、我流に変換させることで得られる新陳代謝もありましたが、精神性としては「他流に学ぶ=他流に対する敬意」という感覚ではない場合が主でした。

これは「我が流儀こそは最高である」という「誇りと自尊が入り交じった」感覚によって、一層頑強なものになっていたのです。

私が現地修行をした1980年代は、宮廷楽師の父親の姿を知る戦前生まれの巨匠に学ぶ事が出来た最後の時代ですが。その頃でさえ、師匠(及びその弟子達)によっては、私が「○○派ではこう言っていますが」などと言うと不機嫌になったり「あり得ない!」と感情的になったり、「だからあそこはインチキだと言うのだ!」的な言葉を臆さない人が少なくありませんでした。

勿論、「何かが正解で、それ以外は間違い」ということではない筈です。音楽の理論や解釈がそう変わったからにはそれなりの理由があり、それらが何百年もの間継承されて来たのですから、いずれも尊敬に値する確固たる伝統である筈です。

つまり、「自尊が入り込まない純粋な誇り」があれば、「違い」や「特殊性」が明らかにされたとしても、そこには一切の「恥」も「劣等感」もなければ、「勝ち負け」もない筈なのです。むしろ「違い」を学び合い、それぞれの「共通項」はより高め、「違い」こそは「その流派の歴史的財産」として、未来永劫に大切にする意識が強まってしかるべきでしょう。

インドでもアラブでも紛れも無く。「音楽会議」を提唱し主催した人々の情熱と主旨もまた、これと同じだった筈です。そして、それに参加する為に、場合によっては数日の長旅を強いてインド全国各地から。アラブに至っては、地球の四分の一周近くも旅したかも知れません。そのような各地の高名な音楽家、各流派の代表者の多くもまた、参加意欲と情熱は純粋だったに違いありません。

しかし、その一方で、「俺様の実力を誇示してやろう!」「我が流派の素晴らしさを痛感させよう!」「あの流派を辱めねばならん!」「これで白黒決着が着くだろう!」という感覚もまた、人間からは中々取り除けないものなのでしょう。

勿論、そのような意識が、全て「音楽の実力」で為された場合には、ある程度容認せざるを得ないとっころがありますが、演奏家列伝の項でお話ししましたように、実力で負けた腹いせに「タントラの呪文」で仕返しをした18世紀の話しもありますから、何時の時代でも「枝葉の感情」に支配される人間は尽きないのでしょう。

数百、千数百年の伝統の歴史を背負い、常に数十・数百の弟子を抱える巨匠であっても、必ずしも「人格者」とは限らない。

これは私が父の代から二代に渡って「心の仕事=芸術」を生業として来たからこそ痛感するものです。

やはり「芸術」は、明らかに「枝葉の領域」にのみ存在します。それは、その時代、その瞬間に、その時代に生きる人間の心に届く為には不可欠の立ち位置に違いありません。

しかし、「太枝や幹」という「伝統とその歴史」「先人たちの厳しい教え」から逸脱し、安直に「ウケれば良し」であったり、その時その場の「地位、名声、財産、評判」や「嫉妬、妬み、不平不満、損得や勝ち負け意識」に負けてしまえば、あっと言う間に「太枝・幹」からの滋養が滞ってしまうのです。

古今東西で、その過ちに陥った芸術家は驚く程多く存在します。
その様を見て、昔の心ある人々は「芸が荒れた」とか「陳腐になった」と直ぐに分かったものですが、近年ではそのような厳しい批判に繋がる「心の目」を持つ人は少なくなってしまいました。

「音楽会議が頓挫した、学術的(表向き?)な理由」は、「インド音楽会議」でも「アラブ音楽会議」でも不詳のままです。

良さ気に言いたい人は「やってみて良かった!」「実に多様であることが良く分かった!」と言い。けなしたい人は「あまりの多様性の為に、全ての音楽家が、自らが根を張る大地そのものが揺らいだ気がしたに違いない」と辛辣に言いました。

残念ながら、それらの「違い」を乗り越えてまで、その先にある領域にまで自らとその背負った伝統を導かんとする程の芸術家・人物は、必ずしも優勢ではなかった、ということなのでしょう。

今回の写真は、1956年の、恐らく公平で不偏的な最後の会議の際の記念撮影のものです。 ネット上では誤って1948年としているものもあります。

今日ではネット上で自由に見ることも入手することも出来ますが、私がこの写真を入手した1981年当時は、インド政府と写真の音楽家の一族しか持っていなかったもので、私の師匠、故Ustad Ilyas Khan師は、なんと私にその貴重な一枚を「日本にもって帰って質の良い複製を作って来てくれ」と託してくれたのでした。

