ヨーガとは、自分自身を浄化する行いであると深く理解しています。そして行き着く先がどんなに崇高なものであるのか、一瞬一瞬に垣間見える純粋で美しい瞬間がそれを物語るように思います。
そんなヨーガの教えを実行する中で、常に向き合い続けるものが神の存在です。神を求め、神を理解し、神と出会うために、ただひたすらに教えに従い行いを続ける中、それでも見えずにもがく時、ある話を聞かされたことがありました。
「神はどこにいるのか」その問いを答えるインドに広く伝わる興味深い話です。
ある時、王が師に尋ねます。「神は、どこにいますか?なぜ、私には神が見えないのですか?」師は王に1杯の牛乳を求め、それから牛乳をかき回し、純化し、ギー(精製されたバター)にするよう頼みます。出来上がったギーを前に、師は王に尋ねました。「ギーはどこにありましたか?」王は答えます。「牛乳の中です。」師はまた尋ねます。「牛乳のどの部分にありましたか?」王は答えました。「牛乳の全てです」師は言います。「同じことです。神はすべてのものに遍在し、すべてのものに広がっています。」そして王は尋ねます。「ではなぜ私には神が見えないのですか?」師は言いました。「あなたの心が純化されていないからです。」と。
座法や呼吸法、瞑想だけでなく、愛や喜び、正や善に満ちた心を養うこと、そのあらゆるヨーガの行いは、さまざまに自分自身を浄化し、そして純化してゆきます。真実に従いその行いを努める時、そして良い面も悪い面も、攪拌するように自分自身をふるいにかけることは、真の存在を確認させ、最も大切なものを突き付けます。
ひたすらに攪拌しなければバターが生まれないように、さまざまに幻想を生みだす強い自我に包まれた自分から、真実である神の姿を見出すには、時に大変な苦行が必要となることがあります。しかし、その過程でふと平安の中に佇み言葉にならないほどの至福に包まれる瞬間が、苦行さえも喜ばしいものとさせるのです。
自分自身に満ちるものとは何なのか。私たちが理解すべくことはただ一つ、自分自身の真の姿、その神の存在に他にありません。王が師の最後の言葉を耳にし、感じたであろう衝動の意味を抱きながら今日もヨーガの行いを努めています。
(文章:ひるま)
雑記帳
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