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インド音楽

88、ヒンドゥー献身歌 Bhajanの現代と未来

写真は、インドの首都デリーの「ビルラ寺院」に於けるヒンドゥー讃歌「Bhajan」の演奏風景です。「ビルラ」は、「タタ、リライアンス」と並ぶ「インド三巨大財閥」のひとつで、タタ財閥は、7世紀にアラブ・イスラームがペルシアを併合した際、西インドに逃れて来たゾロアスター教徒(パルスィー)が起源ですが、ビルラは、中世にインドのほぼ全域がイスラム帝国に支配された際も、ヒンドゥー藩王国として存在し続けた西インド(今日のラージャスターン地方)の、文武両道に長けたマールワール族の財団です。

マハトマ・ガンディーを支援したことでも知られますが、私にとって馴染み深いのは、このヒンドゥー寺院の他に、インドで最も世話になり、最も不安を味合わされた国産車「アンバサダー」の製造メーカー「ヒンドスタン・モータース」の創始者であることです。

写真のこの時私は,今でも我ながら吹き出してしまう失態を演じました。

まず、写真からだけでも様々なことが確認出来ます。
第一に、主唱者は、近代的な鍵盤楽器「ハルモニヤム」を弾き語りしています。しかし、この習慣は、かれこれ80年90年経ていますから、最早「モダン」とは言えないかも知れません。
第二に、主唱者は、聴衆の方に向かって歌っています。実は、主唱者の背後に「神棚」があるのですが、主唱者は「神棚」に背を向けている訳です。
第三に、手前左に座っているのが、伴奏太鼓タブラの演奏者ですが、彼は主唱者より「一段低い位置」を強いられただけでなく、主唱者に対しても、「神棚」に対しても聴衆に対しても真横を向いて座って演奏しています。これはインド以外の国の人間にとっては極めて奇異な様子に違いありません。

太鼓奏者が、このような身分階級のしきたりを厳しく受けるのは、「獣皮に触る」からですが、私のタブラの師匠の中には、バラモンなのにタブラ奏者という人も居ます。勿論それは例外中の例外ですが、完全に許されないことでもないのです。しかし、普通は、長い歴史の習慣上、写真のような形を取るのが一般的なのです。

「後になっては笑える」私の恥ずかしい失態とは、
一曲聴き終わったところで、「いいぞ!」の掛け声と共に、拍手をしてしまったことです。
聴衆は、全員私を驚いた表情で見て、そして、「くすくす」と笑っていました。
「ああ、日本人か!」「知らないんだから仕方が無いね」だったのでしょう。

その直後、誰に教わるともなく、私は事態を理解しました。
「Bhajan」は、神々への讃歌の一形態ですから、「神々に向かって歌う」のであり、「聴衆」は、実は「聴衆」ということでもなく、主唱者の歌を聴くといく形で「業」を行っている「祈祷者」なのです。

そして、もし「拍手をする者が居るとしたら」「それは神々に他ならない」ということなのです。

これは世界各国の「国家斉唱」と似ています。全員がしっかり声を出して歌わずとも、その場で、直立し、真摯に経験な心持ちでたたずむだけで、充分参加していることになります。
なので、「Bhajan」の演奏も、アメリカのゴスペルのように一緒に歌わずとも、「祈祷に参加している」ということになるのです。

尤も、インドの地方の祭り歌では、ゴスペル同様にリーダーと村人の「Call & Responce」の掛け合いが繰り広げられる場合もあります。また、「Bhajan」同様の「神々への讃歌」の一形態である「Kirtan」は、主唱者の他に、伴唱者が数名ステージに上がって掛け合いや合唱をします。が、やはり聴衆は歌いません。

これは、日本の仏教儀礼と似ています。供養等で僧侶に来て貰ってお経を唱えて貰う時、いい加減なお坊さんよりも親族身内の素人(しかsぢ熱心な信者)の方が「読経」が上手くても、そこでしゃしゃり出ることはないでしょう。

なので「Bhajan」では、聴衆は歌わないし、掛け声も掛けないし、拍手もしないのです。

では主唱者は、何故「神棚」に背を向けるのか? 「神々」に対して歌うのならば、聴衆に背を向けて「神棚」に向かって鵜経つべきでしょう。

これがインド文化の面白いところで、「相反する異なる理由(道理)」が存在すると、矛盾おかまい無しに習合させてしまうのです。
主唱者が「神棚」偽を向けて聴衆に向かって歌うのは、「Bhajan」の別な性格「口説/説教節」の所為です。