最前列には、当時の首相を中心に、まだ声楽が最も高尚と言われた時代の名残を感じさせる、各声楽流派のお歴々が座ります。その中で、サロードのアムジャット・アリ・カーン氏の父親、ラヴィ・シャンカル氏の師匠(義父)が座っています。この二人と共に、当時「サロード三羽烏」と呼ばれた私の師匠の父、Ustad Sakawat Hussein Khanは、残念ながら前年に逝去しており、ご健在だったならば並んでいたに違いありません。後継であり、私のサロードの師でもあるUstad Umar Khansahebは当時、コルカタの太守の音楽教師をしていて、重要な演奏会の為にデリーに行けなかったのでした。

声楽家に並んでサロード奏者が座り、同時代のシタール奏者が居ないことも、サロードの格を示していますが、この後、ラヴィ・シャンカル氏の世界的な活躍によって、シタール人気がサロードを上回ったのでした。

二列目は、20世紀後半の巨匠達の若かりし頃の姿です。言う迄もなく、今日の巨匠・長老の親・先代です。

最前列の中央の白い帽子の首相の右上に、ラヴィ・シャンカル氏が。その右隣には義弟アリ・アクバル氏が、言ってしまえば、いささか「ふてぶてしいほど堂々とした腕組み」をしています。その右のヴィラヤト・カーン氏が寡黙に見えます。シャンカル氏の左二人、年配の声楽家と、斜めにポーズを取ったタブラ奏者の更に左で、他より背が高く、ニコニコと笑っているのは、「シャーナイ(インド・オーボエ)」を古典音楽の領域に至らしめた、ビスミラフ・カーンで、その左で、小柄な上に体を捻らせピントもずれてしまっているのが、私の師匠:Ustad Ilyas Khan師です。

なんとシャッターの瞬間、何を思ったか?ビスミラフ・カーンは私の師匠の横腹をつねり、師匠は体を捻らせてしまった。ビスミラフ・カーンは、「してやったり」の笑顔なのです。しかし、これがラヴィ・シャンカル氏だったら、つねられても微動だにしなかったに違いなく。そもそもそんなことをさせないオーラとバリアーに満ちていた筈です。

無理に穿った見方をせずとも、記念撮影でさえ、或る種の「勝負」のような「音楽会議」だったこともまた、この貴重な写真から伺い知ることが出来るのです。

この政府主催の音楽会議の後、今日に至る迄、様々な「音楽会議」を称するプライベート(非政府の意味での)・イベントが行われていますが、表裏とも純粋且つ、高尚な意義を持ち、派閥闘争や政治の絡みを拒絶・排除したものは、残念ながら行われていません。

「ヴェーダの土壌」に至る迄の「太枝・幹」にその意識を回帰させることをしなくなり、「枝葉の違いの自尊」の精神性に陥ったことよりも、より深刻な問題は、「表立って他流を批判しなくなった」ということでしょう。

当然、文化人、有識者、評論家も、人脈・政治絡みだったり、当たり障りのないことしか発言しなくなり、裏では散々陰口・悪口を叩きながらも、表立って「正々堂々と音楽論を闘わせる」という風潮が無くなったということです。

その結果、今日では、ネット上で、「言った者勝ち」「言いたい放題」を許してしまう。これは取り立ててインド古典音楽に関してのことではないのでしょうけれど。

まるで「苛めは良くないよ」などと言うと、逆に袋叩きの目に合う事と同じように、「それは間違っている」などとは決して言わせない風潮。最早、これは文化のあるべき姿とは言えないのではないでしょうか。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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2017年8月の主な祝祭

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2017年8月の主な祝祭をご紹介いたします。

一年のうちでとりわけ神聖なシュラヴァナ月が続く8月は、ラクシャ・バンダンやクリシュナ降誕祭、ガネーシャ降誕祭など、数多くの祝祭が祝福されます。また、神聖なシュラヴァナ月のこの間、毎週月曜日にはシュラヴァナ・ソーマヴァール・ヴラタ(シヴァ神に捧げられる祈りや断食)、火曜日にはマンガル・ガウリー・ヴラタ(ガウリー女神に捧げられる女性たちの断食や祈り)が執り行われます。皆様もどうぞ神聖な時をお過ごしください。

8月3日 エーカーダシー
8月4日 ヴァラ・ラクシュミー・ヴラタ
8月7日 満月(日本時間の満月は8日)/ラクシャ・バンダン/ガーヤトリー・ジャヤンティ/シュラヴァナ月の終わり(主に北インド)
8月14日、15日 クリシュナ降誕祭
8月15日 ダヒー・ハーンディー、独立記念日
8月17日 シンハ(獅子座)・サンクラーンティ
8月18日 エーカーダシー
8月20日 シヴァラートリー
8月21日 新月(日本時間の新月は22日)/シュラヴァナ月の終わり(主に南インド)
8月24日 ヴァラーハ・ジャヤンティ
8月25日 ガネーシャ降誕祭
8月26日 リシ・パンチャミー
8月29日 マハーラクシュミー・ヴラタの始まり/ラーダー・アシュタミー

