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インド音楽

76、新旧の狭間の弦楽器:Sur-Bahar

18世紀前半にローヒルカンドのアフガン楽士が新楽器サロードを発明して「ドゥルパド系器楽」を演奏し始めてから100年遅れてシタールが宮廷古典音楽の楽壇に登ります。それから程なくして、ターンセンの娘と婿の系譜「セニ・ヴィーンカル(ヴィーナ奏者派」の19世紀前半の家元にウムラオ・カーンという巨匠が現れました。

その頃のヴィーンカルは、本家、分家共、長男はヴィーナ専門かヴーナを主にシタールを弾き、次男以降もそれに倣うか、シタールを専門にするなど、新旧弦楽器が入り乱れていました。
ヴィーナとドゥルパドの伝統は最重要課題であり最優先されるべきでしたが、シタールの人気は19世前半に急激に沸騰していました。何しろヴィーナの半分以下の苦労で弾けてしまうので、超絶技巧などで名を売る若手が続出し、宮廷楽師長の家系もうかうかしては居られない状況であったのです。

流派の概念とその仕組みは、戦後迄の日本の伝統邦楽の流派と非常に似通っています。中国古典音楽やシルクロード、ペルシア、アラビヤ、トルコ古典音楽、そして南インド古典音楽でも「流派」の概念が殆ど存在せず、日本の邦楽で言うところの師弟関係の「筋」しか存在しないのです。大まかな地域をまとめて「流派」的な感覚で言われることがありますが、複数の「筋」を地域と芸風で束ねたに過ぎず、その中には「家元」も「継承制度」も存在しません。
このことを考えると、世界的にみて「流派の概念」が発達したのは北インドと日本だけである、とも言えるのです。

その「流派」では、まず「血縁の家元の継承」が最重要課題です。男子に恵まれなかった場合は、婿養子を取ります。やむを得ない場合は、養子となり、血縁は途絶えることはありますが「家系」は存続するのです。これも日本の場合と全く同じです。そもそも「流派」はペルシャ語の「家」を意味する「ガラナ(Gharana)」なのです。
そして、このガラナ(流派)を支えるのが弟子の勤めで、ある意味苛酷な側面があります。

演奏家は、大概10代後半で頭角を現し楽壇で話題になって、20代で第一線の末席に加わり、30代で弟子を取り始め、準家元となり、先代が没して家元を継ぎます。
しかし、10代20代は修行と演奏で極めて多忙でありながらも収入が少なく、修行のための費用は家元(親)ふが出してくれますが、嫁さんを貰い子供を儲け、その分まで家元(親)に甘えるのは心苦しいので、当時のインド人の平均より遥かに婚期が遅れ、子宝に恵まれるのも遅くなります。恐らく平均で30代後半でしょうか。
なので、息子が跡継ぎとして通用する頃には、50代後半から60代になってしまい、当時のインド人の平均寿命を越えてしまうのです。もちろんその問題を考慮して本家の支援で早めに子を儲けることもありますが。

最悪の場合、息子が第一線で活躍する前に家元が没してしまうと、その流派は途絶えてしまいます。有名無実の若い家元では弟子が集まらないからです。そこで、(前)家元の男兄弟と弟子の存在が重要になるのです。もちろん家元に男兄弟が居なければ、弟子が流派を背負う可能性が増すのです。

30代で弟子を取り始め、優秀な弟子に恵まれれば、その弟子は10年で一人前になります。実子跡継より10年早く「控えの後継者」が出来る訳です。そこで家元が没してしまった場合は、それこそどれほど歳が違おうとも、家元の遺児の娘と婚姻しその弟子が流派を継ぐ訳です。
なので私の師匠の家系にも12歳13歳で嫁いだという女性はざらに居ます。

逆に家元が長生きして実子が早く一人前になれば、家元の男兄弟や弟子は一生家元に成るチャンスはありません。故に、何らかのトラブルがあって、分派として飛び出すこともありますが、大概は家族同様に、その弟子の家族、親戚迄も流派が養う保証が確立されてこのシステムが長く維持されて来たのです。

19世紀の前半のウムラオ・カーンは、そのようなインド古典音楽界に於いて、際めて恵まれた人であったと言えます。
と言うのも、息子二人も後に音楽史に名高い名演奏家になりましたし、その上に甲乙付け難い「一番弟子」が二人も得られてしまったのです。
一方の弟子の名はクトゥブッラー・カーンで、他方はグーラム・ムハンマド・カーンです。息子二人と一番弟子の二人は当然「ルードラ・ヴィーナ」の名手に育ちました。
ウムラオ・カーンのような由緒或る流派の家元は、少年時代から内弟子的に育てる弟子の他に、数レッスン受けて「セニ派(ターンセン派)」のお墨付きを得ようとする様々な流派の家元クラスの名人が教えを乞いに来ます。
ウムラオ・カーンの孫のワズィール・カーンは北インド・イスラム宮廷古典音楽が1945年の共和国独立によって幕を閉じる末期の最高峰の巨匠ですが、彼の幼少期に手ほどきをしたのもウムラオ・カーンでした。ワズィール・カーンは、サロードの項で述べましたラヴィ・シャンカル氏の師匠の師匠でもあります。

このようなあまりにも名誉ある家柄で、あまりにも充実した状況であったことは、逆に師ウムラオ・カーンにとってみても、二人の一番弟子にとってみても、別な厳しさが意味されました。それは、「如何に個性を際立たせるか?」というテーマでした。基本保守派中の保守派ですから、奇抜なことで名を売る訳には行きません。

そこで師:ウムラオ・カーンが考え出したのが、当時のシタールより小振りで高音に調弦し、速い軽快な演奏で魅了するシタールと、逆に当時のシタールの1.5倍程大きく、速い動きは柄に合いませんが完璧なドゥルパド音楽を表現出来る楽器です。前者は「スンダリ(Sundari/美しい)」と名付けられ、後者は「スール・バハール(Sur-Bahar/春の音)」と名付けられ、それぞれ二人の一番弟子クトゥブッラー・カーンとグーラム・ムハンマド・カーンの人柄、持ち味に合わせた創作であったと言われています。

(文章:若林 忠宏

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