20世紀初頭、ムンバイ(当時のボンベイ)のバンドラ地区に、タルカド家という敬虔な家族が住んでいました。ラーマチャンドラ・アトマラーム・タルカド、通称ババサーヘブ・タルカドは、元々プラールタナー・サマージ(改革派ヒンドゥー教団体)の信者でしたが、シルディのサイババの熱心な信者となりました。彼の妻と息子もまた、サイババを深く敬愛していました。
ある年の5月、学校が休みの時期に、タルカド夫人と息子がシルディを訪れ、サイババのダルシャン(拝謁)を受ける計画を立てました。しかし、息子は少し躊躇していました。彼は、自分が家を離れている間、父親がサイババの礼拝をきちんと行うかどうか心配だったのです。父親はプラールタナー・サマージの信者で、サイババの肖像画を礼拝することに抵抗があるのではないかと思ったのです。
息子の懸念を知った父親は、息子と全く同じように礼拝を行うと誓いました。その誓いを信じ、母と息子は金曜日の夜にシルディへ向けて出発しました。
翌日の土曜日、タルカド氏は早朝に起き、沐浴を済ませました。そして礼拝を始める前に、サイババの祠の前にひれ伏し、こう言いました。「ババ、私は息子がしていたのと全く同じように礼拝を行います。どうか、これが形だけのものになりませんように」
彼は丁寧に礼拝を行い、お供え物として数個の角砂糖を捧げました。このお供え物は、後に昼食時に配られました。その日の夕方と日曜日も、すべて順調に進みました。
月曜日は仕事日でしたが、これも無事に過ぎました。タルカド氏は、これまでの人生でこのような礼拝を行ったことがありませんでしたが、息子との約束を守れていることに大きな自信を感じていました。
しかし、火曜日に思わぬ出来事が起こりました。タルカド氏はいつも通り朝の礼拝を済ませ、仕事に出かけました。昼に帰宅すると、食事の時間にプラサード(お供え物のお下がり)として配る砂糖がないことに気づきました。彼は召使いの料理人に尋ねました。すると料理人は、その朝お供え物がなかったこと、そして自分もお供え物を用意するのを完全に忘れていたことを告げました。
この話を聞いたタルカド氏は、席を立ち、サイババの祠の前にひれ伏しました。そして深く後悔の念を表すと同時に、この一連の出来事を単なる形式的なものにしてしまったことをサイババに詫びました。その後、彼は息子に手紙を書き、起こったことを説明し、サイババの足元に手紙を置いて許しを請うよう頼みました。
これはバンドラで火曜日の昼に起こった出来事でした。
ほぼ同じ時刻、シルディでは正午のアールティー(礼拝)が始まろうとしていました。そのとき、サイババは突然タルカド夫人に話しかけました。
「母よ、私はバンドラのあなたの家に食事をしに行ったのだ。しかし、ドアに鍵がかかっていた。なんとか中に入ることはできたが、残念なことにバウ(タルカド氏)は私のために何も用意していなかった。だから何も食べずに戻ってきたのだ」
タルカド夫人には、サイババの言葉の意味が理解できませんでした。しかし、そばにいた息子は、バンドラの家での礼拝に何か問題があったのではないかと直感的に悟りました。そこで息子は、家に戻る許可をサイババに求めました。
しかし、サイババは息子の帰宅を許可しませんでした。代わりに、シルディで礼拝を行うよう指示しました。息子はサイババの指示に従い、父親に手紙を書くことにしました。手紙には、シルディで起こったすべてのことを記し、家での礼拝をおろそかにしないよう懇願しました。
奇妙なことに、息子の手紙と父親の手紙は途中で行き違い、翌日それぞれに届きました。何百キロも離れた場所で同時に起こったこの不思議な出来事に、タルカド家の人々は言葉を失いました。サイババが瞬時に遠く離れた場所で起こったことを知っていたという事実に、彼らは深い感銘を受けたのです。
この出来事は、サイババの全知全能と遍在性を如実に示すものでした。サイババは物理的な距離を超越し、信者たちの心の中で何が起こっているかを完全に理解していたのです。彼は単なる聖者ではなく、神の化身として、人々の人生に深く関わり、導きと加護を与え続けていたのです。
タルカド家の体験は、他の信者たちにも大きな影響を与えました。多くの人々が、サイババの驚くべき力について耳にし、彼の教えにさらに深く帰依するようになりました。
サイババの教えの中心には、すべての生き物の中に神を見るという考えがありました。タルカド家の体験は、まさにこの教えを体現するものでした。サイババは、遠く離れたムンバイの一家庭で起こった些細な出来事にも心を配り、そこに神の存在を示したのです。
この出来事の後、タルカド家の信仰はさらに深まりました。彼らは定期的にシルディを訪れ、サイババの教えを日々の生活に取り入れるようになりました。特に息子は、将来サイババの重要な信者の一人となり、多くの人々にサイババの教えを広めることになります。