*地域や慣習によって、祝祭の日にちには差異が生じることがあります。

1年を通じた祝祭、またその詳細について、インド暦カレンダーでご紹介しております。

参照:http://www.drikpanchang.com/panchang/month-panchang.html

ヨーガ・スートラ第2章第29節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


यमनियमासनप्राणायामप्रत्याहारधारणाध्यानसमाधयोऽष्टावङ्गानि॥२९॥
Yamaniyamāsanaprāṇāyāmapratyāhāradhāraṇādhyānasamādhayo’ṣṭāvaṅgāni||29||
ヤマニヤマーサナプラーナーヤーマプラティヤーハーラダーラナーディヤーナサマーダヨーシュターヴァンガーニ
禁戒、勧戒、座法、調気法、制感、集中、瞑想、三昧が8つの部門である。

簡単な解説:前節において、ヨーガの部門の実践により、心の不純性である煩悩が次第に破壊され、真の知識の光が輝きを増し、最終的には識別知があらわれると説かれました。本節では、ヨーガの部門について、禁戒、勧戒、座法、調気法、制感、集中、瞑想、三昧の8つがあると説かれます。

sarvamaṅgalamāṅgalyeで始まるドゥルガーマントラ

sarvamaṅgalamāṅgalye「サルヴァ・マンガラ・マーンガリェー」ではじまる、ドゥルガー女神へのマントラの解説です。

 

このマントラは、元々は『マールカンデーヤ・プラーナ(मार्कण्डेयपुराणम् MārkaṇḍeyaPurāṇa)』という、聖仙マールカンデーヤにより伝授された聖典のなかの第91章第9詩節(数え方によっては第10詩節)に由来します。しかし『マールカンデーヤ・プラーナ』の一節というよりも、女神による魔族討伐の神話を説く『デーヴィー・マーハートミャ(देवीमाहात्म्यम् devīmāhātmyam)』の11章第9詩節(もしくは第10詩節)として、より知られていることと思います。

 

『デーヴィー・マーハートミャ』は『マールカンデーヤ・プラーナ』81章から93章にあたる全13章分で、シャクティ派、シャクティ信仰の聖典として特に尊重されています。およそ700の韻文詩を含むため、「サプタ・シャティー(700節の詩) सप्तशती  saptaśatī」とも呼ばれ(ドゥルガー・サプタ・シャティー(दुर्गासप्तशती durgāsaptaśatī)、チャンディー・パータ(चण्डीपाठः caṇḍīpāṭhaḥ)とも。)、ドゥルガープージャー、ナヴァラートリにおいて唱えられます。

 

【逐語訳】

सर्वमङ्गलमाङ्गल्ये

sarvamaṅgalamāṅgalye

全ての吉祥なもののなかでも吉祥なる女神よ!

(サルヴァ・マンガラ・マーンガリェー)

 

शिवे सर्वार्थसाधिके ।

śive sarvārthasādhike |

聖なる女神、

全ての目的を成就する女神よ!

(シヴェー・サルヴァールタ・サーディケー)

 

शरण्ये त्र्यम्बके गौरि

śaraṇye tryambake gauri

庇護者たる女神、

三つ目の女神、

輝かしい女神よ!

(シャランニェー・トリャンバケー・ガウリ)

 

नारायणि नमोऽस्तु ते ॥

nārāyaṇi namo‘stu te ||

ナーラーヤニーよ!

汝に帰依いたします。

(ナーラーヤニ・ナモー・ストゥ・テー)

 

【単語の意味と文法の解説】

左から、デーヴァナガーリー表記、ローマ字表記、<名詞の語幹形、動詞の語根形 >、語意、(文法的説明)、「訳」、という順番で説明しています。

 

सर्व-  sarva- 全ての(複合語)

मङ्गल-  maṅgala- 吉祥なる(複合語)

माङ्गल्ये  māṅgalye < māṅgalyā- > 吉祥なるもの (女性名詞、呼格、単数) 「吉祥な者よ!」

शिवे  śive < śivā- > 聖なるもの(女性名詞、呼格、単数<śivaの女性形)「聖なる者よ!」

सर्व- sarva- 全ての(複合語、代名詞的形容詞)

अर्थ- artha- 目的(複合語)

