156、アーユルヴェーダ音楽療法入門18(そもそも精神世界とは?-その5-)

「Kosha論」の解釈に於ける注意点

実際この「Kosha論」の基本は、ウパニシャドの中でも比較的古い(信憑性の高い)もので説かれていると言います。しかし、その後、一旦大きく廃れ、近代になって復興サンキャー学派などが脚色を加えて説いた結果、インド全体では基本的な価値には至っていないかも知れません。と言うよりも、そもそも数十年前までは、流石のインドには「心と感情を混同する」ような人は少なかったのでしょう。「Kosha論」は、言わば「当たり前のこと」として価値を見出さなかったのかも知れません。

尤も、その時代でも、それ以前でも、今日でも。「Kosha論」を知って「へー」とか「なるほど」で終わってしまうならば、価値も意味も見出せません。そこで説かれていることの意味と、現代人がどれほどズレているか? その理由は何なのか? を論理的に思考せねば、何の意味もないのです。
しかし実際は、残念なことに「へー」で終わる。「だから?」の域を超えない解説が、ヨガ関係やアーユルヴェーダ関係に少なくありません。(そもそも「Kosha論」を語るもの自体が極めて希ですが)
それは説いている人自身が「へー」の域を超えて、この「Kosha論」を理解していないからであろうと思わざるを得ません。
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「Kosha論」では、最も外側から「Annamaya-Kosha (食物鞘=肉体)」「Pranamaya-Kosha (生気鞘=気・活力・経絡など)」「Manomaya-Kosha (意思鞘)」「Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)」「Anandamaya-Kosha (歓喜鞘)」の順に説かれます。「鞘(Kosha)」という観念で説いているのですから、それらはまるでロシヤ民芸の「マトリューシカ」のようなもので、明らかに「外側と内側」を分別しています。そして、それが私が説明している「精神構造図」と全く同じなのです。

「Manomaya-Kosha (意思鞘)」「Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)」「Anandamaya-Kosha (歓喜鞘)」の三層は、私の図解の「気分感情領域(Heart)」「論理思考領域(Mind)」「心と魂の領域(Spirit/Soul)」と全く一致します。しかも「論理思考領域」を「理知鞘=理知層(領域)」としており、「意思=常人が常時自覚出来る意識(Ahamkara)=気分・感情と、それらが思考する領域」と区別しており、後者が外側にあり、前者が「心・魂」に近いところにある、と説明している点も全く同じです。
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違いは、「身体領域(精神領域と区別して)」を外側に二層説き、その二層目「Pranamaya-Kosha (生気鞘=気・活力・経絡など)」が「精神領域」と重なる部分もある点。最も内側のAnandamaya-Kosha (歓喜鞘)」で「心と魂」を区別していない点位です。
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この相違には、全て意味・理由があります。
相違点の前者は、「ヴェーダ科学」の「ひとつの大きな欠点」でもある「肉体論と精神論の混同」に原因があります。これだけで「分厚い論文」が書けてしまうテーマですが、搔い摘んで言うと。

「ヴェーダ科学の真髄」に於いては、「肉体論と精神論は、表裏一体であり同源同義」が結論なのです。ところが、インドの叡智に常に付きまとう性質ですが、「論理的には同源同義だが緒論に於いてはしばしば分別すべきである」という「矛盾」が理解出来ないとアウトなのです。

これは、何度もご説明している「樹木」の有様と同じです。「枝葉はそれぞれで別物」ですが「同じ一本の幹に繋がっている」という姿そのものの話です。「枝葉論」では「違い」がメインになり、「幹論」では、「同源同義」がメインになります。しかし互いに異なる次元の論理から切り離されることもアウトです。

ヨガ・アーユルヴェーダ関係者さんでもこれを分かっている人は殆ど居ないようで。「インドでは肉体と精神は同じ物質」などと仰っていたりも多く見かけます。「遠からずとも当たらず」です。