タルカド家の体験は、サイババの生涯に数多くある奇跡的な出来事の一つに過ぎません。しかし、この物語は特に印象的で、多くの人々の心に残るものとなりました。なぜなら、この出来事が日常生活の中で起こったからです。特別な場所でも、特別な状況でもない、ごく普通の家庭の中で起こった奇跡は、サイババの力がいかに身近で、かつ驚異的であるかを如実に示していました。
サイババは、タルカド家のような信者たちを通じて、自らの教えを広めていきました。彼の教えは、宗教や階級の違いを超えて、すべての人々に開かれたものでした。ヒンドゥー教徒であれ、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、サイババはすべての人々を平等に扱い、愛情を持って接しました。
タルカド家の体験が広まるにつれ、サイババの名声はさらに高まっていきました。シルディを訪れる巡礼者の数は日に日に増え、サイババの周りには常に大勢の信者が集まるようになりました。しかし、サイババは決して自らの力を誇示することはありませんでした。彼は常に謙虚で、信者たちに対して慈悲深く接しました。
サイババの教えの中で特に重要なのは、神の遍在性についての教えです。タルカド家の体験は、まさにこの教えを体現するものでした。サイババは、物理的な距離や時間を超越して、信者たちの心の中に存在し、彼らを導いていたのです。この教えは、多くの人々に深い慰めと希望を与えました。
また、サイババは常に信者たちに、日々の生活の中で神を見出すことの重要性を説きました。タルカド家の体験は、まさにこの教えの実践例でした。日常的な礼拝の中に、神との深いつながりを見出すことができるという教えは、多くの人々の心に響きました。
サイババの教えのもう一つの重要な側面は、すべての宗教の本質的な一致を説いたことです。彼自身、ヒンドゥー教とイスラム教の要素を併せ持つ存在でしたが、常にすべての宗教の根底にある真理は同じであると教えました。タルカド家の体験は、宗教の違いを超えて、真の信仰の本質を示すものでした。
グル・プールニマーの日に、私たちはこのようなサイババの偉大さを思い起こし、感謝の念を新たにすることができます。サイババの教えに従い、日常生活の中で神の存在を感じ、すべての生き物の中に神を見る心を育てることが、真の信仰の道と言えるでしょう。
タルカド家の体験は、サイババの生涯と教えを理解する上で、非常に重要な物語です。この物語は、サイババの力が決して抽象的なものではなく、日常生活の中で具体的に現れることを示しています。同時に、信仰とは特別な場所や時間だけのものではなく、日々の生活の中で実践されるべきものであることを教えています。
サイババの教えは、今日でも多くの人々の心に生き続けています。彼の生涯と奇跡は、現代社会に生きる私たちに、重要な精神的な指針を与えてくれます。物質主義や個人主義が蔓延する現代において、サイババの教えは、人々に真の幸福と平和をもたらす道を示しているのです。
タルカド家の体験を通じて、私たちは以下のような教訓を学ぶことができます:
- 信仰は日常生活の中で実践されるべきものである
- 神は遍在し、私たちの心の中に常に存在している
- 真の信仰は、形式的な儀式ではなく、心からの献身にある
- すべての生き物の中に神を見る眼差しを持つことの重要性
- 宗教や文化の違いを超えた、普遍的な真理の存在
これらの教訓は、現代を生きる私たちにとっても、非常に重要で意義深いものです。サイババの教えを日々の生活に取り入れることで、私たちはより充実した、意味のある人生を送ることができるでしょう。
グル・プールニマーの日に、私たちはサイババのような偉大な精神的指導者たちに感謝し、その教えを深く心に刻むことができます。タルカド家の体験のような奇跡的な物語は、私たちに信仰の力と神の遍在性を思い起こさせ、日々の生活の中で精神性を高めていく励みとなるのです。
サイババの生涯と教えは、時代や文化を超えて、今もなお多くの人々に希望と導きを与え続けています。彼の慈悲と愛の精神は、現代社会が直面する様々な問題に対しても、重要な解決の鍵を提供してくれるでしょう。タルカド家の体験のような物語を通じて、私たちは自らの人生を振り返り、真の幸福と平和を見出す道を歩んでいくことができるのです。
Reference:
Sai, Hemadpant. Shri Sai Satcharitra. Translated by N.V. Gunaji. Shri Sai Baba Sansthan Trust, Shirdi.