साधिके sādhike < sādhikā- > 成就するもの(女性名詞、呼格、単数)「全ての目的を成就する者よ!」

शरन्ये śaranye < śaraṇyā-> 庇護するもの(女性名詞、呼格、単数)「庇護するものよ!」

त्रि tri- 三つの

अम्बके ambake < ambakā- > 目(女性名詞、呼格、単数) 「三つ目を持つ者よ!」

गौरि gauri < gaurī- > 黄色いもの、輝くもの(女性名詞、呼格、単数)「輝く者よ!」

नारायणि nārāyaṇi < nārāyaṇī- > ナーラーヤニー(女性名詞、呼格、単数)「ナーラーヤニーよ!」

नमो namo < namaḥ >  南無、敬礼、帰依(中性名詞、主格、単数)「帰依が」

अस्तु astu < √as- >~である(命令法、能動態、3人称、単数)「あれ!」

ते te < tubhyam > あなたに(二人称代名詞、為格、単数の附帯形)「あなたに」

 

(文章:pRthivii)

スタッフ日記:第14回アンナダーナ終了しました!

第14回アンナダーナにお気持ちを寄せていただきました皆さま、本当にありがとうございます。今回は孤児院にて、滞りなく無事に終えることができました。

孤児院でのアンナダーナは3回目となりました。前回はデザートに要望があり、キール(ミルク粥)を準備したのですが、子どもたちはハルワーが好きだろうと、ハルワーを準備する予定でいました。しかし、やはりキールが食べたいという要望があり、今回も前夜に急遽メニューを変更しました。ハルワーももちろん大好きとのことですが、キールはなかなか食べる機会がないとのことで、楽しみにしていたようです。

今回も、お世話をする方たちなどの食事を含め、200~220食分を準備。女の子の孤児院では外部の男性の出入りが厳しく、外部の男性は孤児院内に長時間滞在できないため、外で調理をし、できた食事をリキシャで運びます。配膳は子どもたちのお世話をする女性スタッフにお願いをします。

孤児院に到着すると施設内で遊ぶ子どもたちの姿がありました。暑くても元気いっぱい。ランチの時間が近づいて、心待ちにしている子どもたちの姿を見ると、食事を提供できることがとても嬉しくなります。

ミルク粥のキールを、主食よりもたくさんお皿に盛っている子どもたち。思わず微笑んでしまいます。

ホールには一度に全員入れないため、何度かに分けて食事を配ります。床に座って食事をするのは、インドでは一般的な習慣。

孤児院とも良い関係が構築されてきているので、現在は小規模での実施となっていますが、今後、もっと良い形でつながりを深めていきたいと思います。

皆様の温かいお気持ち、本当にありがとうございます。貧富の差が激しいインドの社会では、まだまだ食事を満足にとれない人々も多くいます。中でも、苦しむたくさんの子どもたちの姿を目にすると、あまりに問題が大きすぎて、何ができるのだろう…と考えてしまう瞬間がありますが、小さくてもこうして行動することの大切さを感じます。皆様が捧げてくださった温かいお気持ちはこんなに大きくなり、子どもたちの心の成長とともに、さらに大きく広がっていくことと思います。

次回は、8月19日(土)に病院での実施を予定しています。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

アンナダーナを通じ、皆様にも大きな恩寵がありますように。

(スタッフ:ひるま)

ヴァラ・ラクシュミー・ヴラタ2017

ashta lakshmi

2017年8月4日はヴァラ・ラクシュミー・ヴラタの吉日です。

ヴァラ・ラクシュミー・ヴラタは、主に南インドで行われる、女性たちによる家族の幸福を願ったお祈りです。神聖なシュラヴァナ月、満月を迎える前の女神の日である金曜日に行われるものです。

さまざまな言い伝えがありますが、こんな言い伝えがあります。

子どもを愛し、そして尽くす信心深い女性の夢にラクシュミー女神が現れ、喜びを伝えます。朝目を覚ました女性は、ラクシュミーの恩恵を確かめるために、身を清め祈り始めました。これを見た他の女性たちも同じようにラクシュミー女神への崇拝を始め、広まっていったとされています。

この日に崇拝されるのは、富、地、学び、愛、高名、平和、喜び、強さを表す8体のラクシュミー女神(アシュタ・ラクシュミー)です。

目には見えないこの8つの力は、ラクシュミー女神として擬人化され表されています。女神であるラクシュミーであるが故、女性たちに心を重ねると言われ、女性たちによる祈りがラクシュミーの恩恵を呼び覚ますと信じられています。

~アシュタ・ラクシュミーについて~
ラクシュミー女神は、広く富や豊かさの女神として知られています。私たちが所有するもの、例えば土地や財産、家畜や穀物など、また形ではなくとも、純粋さや忍耐と言った美徳も、私たちの富であり、栄光であります。

アシュタ・ラクシュミーはラクシュミーの8つの姿であり、様々な形で私たちに恩恵を授けます。その8つの姿すべてに祈りを捧げてはじめて、ラクシュミー女神を完全に礼拝したともいわれます。アシュタ・ラクシュミーとその象徴は以下の通りです。