相違点の後者は、おそらくタイッティリア・ウパニシャドの段階で既に「梵我一如」の観念が在って「心=魂(更に=Pursha:宇宙原理)」である、と説いてしまっているからであると共に、「個々の人間の個人所有物である心」は、その外側の)「Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)」に含まれるか、もしくは「論理思考と同一」であると説いているからです。それはそれで凄いことで、例えば、以下のような例題で考えてみて下さい。
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ファミレス・メニューの場合:
Manomaya-Kosha (意思鞘)の選択 → その時々の気分と直感で「食べたいもの」を選ぶ。
Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)の選択→ その時の体調や前後の栄養バランスを考えて選ぶ。
Anandamaya-Kosha (歓喜鞘)の選択 →滅多な事では関与しないが、強いて言えば同上。

というのが「Kosha論」の時代の「人間の自然な姿」だったということです。

ところが現実は、
気分・感情の選択  → その時々の気分と直感で「食べたいもの」を選ぶ。
時間・金額や写真での印象や、同伴者の動向に左右される。[
思考領域 → 体調や前後の食事のことを加味して考える。
の二種でしばし「悩む」

捨て子猫と遭遇した場合:
気分・感情の選択  → 直感的に「可愛らしい」「可哀想」などを感じるのみ。
気分・感情思考の選択  → 「どうしよう」と循環思考するが、答えは既に出ている。
(人によって保護する場合もしない場合もそれぞれ)

これが「本来の人間」の場合、
論理思考の選択  → 「言い訳・屁理屈」は遺棄し、「すべきこと」を行動する。
ここに「可愛い・可哀想・放って置けない」の感情は不要

もし「心・魂」が選択に意見を述べられるのであれば
心の選択    → 「放って置けない」それしかない。
魂の選択    → 「放って置けない」それしかない。
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「捨て子猫」の場合、もっぱら「気分感情領域の循環思考」の人では、
「職場への道中だ。遅刻は出来ない→どうせアパートはペット不可→そもそも私は猫毛アレルギー→もっと良い人が拾ってくれるだろう→そうだ!ここで私が保護したら、そのチャンスをこの子から奪うことになる→「頑張ってね!きっと良い人が助けてくれるから」と声を掛ける(単に見捨てた訳じゃない)」のようなことを「猛スピード」で思考する能力に長けているようです。

「論理的思考領域」での答えでは、「ペット不可」「アレルギー」「もっと良い人」などは、「保護しない理由」には全くなりません。とにかく保護し、安全を確保し、健康に戻した後に幾らでも解決策があるからです。故に「答えは既に出ている」とした訳です。

最近では「鳴き声に気づいても『気のせいだろう』と判断する能力」さえ身につけている人も増えた気がします。いずれ「本当に聞こえない」人も増えることでしょう。
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「論理思考領域での思考」は、「論理的」であるが故に、その「思考構造」は、極めてシンプルで、「枝葉状=系図的」になっていますから、「思い通りに行かない場合」「分岐点」に戻って「別の選択」を試みることが出来ます。「思考」している間に、「気分・感情」が「焦ったり、悩んだり」は殆どありませんし、そもそもがシンプルですから「負荷」が少ないので、その分「判断と行動」に余裕が生まれます。

ところが「気分感情領域での思考」は、前述したように、「あれこれ色々考える」上に、「焦る・悩む」。そして、人によっては「どうするのが正しい?」「罪の呵責」なども加わって、実に「すっきり」しません。

事実の話ですが、昔の生徒さんで、循環思考であれこれ膨大に考えた挙句、逆に「或る種の無思考状態」に陥り、「動物の保護→行政の動物管理センターに相談しよう」に至ってしまった人が居ました。
直前で「殺処分」であり、それはトンデモ無い「本末転倒・矛盾の極み」であると、薄々感じながらも、循環から抜け出せずに子猫をセンターに持ち込んでしまい。しばらくして自分のしたことを理解して、それから20年近くも「心の重荷」にしていると、話してくれた人が居ます。

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これは「学童のいじめ問題」でも同じ構造が見られます。
「いじめを目撃した」は、「捨て子猫と遭遇した」と全く同じ現象。ところが「見て見ぬフリをした人も、罪の呵責で苦しんだんだ=被害者の一種=加害者ではない」という理屈まで思考する人も少なくありません。

