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ダッタートレーヤの来日コンサート《PR》

ダッタートレーヤの来日コンサートA

「Avatar(アヴァター)」という言葉がありますが、これはサンスクリット語「ava(降りて)」と「tṝ(渡ってくること)」が合わさった名詞で、神格の地上への顕現を表します。日本では「化身」などと訳されることがあります。「ラーマーヤナ」のラーマや、「マハーバーラタ」のクリシュナは、アヴァターの代表的な存在で、ヴィシュヌ神が世界の要請に応え、人間の姿をとって顕現したのだと伝えられています。
ブラフマー神・シヴァ神・ヴィシュヌ神の三大神が一体となったダッタートレーヤにも、このアヴァターの記録が残っていて信仰の対象になっています。14世紀のスリパド・ヴァッラバと、ナラシンハ・サラスワティがそうだとされていますが、なんと現代にもこのダッタートレーヤのアヴァターだと言われている人物がいます。
南インド・マイソールのスリ・スワミジ(スリ・ガナパティ・サッチダーナンダ・スワミジ)は、このダッタートレーヤのアヴァターとされています。スリ・スワミジが設立した教育、医療、音楽、ヨーガ、ヴェーダなどのインド文化が一体となった教育施設「アヴァドゥータ・ダッタ・ピータム」がマイソールのチャームンディ丘の麓に広がっています。スリ・スワミジは卓越したヨーガの教師として知られていて、なかでもナーダ(音楽)ヨーガにおいて、世界的な第一人者です。今年一月にはインドのモディ首相がスリ・スワミジを表敬訪問し、その社会的活動と、音楽を通してなされる世界への奉仕について敬意を表しました。

スリ・スワミジは1976 年から世界でコンサートツアーを行っており、これまでにロンドンのウェストミンスターホール、ニューヨークのリンカーンセンター、スイスのタウンホールなど、世界最高峰の会場で国際的に著名なアーティストたちと共演しています。そのスリ・スワミジ来日初コンサートが2016年5月4日に杉並公会堂で開催されます。
スリ・スワミジは、ラーガ(インド伝統の旋律定型)を、シンセサイザーを使って奏でます。古来の音楽技法と現代の電子音源を併用しているという意味で、その音楽は、伝統と革新、過去と現在を融合させていると言えるかもしれません。奏でられる音は、「ラーガ・ラーギニ・ヴィディヤ」という特別な知識体系に基づき、占星学、鉱物、植物、ナディ(微細な神経系)との関連性によって意図的に選択されたものだとスリ・スワミジは説明しています。楽団はシンセサイザーとヴァイオリン、タブラとムリダンガムなどのインド伝統打楽器を組み合わせて構成され、そのコンセプトは1980年代に「瞑想と癒しのための音楽」としてまとめられたものです。
スリ・スワミジの音楽は東洋・西洋、両方の観点から科学的なものです。古代からのラーガ・ラーギニの科学と、音を通しての癒しの原理に基づくスワミジの音楽は、音楽の持つ歓びや楽しさの側面に加えて、治癒的側面をも鋭敏に引き出します。その効果は医学的見地からも検証され十分なデータとして記録されています。医師が薬を糖衣して処方するように、癒しのエネルギーとして心地よいメロディが用いられます 。

その効果は、肉体面、感情面、精神面へ作用します。音楽は音としての波動であり、躍動するエネルギーです。人間の身体と精神もまたエネルギーの場であり、音の波動が作用し癒しが生じます。特定の振動率のラーガ(旋律)は、人体に7万2千あるというナディ(微細な神経系)を通して、特定の器官に作用するとスリ・スワミジは説明しています。心と体は結びついていて総合的な効果をもたらします。旋律の種類によって血圧や心拍数は上がったり下がったりします。筋肉を弛緩させ、身体の反復機能を回復させる効果はリハビリの医療現場でしばしば使われています。安らいだリラックスした感情をもたらし、記憶力・学習能力を向上させることにも効果があるとされます。