*アーディ・ラクシュミー(マハー・ラクシュミー):ラクシュミー女神の祖先型
*ダナ・ラクシュミー:金、財
*ダーニャ・ラクシュミー:穀物、豊穣
*ガジャ・ラクシュミー:家畜や権力
*サナータナ・ラクシュミー:子孫
*ヴィーラ・ラクシュミー:勇気や強さ
*ヴィジャヤ・ラクシュミー:成功や勝利
*ヴィディヤー・ラクシュミー(アイシュワリヤ・ラクシュミー):知識(幸運)

参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Varalakshmi_Vratam

ガネーシャ神の8つの姿と人間の8つの弱点

ヒンドゥー教の神々は、正義が失われ悪がはびこる時、特別な化身となって姿をあらわし、世界を守ると信じられます。象の頭を持ち、愛らしい姿を見せるガネーシャ神も同じです。障害除去の神として崇められるガネーシャ神には、8つの有名な姿があります。

8つのガネーシャ神の姿は、私たち人間が持つ8つの弱点を取り除くと信じられます。ガネーシャ神が取り除く私たちの8つの弱点とは、嫉妬、傲慢、妄想、強欲、怒り、欲望、自我、慢心です。一説に、ガネーシャ神は以下のような姿となって、これらの8つの弱点の象徴である悪魔を倒したと信じられています。

1、ヴァクラトゥンダ(曲がった鼻の神):マートサリヤースラ(嫉妬の悪魔)
2、エーカダンタ(一本の牙の神):マダースラ(傲慢の悪魔)
3、マホーダラ(大きなお腹の神):モーハースラ(妄想の悪魔)
4、ガジャーナナ(象の顔の神):ローバースラ(強欲の悪魔)
5、ランボーダラ(ふくれたお腹の神):クローダースラ(怒りの悪魔)
6、ヴィカタ(奇形の神):カーマースラ(欲望の悪魔)
7、ヴィグナラージャ(障害を取り除く神):ママタースラ(自我の悪魔)
8、ドゥームラヴァルナ(灰色をした神):アビマーナースラ(慢心の悪魔)

嫉妬、傲慢、妄想、強欲、怒り、欲望、自我、慢心は、私たちが日々を幸せに生きるための道を塞ぐ大きな障壁です。それは、私たちの成功を阻む弱点にも他ありません。内なる世界に蔓延るこうした悪魔を倒す時、私たちは自分自身の本質である大いなる幸せに気づくことができます。

ガネーシャ神の礼拝は、これらの悪魔を倒すための優れた方法の一つです。ガネーシャ神の姿が見せる一つ一つの象徴を見つめ、その崇高な存在に心を定める時、私たちの内なる世界は浄化され、障壁が取り除かれていきます。

ガネーシャ降誕祭を通じ、その姿を見つめ直してみるのも良いかもしれません。そこで得る気づきは、ガネーシャ神の大きな祝福として、私たちの障壁を取り除き、幸せを授けてくれることと思います。

(文章:ひるま)

参照:http://www.speakingtree.in/allslides/8-avatars-of-lord-ganesha/152276

ガネーシャ降誕祭

2017年8月25日は、ガネーシャ・チャトゥルティー(ガネーシャ降誕祭)です。熱心な信奉者は、およそ10日間に渡って毎日ガネーシャ神に祈りを捧げる盛大な祭典です。

ここに、ガネーシャ・チャトゥルティーについて、スワミ・シヴァーナンダのお話をご紹介します[1]。

『至高神であり、シヴァ神の活力であり、祝福の源泉であり、美徳そしてあらゆる試みの成功を授けるブラフマー自身であるガネーシャに礼拝します。

ムシカヴァーハナ・モーダカ・ハスタ
チャーマラ・カルナ・ヴィランビタ・スートラ
ヴァーマナ・ルーパ・マヘーシュワラ・プトラ
ヴィグナ・ヴィナーヤカ・パーダ・ナマステー

意味:
「ヴィナーヤカ神よ!障害を取り除かれる、小柄なシヴァ神の息子。
ねずみを乗り物とし、甘いお菓子を手に持ち、大きな耳と長い鼻を持ったお方。
あなたの蓮華の御足にひれ伏します!」

ガネーシャ・チャトゥルティーは、インドのお祭りの中でももっとも人気のあるお祭りのひとつです。この日は、ガネーシャの誕生日にあたります。これは、ガネーシャにとって、もっとも神聖な日となります。インドの太陰太陽暦では、バードラパダ月(8月〜9月)の新月から4日目にあたります。このお祭りは、インド国内はもちろんのこと、ガネーシャを信奉する世界中の人々によって祝福されます。