同じく事実の話ですが、私が二十歳になった頃。突然小学校の同級生から電話があり。「あの時、君に対するクラス中の苛めに、『苛めたくない』と思いながらも後戻り出来ずに加担してしまった」と詫びられたことがあります。彼はそれから7~8年、ずっとそのことが「心の何処かで重荷になっていた」というのです。
「ご苦労な話だ」と言ったら無礼ですが。当の私は小学校時代、それに思い悩むこともなく。「ああ、そうかあれが苛めなのか」と理解したのは中学二年になった頃でしたから、正直「ご苦労さま」としか思いようがありませんでした。私は、小学校二三年に「役者の子・川原乞食」とクラス中から石を投げられるなどの苛めを受けていましたが、毎度その日の内に忘れたかのように、翌日はまた「給食目当て」でまた学校に喜んで行っていました。

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もし、「Kosha論(Taittiriya-Upanishad)」の時代に「捨て子猫」と遭遇したら?
その時代でも「他の動物に喰い殺される」と心配することは在り得たでしょう。

Manomaya-Kosha (意思鞘)の選択 → その時々の事情・状況・条件で悩むことはある。
Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)の選択→ すべきことを即行動する
Anandamaya-Kosha (歓喜鞘)の選択 →滅多な事では関与しないが、強いて言えば答えは同上。

でしかない、と説いているのです。

つまり、「心が含まれているかも知れないVijnanamaya-Kosha(論理思考領域)」は、論理的であるが故に「個人差が無い」のです。もし「心は魂と同一」であるならば、尚更です。

つまり「個人=個性=個別の感性」は、最も外側の「Manomaya-Kosha」でしかなく、それが出した答え(選択)ばかりで生きている人間は、明らかに「下等」と考えられていた訳です。

そのような人が、自らの「閉塞感・不遇感・生き辛さ」などから「梵我一如」を望むなど、そもそも在り得ない、ということも言うまでもないことです。

逆に、「Vijnanamaya-Kosha」で選択した人は、その最中「あらん限りのManomaya-Koshaの思い」で、子猫を愛で、励まし、世話をするに違いありません。そこには、歴としたその人の「個性」が現れてしかるべきです。(例えば、人前では照れて「なんてことない」素振りでも、猫とふたりっきりだと目じりが下がりっぱなし、など)

つまり、私の「精神構造図」は、流石に「Kosha論(Taittiriya-Upanishad)」の時代の人間をデフォルトとして説いても非現実的過ぎますから、「梵我一如」の如何は別にして、「心の領域」を個人の所有(管轄)として説いている訳です。

このような話を説くと、
「なんだ!捨て子猫を保護することだけが正しいなんて、どうして決められるんだ!」という感覚から抜け出せない人に激怒されることが少なくありません。「そんなことは人それぞれの生き方、価値観、考え方であり、それは自由な筈だ!」ともおっしゃります。

哀しいかな。全てはそのお言葉に見事に証言されています。

おっしゃる通りに、「気分感情領域・樹木の枝葉領域」は、「外因(枝葉にとっての雨風陽射しや害虫、他の枝葉との衝突)によって影響を強く受け・ひたすら反応する」のが「当然(自然・正しい)」に決まっています。ゆえに「枝葉は自由に揺れ・折れないように良くしなる」べきなのです。
故に、
おっしゃる通りに「人それぞれで自由」なのです。

しかし、「それが全て(それで全て)」ということは、「太枝も幹も、根っこも無い(脆弱・希薄)」ということです。

従って、そのような人は、
Manomaya-Kosha (意思鞘)しか「自覚(意識・認識)出来ない」状態になっており、Vijnanamaya-Kosha (理知鞘)Anandamaya-Kosha (歓喜鞘)と「意識・認識」の通い合いが、「同じひとりの人間の内面であるにも拘らず、不能になっている」と言わざるを得ないのです。