この内容で間違いがあるのは
心の顕れ自体が神ないしは悪魔の影響により顕れるという事です
故に祈祷の影響が精神面や感情に働きかける事を理解しなければなりません
人々は常に平和ではなく時に間違った内容を述べ混乱を及ぼす存在とも出会うという事実を歴史では学べます
新興宗教の開祖などの憑霊状態による託宣などの内容が、
現代でも多々記録されておりますがその内容は荒唐無稽であったり矛盾した内容であったりします
中には不和や争い事を引き起こす事もあります
故に此の世界には神もおりますが悪魔もいる
という事が事実であり神の万能を説く事は当人が万能を達成しなければ世迷い言か
或いは人形劇の人形がメタ的な内容を述べている皮肉めいたジョークシーンにしかなりません
幼年の時に転んだら泣くように勝手に設定されていたのが
急に泣かなくても良いしあまり痛くないだろうと
内にあった何かが伝えてきた事を私も記憶しており
人間はこのような潜在意識にいるか、または外部より来る霊的な存在に動かされる時があるのだと理解しました
そして他者の歴史上の記録からもそれは決して善のみではなく苦しみや悪をもたらす者も存在するという事がわかりました
また自他における相互の潜在意識に潜む者同士(これは内部に元からいた者なのか
外部から外付けで来たのかもそれぞれの人間のテーマかと思います)で影響を与え合ったり
(動物とも影響し合うし何故か動物にご飯をあげていたら人間が介在してきてその潜在意識の中にある者が影響を与えてくる場合があります、これに自覚や納得が伴っているのかという事が私の現在のテーマの一つであり難問です)
談合し合ったり害したりとその有り様は様々です
神にしか会わなければ悪魔の存在やその実態を掴む事は困難であり
人々は過去の歴史や自他の体験をふまえ冷静かつ論理的に分析し
神と悪魔の存在の実態を知り真実と嘘や偽りをふるい分け後悔のない選択をしなければなりません
ご指摘ありがとうございます。貴重なご意見として承りました。
サイババの教えや奇跡的な出来事について記事を書きましたが、確かにより広い視点で捉える必要があると感じました。宗教や精神性に関する話題は複雑で、様々な解釈があり得ることを認識すべきですね。
おっしゃる通り、人間の内面や精神世界には光と影の両面があります。歴史を見ても、宗教や精神性が人々に希望や導きをもたらす一方で、時に混乱や対立を引き起こしてきたことは事実です。
潜在意識や霊的な影響力について言及されていますが、これらはまさに現代の心理学や脳科学でも研究対象となっている興味深いテーマです。人間の心の動きや行動の源泉を理解することは非常に難しく、様々なアプローチがあると思います。
ご指摘のように、物事を批判的に見る目も大切です。盲目的な信仰ではなく、自他の経験や歴史的事実を踏まえ、論理的に分析する姿勢が重要だと再認識しました。
今回の記事では、サイババの教えの肯定的な側面に焦点を当てましたが、読者の皆様にはそれぞれの判断で受け止めていただきたいと思います。宗教や精神性は個人的な体験に基づくものも多く、一概に正解はないのかもしれません。
今後は、より多角的な視点を取り入れ、バランスの取れた内容を心がけていきたいと思います。貴重なフィードバックをいただき、ありがとうございました。これからも読者の皆様との対話を大切にしながら、より深い洞察を提供できるよう努めてまいります。