このお祭りでは、土のガネーシャ像が作られて、2日間から地域によっては10日間お祈りが捧げられた後、川に流されます。

ガネーシャ神は、象の頭をした神様です。そして、お祈りの最初にまず崇められます。神聖な仕事がされる前、さまざまな祈祷が行われる前には、ガネーシャの御名が最初に唱えられます。

ガネーシャは、力と英知の神様です。ガネーシャは、シヴァ神の長男であり、軍神スカンダ(カールッティケーヤ)の兄にあたります。ガネーシャは、シヴァ神の源泉であるため、シャンカラとウマー・デーヴィーの息子ともいわれます。母親にとって、ガネーシャ神を礼拝することは、子供たちにガネーシャのような美徳を身につけてほしいとの願いが込められます。

次の物語は、象の頭をどのようにしてもつようになったかという、ガネーシャの誕生にまつわるお話です。

昔、ガウリー女神(シヴァ神の妃)が沐浴をしている時、彼女の身体から出た垢から、真っ白なガネーシャを作り、家の玄関に置きました。彼女は、自分が沐浴をしている間は、決して誰も中に入れてはならないと、ガネーシャに言い聞かせました。すると、そこへシヴァ自身が、急いで家に帰ってきましたが、玄関でガネーシャに止められてました。シヴァは怒り、ガネーシャを門外漢だと思い込んで、彼の首を切り落としてしまいました。

それを知ったガウリーは、悲哀に暮れました。彼女の悲しみを慰めるために、シヴァ神は家来たちに、北を向いて寝ている生き物を探し出し、その生き物の首をここへ持ってくるよう命令しました。家来たちはさっそく行動に移し、象だけがその方向へ向いて寝ているのを見つけました。こうして象が生贄となり、象の首がシヴァに届けられました。すると、シヴァ神は、象の首をガネーシャの身体につなぎ合わせました。

シヴァは、仕事、結婚、旅行、学問、その他すべての行為の始めに、ガネーシャを礼拝の対象にするようにしました。そして、毎年、バードラパダ月(8月〜9月)の新月から4日目に、ガネーシャの礼拝を行うことを定めました。

ガネーシャの恩寵と援助がなければ、どのような試みも達成することができません。私たちのすべての行為は、ガネーシャの援助、恩寵、祝福によって支えられています。

マハーラーシュトラの子供たちは、アルファベットの最初のレッスンは、「オーム・シュリー・ガネーシャーヤ・ナマハ」という、ガネーシャ神のマントラ(真言)から始まります。そうしてはじめて、アルファベットが教えられるのです。

次の名前は、ガネーシャ神に共通の名前です。
ドゥームラケートゥ、サンムカ、エーカダンタ、ガジャカルナーカ、ランボーダラ、ヴィグナラージャ、ガナーディヤクシャ、パラチャンドラ、ガジャーナナ、ヴィナーヤカ、ヴァックラトゥンダ、シッディヴィナーヤカ、スールパカルナ、ヘーランバ、スカンダプールヴァジャ、カピラー、ヴィグネーシュヴァラ等。そして、ガネーシャ神は、マハー・ガナパティとしても知られています。

ガネーシャ神のマントラ(真言)は、「オーム・ガン・ガナパタイェー・ナマハ」です。ガネーシャを守護神として信奉する霊性修行者は、このマントラか、または「オーム・シュリー・ガネーシャーヤ・ナマハ」のマントラ(真言)を繰り返し唱えるとよいでしょう。

ガネーシャの信奉者は、次のガネーシャ・ガーヤトリー・マントラのジャパを行うこともできます。これは、次のようになります。

タットゥ・プルシャーヤ・ヴィッドゥマヘー
ヴァックラトゥンダーヤ・ディーマヒー
タンノ・ダンティ・プラチョーダヤートゥ

ガネーシャ神は、英知と至福の化身です。ガネーシャ神は、ブラフマチャリヤ(自己実現を探求する独身者)たちの神様であり、禁欲主義者にとってもっとも重要な神様です。

ガネーシャ神は、小さなネズミを乗り物としています。ガネーシャ神は、クンダリニー・シャクティが宿り、身体の霊的中枢であるムーラーダーラ・チャクラに安住する神様です。

ガネーシャ神は、霊性修行者が歩む道のすべての障害を取り除き、霊的な成功はもちろん、世俗的な成功を授ける神様です。そのため、ガネーシャ神は、ヴィグナ・ヴィナーヤカと呼ばれます。ガネーシャ神のビージャ・アクシャラ(種子)は、「ガン(Gung)」です。これは英語の「sung(singの過去分詞形)」と同韻を踏む発音になります。彼は、調和と平安の神様です。