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極めて重要な問題は、そのような「気分感情領域の思考」ばかりで「論理思考」を殆どしない人は、日々物凄い思考と悩み、焦り、ストレスを感じているのですから、大変なことです。故に「Detox」や「自然食」などに懸命になるのでしょうが、「精神構造を元来の状態(健康)戻す」だけで、人間がどれほど健康になれるか。

私事(恐縮ながら)、
「ファミレスの食事など体に悪い」とおっしゃる人も少なくないかも知れませんが、(そもそも経済的理由で、自転車で五分のところにありながらこの七年年に一回も行けませんが)
40年前の二年間「Vegan」で、その後今日まで「Pescetarian」なので、ファミレス・メニューで選ぶもなにも、一種類位しかありません。思考も同様で、40年前までは、物凄く頭が疲れました。その後も論理を学び・習得修行をする前と後では、頭の疲れ度合い、疲れの質が全く異なります。今でも、手作業の種類によっては、例えば「掃き掃除中」の論理思考は疲れますが、「拭き掃除中」は、相乗効果が上がる、など脳機能に適した同時進行をせねばなりませんが。

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何時も最後迄ご高読をありがとうございます。

福岡市南区の自宅別棟楽器倉庫の教室では、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行っています。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。

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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。

(文章:若林 忠宏

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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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2018年11月の主な祝祭

2018年11月の主な祝祭をご紹介いたします。

11月は、ヒンドゥー教の3大祭りの一つにあたり、光の祭典として盛大な祝祭が行われるディーワーリー祭を迎えます。ディーワーリー祭を終えた後は、7月から続いていた聖なる4ヶ月間であるチャトゥル・マースも終わりを迎え、その後は多くの地域で結婚式を執り行うにふさわしい時期を迎えます。

11月3日 エーカーダシー
11月5日 ダンテーラス/ダンヴァンタリ神の降誕祭/シヴァラートリー
11月6日 チョーティー・ディーワーリー/ナラカ・チャトゥルダシー
11月7日 新月/ディーワーリー
11月8日 ゴーヴァルダナ・プージャー
11月9日 バーイー・ドゥージュ
11月13日 チャタ・プージャー
11月16日 ゴーパーアシュタミー/ヴリシュチカ(蠍座)・サンクラーンティ
11月19日 エーカーダシー/チャトゥル・マースの終わり
11月20日 トゥラシー・ヴィヴァーハ
11月21日 ヴァイクンタ・チャトゥルダシー
11月23日 満月
11月26日 サンカタハラ・チャトゥルティー
11月29日 カーラ・バイラヴァ・ジャヤンティ

*地域や慣習によって、日にちに前後の差異が生じます。

1年を通じた祝祭、またその詳細について、インド暦カレンダーでご紹介しております。

参照:http://www.drikpanchang.com/panchang/month-panchang.html

悪を払う光

人々が待ちに待ったディーワーリーの祝祭が近づいてきました。
広大な地に異なる慣習が生きるインドでは、このディーワーリー祭の前後に各地でさまざまな祝祭が行われます。
そんな中で、ディーワーリー祭の前日には、ナラカ・チャトゥルダシーという悪を追い払う祝祭が祝福されます。
2018年は11月6日です。

このナラカ・チャトゥルダシーは、大破壊をもたらした悪魔ナラカースラ(地獄のアスラの意味)を、クリシュナ神の妻のひとりであるサティヤバーマーが倒した日として崇められます。
一部の慣習では、カーリー女神がナラカースラを倒した日として、カーリー女神への盛大な礼拝が行われることもあります。

ナラカースラの生まれにはさまざまな説がありますが、一説には、大地の女神であるブーミと、ヴィシュヌ神の化身であるヴァラーハ神との間に生まれたと信じられます。
神の子として生まれたにも関わらず、ナラカースラは後にバーナースラと呼ばれる悪魔と関わりを持ち、その悪に染まるようになります。

やがて、世界を征服する力を手に入れようと、ナラカースラは苦行を始めました。
そして、母親であるブーミ女神以外には殺されないという恩恵を手に入れます。
子どもを殺す母親はいないと、永遠の命を手にできると思ったのかもしれません。
そんなナラカースラは、16000人もの女性を誘拐し監禁するなど、世界を恐怖に陥れました。

