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アーサナ

サソリのアーサナ

アーサナを通しての学びは、私にとってまるで未知の世界へと足を踏み入れるように深く、そして驚きに満ちているものです。高度なアーサナと言われるサソリのアーサナもまさにその一つでした。
ある時、サソリにまつわる良く知られた物語を交えながら、人間の持つ性(さが)について師が説明をくれたことがあります。
「川を渡りたいサソリは泳ぎのうまいカエルに、背に乗せ渡らせてくれと頼みます。『君は僕を刺すに違いない』とカエルは拒むも、『君を刺せば僕も一緒に溺れ死ぬ』と答えたサソリの言葉を信じ、カエルはサソリを背に乗せ川を渡り始めます。川の真ん中へ来た時、サソリはカエルを刺しました。沈みながらカエルは理由を尋ねます。そしてサソリは言いました。『それは僕の性だから』と。」
変えようと試みても変えられぬもの。人の心の働きや動き、心の持ち方から生じる性質。私たちは日々経験するものの中で、さまざまに自分自身を形作り、そしていつしか限界を定め、これが自分であると世界を小さく狭めていきます。それは自らが作り出す束縛であるのかもしれません。
積もり積もった自分という層の中に意識的に入り込んでいくヨーガの行いの中で、そしてそれが自分自身の肉体を通すとなるとき、徹底的な浄化が始まります。
サソリのアーサナで、腕で立ち後屈をしながら足先が頭に到達することは、毒を出すサソリの尾が自身の頭を刺すことを意味します。自らの毒で自らの思考を貫く時、その完全な浄化の中で、自身の性と自我は静かに消えていきます。それがサソリのアーサナを通じ達成されるべくものだと、ある師は淡々と語ってくれました。
少しでも疑いや躊躇い、恐怖や不安といった思考を抱く時、強さや柔軟性は痛みとなって現れ、そして集中力を失いバランスを欠き崩れていくように、自らを阻んでいきます。人に限界を生みだすものは、思考に覆われた性であり、そして自我である自分自身に他ないのだとそう気づかされたことを思い出します。その覆いを剥がしながら自らを解放し真の姿へと向かう術、それがヨーガなのかもしれません。
変えられないものなど何もないということ、限界も何もかも、自らが生み出す幻想に他ないのだと気づかされ、今思えば、ヨーガで踏み入る世界は未知でも驚きでもない、真の世界なのだと、だからここまで私の心を奪っていくのだと強く感じています。
(文章:ひるま)

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