「サンスクリットは神の言語である」といわれます。このことから、サンスクリットには何か特別な力があり、祈りやマントラはサンスクリットでなければならないと思いがちです。
しかし、わたしたちが普段使っている日本語をはじめ、世界中の言葉はとても大きな力を秘めています。
心を明るくし、元気づけ、また不愉快にさせたり、争いに導くのも、すべてわたしたちの言葉です。
こうしてみると、実はわたしたちの話す言葉そのものがマントラであり、自分自身、そして人の心を動かす原動力となっていることに気づきます。
事実、マントラはサンスクリット語で「言葉」の意味があります。
そのことからも、わたしたちはすでにマントラ(言葉)の達者な使い手と言えるでしょう。
たとえば、「ありがとう」という言葉があります。
「ありがとう」と言われれば、うれしい気持ちになり、気分を害す人は少ないと思います。
「ありがとう」の意味を知らない外国人が、何も分からずに、わたしたちに向かって「ありがとう」といっても、うれしい言葉に違いありません。
言葉は、本人は意味が分からなくても、相手に通じる力があります。
インドでは、意味の理解より先に、正確な暗唱ができることを優先して教典を学んでいるようです。意味の理解は重要なことだと思われますが、暗唱ができることを重視しているのはどうしてでしょうか。
仮に日本語をまったく知らない外国人に、「私はお腹がすいています。リンゴをください」というマントラ(?)を授けたとします。これが正確に唱えられるようになれば、外国人は、その意味が分からなくても、見ず知らずの日本人から運良くリンゴを手にすることができるかもしれません。
外国人がこのマントラの意味を理解して、苦渋に満ちた表情で唱えるならば、さらに効果的でしょう(笑)。
わたしたち(外国人)が唱える外国語(サンスクリット)のマントラも、たとえ意味を知らずに唱えていても、聞き手(神々)にとっては、同様に聞こえるはずです。そこには多少日本語なまりがあったとしても、ネイティブならば問題なく聞き取ることができます。
そして、その意味を理解し、相手に伝わるように気持ちを込められるようになれば、聞き手は何とかしてあげたいと思うに違いありません。
言葉には、言語の壁を越えた、すべてに共通する力があります。
そこには、サンスクリット語も日本語も関係ありません。どの言葉でも、心を込めて唱えられた祈りには、深い意味があり、すべて相手に通じています。
追伸:
2008年3月6日は、マハー・シヴァラートリと呼ばれるインドの大祭です。この日は、夜を徹して讃歌を歌ったり、瞑想をすることが勧められています。翌日が仕事で、徹夜できない人も、普段より少し多目に祈りを捧げることで、「言葉の力」を実感してみてもよいかもしれません。
参照:マハー・シヴァラートリ https://blog.sitarama.jp/?eid=201031
マントラ
本当にその通りですね。
ちょうど週末にヴェーダの詠唱をされている
トウドウさんからも
マハー・シヴァラートリの話しを
伺ったところでした。
2回も続けて聞いたという事は
心しておかないとですね。
シータ☆ラーマさんで購入した
Divine OfferingsのCDを聴きながら
マントラ唱えて過ごします。
shiho様
コメントいただきありがとうございます。
インドでは徹夜される人が多いようですが、映画を見たり友人と雑談したり、形式ばかりで霊的な意味がおろそかになっていると、ある聖者が警告していました。
少しでも、神聖な雰囲気の内に過ごせるといいですね。