しかし、ナラカースラはブーミ女神の化身と信じられるサティヤバーマーに倒されます。
そして、クリシュナ神が倒されたナラカースラから16000人の女性を解放すると、一人一人を妻として受け入れたといわれます。

秋から冬へと日が短くなる、暗い新月の夜に祝福されるディーワーリー祭は、闇に光を灯すことで祝福される祝祭です。
私たちは生きる日々において、いつ悪の手に沈むか分かりません。
神の子でありながら悪魔になったナラカースラのように、欲望に支配され、一歩間違えば、光から一転して闇を経験することもあります。

ディーワーリー祭は、善が悪に打ち勝つことを象徴する祝祭です。
このナラカ・チャトゥルダシーの日は、チョーティー・ディーワーリー(小さなディーワーリー)とも呼ばれ、人々は小さな光を灯し始め、本格的なディーワーリーの準備を始めます。

この機会を通じて神々に近づき、意識的に光を灯す行いを実践して見るのも良いかもしれません。
そうした行いは、私たちを闇や悪から遠ざけ、光と善をもたらしてくれるはずです。

(文章:ひるま)

アホーイー・アシュタミー2018

ahoi_ashtami

2018年10月31日、主に北インドでは、アホーイー・アシュタミーを迎えます。このアホーイー・アシュタミーは、夫の幸福を願う女性たちの断食日であるカルヴァー・チャウトから4日目、また次に訪れるディーワーリー祭の8日前にあたるとされています。

この日は主に、母親たちが子どもたちの幸せを願い断食や祈りを行います。アホーイー女神(ホーイー女神)に捧げられる日として崇められます。

一説には、7人の息子を失ったある母親にまつわる神話があります。深い森に子どもたちと住んでいた母親は、ディーワーリー祭が近づき、家を飾り付けようと土を集めに出かけました。野生動物のすみかの近くで穴を掘っていた時、誤って幼獣を殺してしまします。母親は心を痛めましたが、どうすることもできず、土を家へと持ち帰りました。

数年後、7人の息子が母親のもとから消えてしまします。村人たちは、野生の動物に連れ去られてしまったに違いないと口にしました。母親は、自らが幼獣を殺めてしまった罪に気づき、村人たちに告白します。すると、このアホーイー・アシュタミーの断食や祈りを勧められました。母親はこの日に幼獣の絵を描き、断食と祈りを努めます。その涙は母親の罪を清め、無事に息子たちが母親のもとへと戻ってきたと伝えられています。

それ以来、多くの母親たちが、子どもたちの幸せを願い、この日に断食や祈りを行うといわれます。

インドではディーワーリー祭が近づいています。皆様もどうぞ喜びに満ちた時をお過ごしください。

参照:http://www.hindu-blog.com/2008/10/ahoi-ashtami-vrat-katha-story-listened.html

カルヴァー・チャウト2018

2018年10月27日(一部地域では28日)、インドではカルヴァー・チャウトの祝福が盛大に執り行われます。

カルヴァー・チャウトは主に北インドで行われる、既婚の女性たちによる断食です。より良い結婚生活と夫の健康を願って行われるものであり、早朝に身体を清めた後、女性たちは陽が昇る前にフルーツなどの食事をとり、その後日没まで完全な断食を行います。陽が沈み、月の光が現れた頃、プージャーを行い花と水を月に捧げます。

その際は、ふるいを通して出てきた月を見ます。その後、ふるいを通して夫の顔を見て、カルヴァー(ポット)に入った聖水を飲み、断食を終えます。ふるいを通して月と夫の顔を見ることは、あまりにも崇高な存在を直接見ないようにするため、または、ふるいを通じて悪いものを払い良いものだけを見るため、などと伝えられています。

このカルヴァー・チャウトの断食は、シヴァ神とパールヴァティー女神に捧げられるものと言われます。シヴァ神のために厳しい苦行を行ったパールヴァティー女神のように、女性たちはこの厳しい行いを通じて、夫の幸せと、円満な結婚生活を祈ると伝えられています。

