心を豊かに育む仏教の教えの中に、二人の僧侶にまつわる有名な言い伝えがあります。
年を重ねた僧侶と若き僧侶の二人が共に旅をするこの話は、幾重にも解釈され、私たちが精神的な成長を遂げるための導きを示し続けています。
その言い伝えは、二人の僧侶が旅路の途中、急流の川に差し掛かる場面から始まります。
その川を渡ろうとした時、二人の僧侶は川を渡ることに苦労している一人の女性を見かけます。
老僧は躊躇せずに女性を抱き上げて川を渡り、対岸に下ろしました。
その後、二人の僧侶は旅を続けます。
しかし、女性に触れてはいけないという戒律を学んでいた若僧は、老僧が女性を抱き上げたことに困惑します。
我慢できず、なぜ女性を抱き上げたのか、若僧は老僧に問いかけました。
すると老僧は、「私はとっくにその女性を川岸に下ろしたのに、あなたはいまだに女性を抱えているのではないか」と答えたと言われます。
この言い伝えは、老僧の言葉の通り、無執着の大切さを伝えています。
老僧は必要とあらば助けを差し伸べ、その行為に固執することなく前に進みました。
しかし、若僧はその出来事に囚われ、前に進むことができず、心の平安を失っています。
この若僧の姿は、人間がいかに自分の思考や認識によって重荷を抱え込み、その執着によって不必要な苦しみを生み出しているかということを示しています。
一方で、他者を惜しみなく助け、前に進む老僧の姿は、今を生きる姿勢の中に無執着とそれに伴う心の平安を映し出しています。
何より、老僧が女性を助けた行為には、仏教の教えの根底にある慈悲の心が示されています。
若僧は、戒律の厳格な解釈に基づいて老僧の行為を判断し、その行為の背後にある慈悲の心を理解することができませんでした。
霊性を行く道においては、戒律を遵守しつつも、常に慈悲の心に導かれながら状況を見極め、その瞬間にもっとも適した行動を選択することが重要であるということが示されています。
この二人の僧侶にまつわる教訓は、無執着、慈悲、智慧、そして今を生きることの大切な価値を伝えています。
それを学ぶことで、私たちは日々において遭遇するさまざま状況の中でも、常に心の平安を保つことができるに違いありません。
(文章:ひるま)
仏教徒ならば他人を救うのではなく戒律を守る自己の修行を優先するべきです
何故その老僧は他人(川を渡っている女性)に執着し戒律を破ったのですか?
他人を助けたいならば仏教徒として出家するべきではありません
他人を助けたいならば俗世で真面目に働いて人々を助けるべきです
仏教徒とはそのように他人を助ける宗教ではありません
他人に執着する心とは解脱から離れた心になりますのでこの老僧は間違っています
この例え話や類似した事象の本質は老僧は感情論に流されているという事です
一つの戒律を勝手に変えれば人々はなし崩しにどんどん戒律を緩めようとします
何故間違った事をひろめようとするのですか?
戒律もまた修行であり仏教徒の目的とは執着を絶ち解脱する事を目的としますので感情論に流されてはいけません
その結果仏教は禁止されていた呪術や呪文、占いをするような宗教に変わりました
それらは元々の仏教ではありませんのでそれらの信仰のままに解釈するならば全員地獄におちます
法句経にもある善人ぶるのもやめましょうという文句はそういう内容を言っているのではありませんか?
この老僧はつまるところ己の目的すら忘れています
全ての執着を断つという事は他人を助ける事からも離れるという事です
そして執着を絶ち輪廻転生から解脱を目指すのが仏教ではありませんか?
俗世間の事に執着したい場合は俗世間で真面目に働いて人々を助けるべきです
老僧こそが中途半端な存在となり己の目的を明確化せず唯唯諾諾と生きているだけの存在になります
人助けがしたいなら仏教徒に出家などするべきではありません
人々は出家者に施すことにより果報があるかもしれません
しかし仏教徒のふりをする嘘つきに布施をすれば果報がおかしくなります
悪人に布施をしていけば世の中に悪人がはびこります
嘘つきに布施をすれば嘘つきがはびこります
それは善でしょうか?悪でしょうか?
人々は本質を忘れ求める所ではない教えを仏教と誤認するのではないでしょうか?