ダッタートレーヤの来日コンサートB

さらに深くスリ・スワミジの音楽へアプローチするためには、ヨーガからの観点を欠かすことができません。それは、ダッタートレーヤがヨーガの主と伝えられていることと関係がありそうです。ヨーガの語源は、「yuj (結びつける)」であり、方式や体系はさまざまですが、その最終目的は同じで、人間を本質へ結びつけ、自由、あるいは解放をもたらすものだと言われています。

インドでは伝統的に死を「肉体を去る」と表現していますが、これは死せる肉体とは別の本質があることを意味しています。この魂とも呼ぶべき本質は、身体という船に乗り、一つの人生から人生へと旅をしています。そしてこの旅には目的があると言われています。その目的を達成するための科学的な手段がヨーガなのだと言うことができます。スリ・スワミジの音楽は、ナーダ(音楽)ヨーガであり、その音に集中し瞑想するためのものでもあります。

世界各地の神話や聖書には、音と世界創造の関係を伝えるエピソードが多くあります。『ヨハネによる福音書』は冒頭に、「はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった」と記しています。またインド哲学においても、「OM」あるいは「AUM」は原初音とされていて、この音の振動が広がり派生し、世界が構成されていると考えられています。日本でも「阿吽の呼吸」という言葉ありますし、またキリスト教の「アーメン」など、世界の文化の背景には共通の土台があるのだと類推できます。スリ・スワミジは次のように述べています。
「音楽と神との間には緊密な関係があります。しかし、この関係は、ナーダ(音)に対して、敬意と帰依心を持って接する時に初めて確立されるのです」

スリ・スワミジ初来日コンサート
「天上の音楽 Music for Meditation and Healing音楽×癒し×ヨガ 」
2016年5月4日(祝・水) 開場16:00/開演17:00
前売り¥2,500/当日¥3,000
会場:杉並公会堂 大ホール
チケット取り扱い:チケットぴあ 0570-02-9999 Pコード 287463
お問い合わせ:スワミジ招聘委員会 info@swamiji-music.jp
公式ページ http://swamiji-music.jp/
フェイスブック https://www.facebook.com/swamijiconcert

参照
http://www.dattapeetham.org/
https://en.wikipedia.org/wiki/Avatar

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ダッタートレーヤの来日コンサートC

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2016年5月4日(祝水) インド古典療法音楽演奏会
Sri Ganapati Sachichidananda Swamji 初来日コンサートに向けて(前編)
民族音楽研究演奏家/民族音楽療法士・アーユルヴェーダ音楽療法士:若林忠宏

いつも連載コラム「インド科学音楽~古典音楽」をご愛読頂き、たくさんの方のご評価をありがとうございます。来る5月4日(祝水)、現地インドでカリスマ的な人気と信望を誇るインド古典療法音楽の世界的な演奏者であり療法士である、Sri Ganapati Sachichidananda Swamji 初来日コンサートが行われます。とても貴重な機会ですので、是非ご都合をつけて、生の空気感とともに、その音楽に直に触れる体験を得て頂きたいと思い、推薦文を書かせて頂きます。Sri Ganapati Sachichidananda Swamji氏の療法音楽は、以下に述べます三つのジャンル(の要素)を兼ね添えている、ある意味得難い音楽です。だからこそ、その三つの違いをより深くご認識していただきたいと思うのです。

インド古典音楽の三つのジャンル
「旋法Raga(ラーガ)と拍節法Tala(ターラ)」に基づくインド古典音楽の中だけでも明らかに異なる三っつのジャンルがあります。それは、連載コラムで紹介させて頂いております「Science-Music」と、その他「Performing-Arts」と「Devotional-Music」です。