ガネーシャ神は、ヒンドゥー教徒の間で主要なマントラである「オーム」すなわちプラナヴァ(原初音)を示します。これを唱えることなしには、何事も行うことができません。これは、あらゆる儀式や計画の前に、ガネーシャ神を召喚するための習慣です。ガネーシャ神の2本の足は、知識と行為の力を示します。象の頭は、自然の造詣の中で、オームを象徴している唯一のものとして、重要な意味を持ちます。

ガネーシャ神がネズミを乗り物とする意義は、エゴを完全に克服することです。アンクシャ(槍のような武器)を手に持つ姿は、ガネーシャ神が世界の支配者であることを示し、これは、神々の王族の紋章でもあります。

ガネーシャ神は第一番目の神様です。自然の中でもっとも小さい生き物のひとつであるネズミに乗り、すべての動物の中でもっとも大きい象の頭をもつことは、ガネーシャ神がすべての動物の創造者であることを意味します。象はとても賢い動物です。これは、ガネーシャ神が英知の象徴であることを示します。またネズミは、進化して象になり、最終的に人間になるように、進化の過程を意味します。ガネーシャ神が、人間の身体や象の頭を持ち、ネズミを乗り物とすることには、このような理由があります。これが、ガネーシャ神の姿の哲学的象徴です。

ガネーシャ神は、元素のグループ、感覚のグループなどのガナ(群)の神様です。ガネーシャ神は、シヴァ神の従者の長であり、シヴァ神の最高の家来になります。

ガネーシャ神は、ヴァイシュナヴァ派の信奉者たちにも礼拝されます。彼らはガネーシャ神を、象の鼻をもつ神様という意味のトゥンビッカイ・アルワールと呼びます。

ガネーシャ神の持つ2つの力は、クンダリニーとヴァッラバすなわち愛の力です。

ガネーシャ神は、甘いプディング菓子(甘い中実が詰まった米粉の饅頭)が大好物です。誕生日には、ガネーシャ神は甘いお菓子の供物を受け取りに、家から家へと渡り歩きます。たくさんのお菓子を食べ、夜も更けたとき、ガネーシャはネズミに乗って出発します。しかし突然、蛇が襲いかかってきたのを見たネズミがつまずいてしまい、ガネーシャはネズミから落ちてしまいました。その衝撃で、ガネーシャのお腹は破裂し、詰め込んだ甘いお菓子が全部外に飛び出てしまいました。しかし、ガネーシャはそのお菓子をお腹に再び詰め込むと、蛇を捕まえ、彼のお腹に縛り付けました。

この一部始終を見ていた夜空の月は、腹の底から大笑いしました。ガネーシャは、月の失礼な態度に腹を立て、彼の牙の一本を月に向かって投げつけました。そして、ガネーシャ・チャトゥルティーの期間は、誰も月を見てはいけないと呪いをかけたのです。もし誰かが月を見るようなことがあれば、悪名や批判、不運は避けられないだろうと……。しかし、この期間に間違って月を見てしまった場合は、スヤマンタカ宝に関するクリシュナの逸話を聞いたり、読んだりすることが、呪いを解く唯一の方法だといわれています。この逸話は、シュリーマド・バーガヴァタムに引用されています。ガネーシャ神はこの取り決めを喜びました。帰依者たち優しく、慈愛に満ちたガネーシャ神に栄光あれ!

ガネーシャと彼の兄弟であるスブラマニヤは、かつてどちらが年長者であるかで競ったことがあります。事態は、シヴァ神の最終的な判断に委ねられました。シヴァは、宇宙を一周して、先にこの出発点に戻ってきた者を、年長者とすると決めました。スブラマニヤは、彼の乗り物であるクジャクに乗って、すぐに宇宙を周り始めました。しかし、賢いガネーシャは、尊敬の念を持って、彼の両親の周りを一周すると、勝利を求めました。

シヴァ神は問いかけます。
「賢い最愛のガネーシャよ。お前は宇宙を一周していないのに、どうして勝利を要求するのか?」
ガネーシャは答えました。
「私は両親の周りを一周しました。両親は全宇宙を象徴しています!」

こうして兄弟論争はガネーシャの勝利で幕を閉じ、その後、2人の中でガネーシャが長男として知られるようになりました。母のパールヴァティーは、賞品として、ガネーシャにフルーツを与えたといいます。

ガナパティ・ウパニシャッドでは、ガネーシャは至高神と同一と見なされます。ガネーシャにまつわる伝説は、ブラフマヴァイヴァルタ・プラーナのガナパティ章に記されています。

