絶え間なく沸き起こる感覚の欲求を持つ私たちは、日々において、その追求に右往左往することが少なくありません。
その過程では、心の平安がたちまち奪われていくことを感じる瞬間もあります。
そんな感覚が宿る肉体を持って生まれた私たちにとって、真の幸福とは一体どのようなものなのか、クリシュナ神が説いています。
クリシュナ神は、バガヴァッド・ギーターの第18章において、3種の幸福を説きながら、真の幸福について明らかにしていきます。
はじめは毒薬のように苦しくても
終いには甘露となるような
大覚の道を行く清純な喜びは
サットワの幸福である
はじめは甘露のようで
終いには毒薬のようになるのは
感覚がその対象に接触した時の喜びで
それはラジャスの幸福である
自己の本性について全く関心なく
始めから終わりまで妄想であり
惰眠と怠惰と幻想から生ずる喜びは
タマスの幸福である
(バガヴァッド・ギーター 第18章第37-39節 神の詩―バガヴァッド・ギーター田中 嫺玉 (著, 翻訳))
肉体をまとった魂は、たとえ禁欲をしても、過去に経験してきた味わいを記憶しているといいます。
その味わいに心を許せば、私たちはたちまち知性を失い、繰り返し苦難を経験しなければなりません。
ラジャスの幸福やタマスの幸福に翻弄され、サットワの幸福は遥か彼方に遠ざかっていきます。
しかし、そうした記憶も、より上質なものを味わうことにより消失すると、クリシュナ神は説きました。
肉体を持って生まれた私たちの人生には、バガヴァッド・ギーターという神の詩を味わう機会が溢れています。
何よりこの神の詩には、社会の中で生きる日々においてこそ、生かすことができる数々の教えが含まれています。
与えられた人生という修練の場においては、毒薬のように苦しい経験をすることも少なくありません。
しかし、この神の詩と共にある時、それはやがて、私たちを甘露のような清純な喜びへと導いてくれるはずです。
長い修練を経て、人は真の幸福に到り、それによって必ず悲しみは終わる。
クリシュナ神がそう説くように、一瞬一瞬を大切に生きながら、真の幸福に向かって歩むことを努めたいと感じます。
(文章:ひるま)
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