連載コラムでもお話いたしておりますが、こられは本来はひとつの音楽だった訳です。が、中世に「イスラム宮廷古典(芸術鑑賞)音楽」になった性格上や、近現代に王制が廃止され、宮廷楽師が「Performance-Music」や「Commercial-Music」で生き残らねばならない状況になったことで、演奏家による偏りが顕著になってきてしまった経緯があるのです。もちろん、商業的に成功した演奏家にとっても、「Performance性」を出している場合じゃない程の「重く難解なRaga」も当然あります。
その一方で、今日の南インド古典音楽は、そもそも「Devotional-Music」としての性格がとても強く、「科学音楽」に端を発する「古典音楽」でありながらも、純然たる「宗教音楽」と同じような精神性を持っている音楽もあります。やはりここにも、「Performance性とDevotional性」の割合があり、非常にオーソドックスな演奏スタイルの、良い意味で「伝統の下僕」のような地味な演奏家から、個性を売りにしている派手な演奏家まで様々です。このような要素が混ざり合って、結果として、三つジャンルの境界線は非常に分かりにくくなっています。
また、「宗教音楽」の場合、別な性質があります。それは、「宗教音楽演奏家」であることと「宗教家」であることは本来別次元であるはずなのですが、これもまたその境目は不明瞭であるという側面です。
 
これらの話しは、いずれも「論理的な分別」であり、「三つのジャンルは、いずれも次元が異なる」ということをしっかりと認識することがとても大切なことです。ところが、「音楽は楽しむものだ!理屈じゃない!」と思い込んでいる人はとても多いのではないでしょうか? そのような感覚では、中々理解してもらえない話だろうと思えるのです。

一方、ヨガや瞑想、アーユルヴェーダなどに関心を抱き勉強されている方々は、「医食同源」の感覚も大切にし「美味しいから食べたい」だけではないということを理解されていることと思います。でも、関心を抱き勉強を始める前は如何でしたか?やはり「食事は美味しく楽しく食べなきゃ!」「食べ物は、美味しいか不味いか? 好きか嫌いか?しかあり得ないでしょ!」としか考えなかったのではないでしょうか? 同じように、インド古典音楽も「印象」だけで判断してはならない、ということも、いずれはきっと多くの方々に理解して頂けるはずだと願っているのです。
(つづく)

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2016年5月4日(祝水) インド古典療法音楽演奏会
Sri Ganapati Sachidananda Swamji 初来日コンサートに向けて(中編)
民族音楽研究演奏家/民族音楽療法士・アーユルヴェーダ音楽療法士:若林忠宏

いつも連載コラム「インド科学音楽~古典音楽」をご愛読頂き、たくさんの方の「いいね!」のご評価を頂きありがとうございます。
来る5月4日(祝水)、初来日コンサートが行われます、現地インドでカリスマ的な人気と信望を誇るインド古典療法音楽の世界的な演奏者であり療法士である、Sri Ganapati Sachichidananda Swamji氏の音楽とPerformanceの印象を、一言で言うならば、「非常に純粋で、温かい」と申し上げられます。
しかし、これはあくまでも「印象」なのです。この「印象」を揺らぎない価値にするためには、こう述べる者(この場合私)と、それに同感して下さる方々の双方の理解の基本に、インド古典音楽に対する「論理的な分別」があるか?否か?ということが大切であるとお伝えしたいのです。
 
しばしば喩えに上げていますように、アーユルヴェーダ及び中医・漢方などの東洋医学、日本の精進料理などに於ける「医食同源」の考え方では、「食べ物は、美味しい不味い、好き嫌いではない」だけではないはずです。
中医・漢方弁証論治で言うとこの「証」、アーユルヴェーダでの「Dosha(ドーシャ/質)」によって、「合う食べ物、合わない食べ物」があり、それは食べる人の心身の状態によって大きく変わるということです。しかもそれは季節のみならず時間帯によっても変化します。また、何らかの治療(心身を本来の自然な状態に戻す)の過程によっても変化します。逆に言えば、長年に渡る日常的な「美味しい不味い、好き嫌い」の食事が、そもそも「心身の不健康」の原因なのかも知れません。
ならば、この「医食同源」同様に、私たちの心と体に入って来る「音楽=音の波動、エッセンス」もまた「医音同源」としても考えることを基本にすべきであろう、ということなのです。
 