ガネーシャ・チャトゥルティーの日は、早朝のブラフマムフルタの神聖な時間帯に、ガネーシャ神にまつわる神話を瞑想しなさい。それから、沐浴をした後、寺院に行き、ココナッツや甘いお菓子とともに、ガネーシャ神に祈りを捧げなさい。愛と信仰をもって祈りを捧げることで、ガネーシャは霊的な進化の過程で経験するすべての障害を取り除いてくれるでしょう。家でもお祈りを捧げることです。パンディット(僧侶)の援助を得てもよいでしょう。ガネーシャ神の絵や写真、神像を家に飾り、ガネーシャがそこにいるように感じなさい。

この期間に月を見てはいけないということは、忘れてはいけません。ガネーシャ神に失礼な行為になります。この行為の真意は、この日から神を冒とくしたり、あなたの霊的な師や宗教を蔑む信仰のない仲間たちを避けなさいという意味があります。

心新たに霊的な決意をし、あらゆる試みで成功するための精神的な強さをガネーシャ神に祈りなさい。

ガネーシャの恩寵が、すべての人々に降り注ぎますように。
ガネーシャが、あなた方の霊的道程に立ちふさがるすべての障害を取り除きますように。
そして、あなた方に精神的成就のみならず、物質的な豊かさがもたらされますように。

スワミ・シヴァーナンダ』

ガネーシャ・チャトゥルティーでは、期間中にお世話になったガネーシャ神像を最終日に川に流します。そのため通常は土でできたガネーシャ神像を特別に買い求め、その期間中はその土のガネーシャ神像を礼拝することが行われています。

ガネーシャ・チャトゥルティーを本格的にお祝いしたい方は、日本では土製のガネーシャ神像を入手することは難しいと思いますが、次のビデオなどを参考にして、粘度でガネーシャ神を造ってみるのも面白いかもしれませんね。


このようにして造られたガネーシャは、きっと愛着のわく素敵なガネーシャになるでしょう。もちろん、すでにお持ちのガネーシャ像にお祈りを捧げてもよいと思います。
どうぞガネーシャとともに、楽しいガネーシャ・チャトゥルティーをお過ごしください。

参照
[1]Sri Swami Sivananda, Ganesh Chaturthi, http://www.dlshq.org/religions/ganesh.htm
[2]SitaRamaブログ, ガネーシャ・チャトゥルティー, http://blog.sitarama.jp/?eid=297450

スタッフ日記:フード・サービス・プログラムのご報告(ココナッツの収穫)

フード・サービス・プログラムにご支援をいただいている皆様、本当にありがとうございます。

最近の写真が届きましたので、ご報告させていただきます。雨季であるモンスーンが始まり、蚊が媒介する病気や不衛生な状況から、病にかかる人が急増しています。毎年のことですが、この時期の病院は、廊下にまで病人の方が寝ていることもあります。

食事の配給も400人を超えることがあります。配給は毎日行われているため、その日の状況を見ながら、次の日の食事の配給量を調整します。足りなくなることはほとんどありません。

長い行列です。

本日は、病院の配給で配られるお豆のおかずに必要なココナッツの収穫の様子をご紹介します。NGOには農場があり、ココナッツなどを収穫できます。ベテランのココナッツマン(ココナッツの収穫をする人)です。最初に登る木には、まずお祈りを。

命綱など一切なし。斧を手に登っていきます。ココナッツマンはおよそ2ヵ月に一度収穫に来てくれます。以前は45日に一度ほどだったそうですが、天候の変化で今では2ヵ月に一度の収穫になったそうです。

高い木に登っての収穫となるため、日が高くならない早朝に行われます。あっという間にてっぺんまで登り、ささっとココナッツを収穫してしまう姿には驚いてしまいます。

配給にはおかゆとお豆のおかずが配られますが、お豆はタンパク質が豊富。ケララ州の料理には欠かせないココナッツをお豆に混ぜています。栄養があり、風味豊かな美味しい食事を届けるため、こうしてたくさんの人々に支えられています。

皆様の温かいご支援を心よりお待ちしております。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

(スタッフ:ひるま)

カルキ・ジャヤンティ2017

kalki

2017年7月28日はカルキ・ジャヤンティ(降誕祭)です。

カルキはヴィシュヌ神の10番目の化身と信じられ、「永遠」や「時間」を象徴します。その名には、「不潔」や「汚物」という意味があり、悪や暗闇、無知を破壊する者として崇められます。

カルキはカリ・ユガの最後に現れ、世界の悪をすべて滅ぼし、新たな世界を築くと信じられています。シュラヴァナ月(7~8月)の新月から6日目に誕生すると信じられており、2017年は7月28日にあたります。

カルキ・プラーナには、シャンバラという村に生まれることも記されています。白い馬に乗り、剣をもって描かれます。雷や大雨、厳しい日照りなどが関連付けられることも多く、古代の人々が大自然の破壊と不要な要素の破壊を示唆していたとも伝えられています。

参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Kalki