バガヴァッド・ギーターの原型が誕生したのは、紀元前2世紀ごろであったと伝えられています。その後、この神の詩は叙事詩マハーバーラタに編入され、ヒンドゥー教を代表する聖典の一つとして位置付けられてきました。
このバガヴァッド・ギーターにおいては、ジュニャーナ(知識)、カルマ(行為)、そしてバクティ(信愛)の3つのヨーガが、解脱を得る道として説かれています。中でもバクティ・ヨーガは、その後のインドの社会における思想に大きな変化を生み出し、とりわけ重要な意味を与えていると広く捉えられています。
バガヴァッド・ギーターが誕生する以前、神々への祈りや祭祀は、限られた者によって執り行われるものとして、一般の民衆が容易に捧げられるものではありませんでした。しかしギーターは、誰でも、ひたすらに神を愛する者こそが最高の修行者であり、その恩恵が与えられると、強く述べています。
無知で、信仰なく、疑心ある者は滅びると、そしてその者に、この世も、来世も、幸福も存在しないと、ギーターの中でクリシュナ神が繰り返し述べるように、日々の中で神の存在を見失うことは、自分自身の本質を見失う瞬間ともなり得ます。
バクティの実践に見える平安は、このインドの社会に身を置く中でとりわけ強く感じるものの一つであります。神をひた向きに思う人々の、何事にも惑わされない定まった心、その強さとしなやかさの中に見える満ち足りた幸福には、幾度となく胸を打たれてきました。
信じ愛することを象徴するバクティは、神と自分を繋ぐとてもシンプルな手段であり、誰でも、どんな時でも、日々の一瞬一瞬において実行できる修行に他ありません。何もしないことよりも、積極的に無執着の行いを努めることが何よりも優れているとギーターが説くのは、その献身的な行いがあらゆる場に神を見出す修行としてなり変わるからに違いありません。
あらゆる行いを献身的な愛を持って努める時、自分自身だけでなく、この世界にも最大の恩恵がもたらされていきます。その全体の平安こそが、私たちの達成すべきことなのだと、叡智が与えるその教えを常に心に留めていたいと感じています。
(文章:ひるま)
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