このような考え方を伝え、気づいて理解してもらうために、私も含め、多くのアーユルヴェーダや東洋医学に関わる人たちは、日々苦悶し、「どうしたらより分かり易く伝えることが出来るだろうか?」と、日々精進しているに違いありません。何故「苦悶」と言うのか? それは、「分かり易い」と「本物」は、本来相反する性質があるからです。
例えば、アーユルヴェーダのインド料理を研究されている方にとって、「天然食材の自然の甘み」を伝えたいと思う時に、「やっぱりこっちが甘くて美味しい」と、砂糖入りを選ばれてしまったり。様々な生薬でもある香辛料の「薬効と味覚の絶妙なバランス」を苦心されているところに「やっぱりカレーは辛いのが一番だよね!」と言われてしまうようなジレンマです。つまり、「医食同源」を食べてくれる人々、「医音同源」を聴いてくれる人々の側にも、理解や努力をお願いしないと、「本物を崩したり、妥協したり」の方向性には限界もあり、やや辛く哀しいものがあるからです。本来、「もっと本物に近づけたい」とさえ思っているのですからなおさらです。
それでも、「医食同源の方が、体に直接的に思われるからまだマシだ」というジェラシーも含めた正直な思いもあります。「医音同源が理解されない孤独感」に至っては、「ゆるキャラブームの渦中の『なまはげ』のような存在?」に思える時さえあります。

ところが、このジレンマのテーマをご理解頂いた上で述べさせて頂けることが、「やはり美味しく食べる(楽しく聴く)ということも大切なのだ」という逆説的な課題です。つまり「プラセボ(暗示的な)」要素も含め、「美味しい(楽しい)」のスウィッチによって、頭の認識とは別に、体(心)のあらゆる機能がより良い状態にスタンバイするからです。
非常に難しい問題です。ですが、実はシンプルな問題でもあります。喩えば、勉強が嫌いで凄く遅れてしまった小学三年生が居たとします。一年生の教科書でやっと。しかも煽てて褒めて盛り上げてやっと。しかし、それを続けていても「二年遅れ」は永遠に解決せず、その「ギャップの隙」を狙って、容赦なく病魔が心や体につけ込んでくる危険があります。確かに、嫌々勉強しても学力にはなりません。ある程度のやる気と「勉強が面白い」という感覚にならないと身に付きません。
その為には、「やる気」と「楽しい」「嬉しい」という感覚を与えなければ始まらないのです。そして、一旦動き出し、当人がその「成長、向上」を自覚出来るようになれば、どんどん良くなって行くという仕組みです。これをも含め、私たちは日々苦悶しながらも、学び精進し、あれこれ工夫して努力している訳です。
 
この意味で、Sri Ganapati Sachichidananda Swamji氏は、心地良い楽しい音楽を伝えることにかなり成功しています。だからこそ、楽しむこととは別なところでも理解を深めて頂きたいと願うのです。
(つづく)

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2016年5月4日(祝水) インド古典療法音楽演奏会
Sri Ganapati Sachichidananda Swamji 初来日コンサートに向けて(後編)
民族音楽研究演奏家/民族音楽療法士・アーユルヴェーダ音楽療法士:若林忠宏

いつも連載コラム「インド科学音楽~古典音楽」をご愛読頂き、たくさんの方の「いいね!」のご評価を頂きありがとうございます。
来る5月4日(祝水)、初来日コンサートが行われます、現地インドでカリスマ的な人気と信望を誇るインド古典療法音楽の世界的な演奏者であり療法士である、Sri Ganapati Sachichidananda Swamji氏の音楽とPerformanceの印象を、一言で言うならば、「非常に純粋で、温かい」と申し上げられます。しかし、ただただ単に「楽しいね!癒されるね!」だけではないところでも理解し評価することも大切とお考え頂きたいのです。そこで「そんな難しいことは」と二の足を踏んでしまうと、一向に「医音同源」の時代は訪れません。
 
ここで、「Science性:Performance性」が、何故「論理的に判断出来るか?」の、幾つかある理由の最も分かり易い一例について端的に申し上げます。
例えば演奏者名とRaga名を知らない音源を「科学音楽」を熟知した人に10秒だけ聴かせるとします。「Performance性」が高い場合、「ああ、これは誰々であろう」「もしくはその弟子だ」が数秒で分かります。「音の癖(個性)」が顕著であるからです。その代わり「何のRagaか?」が数分しないと分からない場合があります。伝統的な手順で示すべきRagaの「Tesittua(個性)」や「Prakriti(本質)」が中々提示されないからです。逆に、「Science性」が高い場合、数秒でRagaが伝わり、流派が分かるのに数分から十数分。演奏者が分かるのにはもっと掛かります。まず「Raga本意」であること。次に「伝統を重んじる」からです。