女性たちは結婚時を象徴する赤色などのサリーを身にまとい、メヘンディ(へナ)やバングルで美しく着飾ります。家族間ではプレゼントが交換され、プージャーが執り行われます。女性たちが集まり、カルヴァー・チャウト・カター(カルヴァー・チャウトの神話の読誦)が行われる慣習もあります。

この慣習は、お嫁に行った女性達が結婚を通じ得るさまざまな問題を女性達の間で共有し助け合うことから始まったと伝えられています。また一説には、北インドを支配するムガル帝国と戦うため、戦地へと赴く夫の健康と幸福を女性達が祈っていたことに始まりがあるとも伝えられています。

参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Karva_Chauth

ヨーガ・スートラ第3章第40節

Hindu God Yoga Sutra of Patanjali Statue on Exterior of Hindu Temple


समानजयाज्ज्वलनम्॥४०॥
Samānajayājjvalanam||40||
サマーナジャヤーッジヴァラナム。
サマーナ気の支配により、輝く。

簡単な解説:前節において、綜制の修習によって、上方にあげる働きを持つウダーナ気を支配することにより、身体を浮き上がらせることができ、水や泥にも沈まず、棘に触れても怪我をせず、自らの意志で肉体を去ると説かれました。本節では、消化の働きを持つサマーナ気を支配することにより、全身が滋養され、身体から炎が輝き出ると説かれます。

第33回グループ・ホーマ(ダシャラー祭)無事終了のお知らせ

第33回グループ・ホーマ(ダシャラー祭)にお申込みいただきました皆様、誠にありがとうございました。

ラーマ神を礼拝する第33回グループ・ホーマは、10月19日に無事に終了いたしました。

プージャーの写真を以下に掲載させていただきます。

神々の祝福と、より良い体験がありますよう、心よりお祈り申し上げます。

第33回グループ・ホーマの実施内容はこちらよりご覧いただけます。

悪いエネルギーを貰ってしまう問題について

先日知り合いの方が、インド占星術師が鑑定をすることによりクライアントから、いわゆるカルマを貰ってしまうことに関して言及されていました。
クライアントの方が自分の運命を知り悪運を避け、幸運になると、その分の避けられた悪い運命を占星術師がもらってしまうという、考え方です。
似たような問題は、占い師の範疇だけでなく、医療関係者やセラピストの方やヒーラーと言われる職業の方などにもあるとお聞きしたことがあります。

相手を癒すことにより、相手の元々持っていたネガティブなエネルギーを貰ってしまう、という問題は、科学的根拠はないにせよ、経験的に良く知られていることではあります。
それにより運気が大幅に下がるということは実際あり得ると思います。
ホロスコープを見てそう悪い時期でもないのに、運気がいまいちだというような場合は、もしかしたらそういったことが原因の一つなのかもしれません。

インドに古来より伝わる叡智により、これらの貰ってしまった悪い運・悪いエネルギーを、取り去ったり軽減することはもちろん可能です。
個人的にはハヌマーンの礼拝が有効な方法の一つと考えております。過去に同じような問題に直面する上記の職業の方々にお勧めしてきましたが、おおむね良い結果につながっているように感じております。
入魂したハヌマーンのヤントラを礼拝する、入魂したハヌマーンの神像を礼拝する、あるいはハヌマーン・チャーリーサーを唱える、などは、想像以上に運気を改善し、力を得ることができます。上記のようなお仕事の方以外にも人ごみに行くと頭が痛くなってしまうような方にもお勧めですし、どなたにも良い影響があると思います。

注:今回は文章の流れ上、正確でない表現をしておりますが、「カルマ(カルマン)」という表現は本来は「行為」「業」などの意味です。

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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ガネーシャ・ギリ氏共著 『インド占星術と運命改善法』

ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定

ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス
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闇から光への道のり

秋が深まり、インドでは続いていた9日間に渡るナヴァラートリー祭が終わりを迎えました。
季節の変わり目に祝福されるナヴァラートリー祭では、大自然のあらわれである女神への熱心な礼拝が続きます。
そして、この秋のナヴァラートリー祭の終わりに祝福されるのが、ダシャラー祭です。

