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雑記帳

探求の旅

「細い木の枝にとまる小鳥は、強い風が吹いて枝が揺れようと、決して恐れることはなく、ただじっとそこにとまっています。しかし、彼らは木の枝が折れないものだと信じているわけではありません。自分が持つ羽を信じているのです。」
約6か月のこの度の滞在を終えようとしている今、日本へ、物質主義の社会へ戻る私に、あるスワミジはそう話をしてくれました。
ヒンドゥー教の教えでは、私たちの魂は、生まれることもなく死ぬこともない、不変のものだとされています。それは、私たちがこの今の人生を生きているのではなく、人生が私たちの魂という舞台の上で踊っていると、例えられることもあります。
人々はいつしか、物質主義の世界の中で踊る人生に、満たされない何かを感じ始めます。「生きる意味とは?」「自分自身の本来の姿とは?」「真実とは?」言葉での表現の仕方はさまざまであっても、答えを求めるその心は同じです。そして、自分を磨き、見つめていく精神的な探求の旅が始まります。
私たちが追い求めるものは「今」というその瞬間にあると、多くの教えによって明らかにされているにも関わらず、その探求の中で心は、今ではないいつか、そしてここではないどこかへと向かって、忙しなく動き続けます。
しかし、答えは心の成熟がなされた、それを見るに相応しいとされる時にのみに姿を現すと言います。完全に「今」という瞬間に留まる時です。それは、雑踏の中を歩いている時かもしれません。友人との何気ない会話の中かもしれません。準備が整った時、ふと、その瞬間は訪れます。ただ、「今」というその瞬間を犠牲にした探求の中では、その答えを見つけることは出来ません。
「木の枝にとまる小鳥のようでありなさい。木の枝はいつ折れるか分かりません。外側の世界に頼るのではなく、確固たる自分の内側を信じていれば、大きく揺るがす何かが起きたとしても、いつだって強くいられます。小鳥がじっと空を見つめるように、悲しいこと、嬉しいこと、魂というその舞台の上で起こるさまざまな出来事をただ受け止め、今に留まれば、求めるものは必然と向こうから訪れます。」
スワミジは最後まで続けます。「精神的な探求とは常に、自分というその家に戻る旅でもあります」と。真実、答え、そして求めるものは、最初から自分の中にあるからです。
今にいること、そして自分の内側をみること。その大きく深いテーマと向き合うことが、この6か月の探求であったような気がします。そしてその探求は、これからもまだまだ続くに違いありません。
(文章:ひるま)

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