これは、将棋に喩えて「碁盤上の碁石の有様」を見て、棋士の方が「何手目辺りで、どっちが優勢で、後何手で勝負が付く」が分かるのと同じです。これは「印象」でもなければ「予言」でもなく。極めて「科学的、論理的」な判断でしょう。
逆に「印象主義」は、将棋を全く知らない人が「白黒の並びが美しい」とか、「ルールは知らないけれど、あの緊張感が凄い良いよね!」と言っていることにほぼ同じです。
もちろん、世の中には、逆に「印象、感覚、気分、感情が全て」のものもたくさんあります。「恋愛」などその最たるものでしょう。そこに「論理」など持ち出す輩は「馬に蹴られろ」と言いたいほど野暮な話です。音楽も、ポップスやイージーリスニングに論理を求める必要は全くありません。意外に西洋クラッシック音楽も、その名も「印象派」以降は、論理は二の次かほとんど無用です。しかし、インド古典音楽は違うのです。

Sri Ganapati Sachichidananda Swamji氏の音楽を論理的に理解する上で、大切なことは、Sri G.S.Swamiji氏は、第一線のプロ・ミュージシャンであり、その音楽は、紛れもなく「科学音楽~古典音楽」であるとともに、優秀な「Performing-Art」であり、かなり深い「Devotional-Music」である、ということです。
加えて、或る種の「宗教家」的な存在感とカリスマ性も兼ね添えています。言い換えれば、そのような存在は、トップクラスでは数人しか居ない貴重な存在ではあるはずということです。 

もしかしたら、「印象派の古典音楽マニア」さんにに言わせると、「つまらない、感動しない」とか、「電子楽器を使うこと自体古典では無い」などなどとおっしゃるかも知れません。しかし、「印象派」が「つまらない」と言うということは、「Performance性だけではない」ということを意味している訳なのです。
実は、私がSitaRamaさんでお世話になっている「オリジナル・ヨガ音楽(受注製作)」の音楽もまた、「つまらない、感動しない」という評価を覚悟で作っているものなのです。つまり「Performance性」を限りなく減らすべきだ、と考えるからです。

逆に、Sri G.S.Swamiji氏の演奏の中には、「Perfomance性」もありますから、どうぞ演奏会では、その演奏やRagaに大いに恋をして頂きたいとも思います。その方がプラセボも手伝って、心と体により効果も得られるでしょうし、何よりも、演奏者のノリが向上すれば、必然的にRagaの純度も高まります。もちろん、聴衆がよりノルことで「自己顕示欲がより向上する」タイプの演奏家も居ますが、その点で氏は、とても純粋なミュージシャンであると(印象ですが)思います。

また、Sri G.S.Swamiji氏のKey-Boadの腕前はかなりのもので、音程を強烈にグリサンドするベントの技法も駆使して、完璧な南インド古典音楽奏法を表現しています。さらに、電子楽器の起用に関して言えば、現代人の感性には、癖の強い伝統民族楽器よりも自然に入り込め療法効果が高いのではないか、と考えられます。Sri G.S.Swamiji氏のステージにもゲスト出演したスライドギターで古典音楽を演奏するPandit Vishwa Mohan Bhat氏(北インド古典音楽)が世界的に受け入れられたのも、Sri G.S.Swamiji氏同様南インド古典音楽のエレキ・マンドリン奏者で45歳の若さで早世しましたが、天才少年としてデビュー(7歳)したU.Srinivas氏も同様に世界的に高い評価を得たのも、洋楽器・電子楽器で高い水準の古典音楽を演奏したからとも考えられます。そもそも南インド古典音楽は、19世紀から西洋Violinを主要な楽器としていますから、もは洋楽器起用は伝統的とさえ言えるのです。

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