ダシャラー祭は、ドゥルガー女神が悪神マヒシャースラを倒した日として、また、ラーマ神が魔王ラーヴァナに打ち勝った日として崇められます。
悪に対する善の勝利を象徴する、とても意義深い日であり、今年は10月19日にあたります。

このダシャラー祭から21日後に祝福されるのが、光の祭典であるディーワーリー祭です。
ディーワーリー祭にはさまざまな神話が伝わりますが、その中の一つでは、ランカ島でラーヴァナを倒したラーマ神が、アヨーディヤー王国へ凱旋した日であると伝えられます。

ダシャラー祭とディーワーリー祭の間が21日間であるのは、ラーマ神がラーヴァナを倒しアヨーディヤー王国へ戻るまでに、21日間かかったからだと信じられます。
興味深いことに、Google マップでルート検索をすると、その道のりが同じように21日間と表示されることで話題になりました。
偶然の一致かもしれませんが、現代の技術を通じて垣間見る古代の叡智には、どこか神秘性を感じます。

 

そして、その21日間の間には、一年でもっとも明るいと信じられる満月を迎えます。
その明るい月夜から一気に暗闇へと落ちる新月の夜、ディーワーリー祭が祝福されます。
この日、私たちは正義の象徴であるラーマ神を迎え入れるために、光を灯します。

私たちの歩みは、ラーマ神の行状記に見られる壮大な物語と同じように映ります。
さまざまな出来事に翻弄される人生のなかで、奮闘する私たち。
しかし、それらはすべて、闇から光へと向かうための道のりに他ありません。

今年のディーワーリー祭は、11月7日です。
ラーマ神を内なる世界に迎え入れるためにも、これからの21日間を大切に過ごしたいと感じます。
皆様にとっても、実りある時となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

(文章:ひるま)

コージャーガラ・プールニマー2018

秋の澄んだ夜空に浮かぶ満月の輝きは、心を奪われるほど美しいものです。インドには、そんな月夜を喜ぶ、甘美な祝祭があります。ナヴァラートリー祭を終えた後に迎える、コージャーガラ・プールニマー(シャラダ・プールニマー)と呼ばれる満月です。2018年は10月23日(日本時間では25日)となるこの満月は、インドの各地でさまざまな祝祭が執り行われます

一説に、この満月の月明かりは、不老不死の霊薬であるアムリタのような恩恵を私たちの心身に授けるといわれます。この夜、人々はキールと呼ばれるミルク粥を作り、月明かりの下に捧げます。この月明かりを浴びたものはアムリタになると信じられ、人々は心地よい月明かりの下で、アムリタとなったミルク粥を食します。

この夜にミルク粥を食する理由には、生命の科学に基づいた教えがあります。インドでは、長く続いていた酷暑期と雨期が終わり、夏から秋に向かう季節です。日中はまだとても暑く、夜は少しずつ冷え始めます。この時、私たちの身体では熱の性質をもつピッタが乱れ、心身にさまざまな不調があらわれ始めます。夜にミルクと米を食することは、このピッタを落ち着かせるための最善の方法として勧められてきました。

月夜の下に置かれたミルク粥は夜風に冷まされ、私たちの心身に入るとピッタを落ち着かせます。健康と幸福を授けるミルク粥、それはまさに、霊薬であるアムリタに他ありません。

収穫祭にあたる地域も多いこの満月は、豊穣の女神であるラクシュミーを夜通し礼拝する時でもあります。この夜、ラクシュミー女神は目を覚ましている者を見つけると、その者に喜びを授けるのだといわれます。美しい自然の情景、特に、満月を眺めることはピッタを落ち着かせると信じられてきました。ラクシュミー女神は、私たちに健康と幸福を授けるために、この夜にあらわれるのかもしれません。

神々の力のあらわれである大自然に調和をしながら、身体と心と向き合い、幸せに生きる術がインドには溢れています。次の満月、皆様もどうぞ、月明かりを浴びながら至福の時をお過ごしください。

(文章:ひるま)