つまり、「Bhajan」は、まだ入信していない庶民や、入信したての信者。長年の信者でも日々の社会的なしがらみに心を疲れさせ、初心に返りたいなどの時にうってつけの、「分かり易く信仰のあるべき姿や、神々の恩恵について説く」歌なのです。

なので、恐らく「Bhajan」の前には、「神棚」に向かっての「祈祷歌」や「讃歌」も歌われたのでしょう。その後、場を清め、神々の許しを得て、聴衆(祈祷参加者)の方を向いて「Bhajan」や「Kirtan」が歌われる訳です。

広義の意味では「Bhajanの一種」とも言えなくもないユニークなジャンルが、ベンガル地方独特の「音楽宗教」とも言える「Baul」の歌と演奏です。

「Baul」のルーツは、西インド~パキスタンの中世イスラム系神秘主義の一派で、系列の派では、「Qawwali」などの「大合唱団」が知られるように、数或る神秘主義(Sufiと総称される)の中でも音曲をむしろ重用する宗派です。
それが、ベンガル地方に伝わった際に、「Kirtan」や「Bhjan」などの影響も受けて、むしろ「歌と演奏」が「主たる業」となったのです。

教義は極めてユニークで、「一神教で、偶像崇拝は認めないが、輪廻転生を信じる」もので、「財産の所有」を厳しく禁じ、所謂「社会的行為」を否定します。しかし、野に下って庶民にまみれることを重要と考えますから「在野の出家者」のような不思議な存在です。

更に、「財産所有の禁止」の他に、それと同源同系の「契約の禁止」がありますから、「結婚」を認めません。しかし「神が男女を作りたもうたならば、男女で暮らし、子を儲けるべきである」となって、家族は存在します。しかし、基本的に「家を持つ」ことは「契約」が絡みますし「財産」ですから、ホームレスであるべきとなります。

そして、最も重要な「業」であると共に、最も「不可解な」点が、その歌こそは「Baulの教えを広める為の宣教歌」なのですが、殆どの場合、その歌詞は普通に聞こえてしまい、その真の意味は庶民には理解されていないのです。

私が20歳代から歌って来た曲は、古典音楽のラーガ(旋法)を用いていたので、「良い教材だ」という意味でレパートリーに加えたものでしたが、後に「Baulの教祖Lalon Shah Faqir」の作品でした。そう教われば、確かに3~4番目の歌詞に「Faqir Lalon」と歌い込まれています。この雅号を歌詞に埋め込むのも、「Bhajan」と同じ「しきたり」ですが、非宗教的なアラブ式叙情詩「Ghazal」も同じなので、時代の慣習と思われます。

ところが、最初のベンガル人出稼ぎ労働者の「歌詞の師匠」に歌詞を聞き取ってもらい、私の発音をチェックして貰ってライブで五六年歌った頃、ライブにベンガル人留学生が来て「凄い曲を知っているんだね!驚いた!」「しかし、勿論歌の意味は知っているんだろう?」と語って来ましたので、最初の師匠に教わった通りに言えば、大層呆れられてしまいました。

私は、単語の訳のままだと思っていたのです。要約すると、「鳥籠の中の小鳥はどのように出入りするのだろう?と思っていたら或る日小鳥は逃げてしまい二度と返って来なかった、と修行僧ラロンは何ながら歌うのであった」
確かに意味が分かる様で分からないとは思っていました。

留学生は、呆れながらも「駕篭=人間の体」「小鳥=魂/命」「逃げた=魂が肉体を離れた」であり、「鳥籠やその中の巣作りに励むj人間は多いが、誰しもいずれは死んでしまうのだ」「重要なのは、魂の品格ではなかろうか」というテーマだというのです。しかし初めの師匠はそんなコメントはくれませんでした。即ち、「布教活動の歌」で在ると言っても、効いている人の殆どがその「裏の意味/真の意味」を理解していない可能性が高いのです。

別な歌では「何処に行ったのチャイタニア!私は貴方無しでは生きていられない」というありきたりの恋歌としか聴かれないだろうというものもあります。「Chaitaniya」は、ベンガルでは珍しい名前ではありませんが、中世に「Kirtan」を創始した聖者の名でもあり、「純粋意識」のことでもあります。そこで分かるように、「「Baul」は、「Sufi」と「Hindu」の共通項の上に成り立っているとも言えますし、「Sufiの教えをHInduで翻訳した」とも言えます。

しかし、やはり庶民の殆どはその「真意」を理解していないのです。「不思議」と言えば「不思議」、「奥義」と言えば「奥義」ですが、少なくとも「合理的、結果論、現実論」とは全く逆の価値観です。

「Bhajan」は、「Baul」ほどではありませんが、神々の名をそのまま歌わない「諱」が特徴ですから、それに関しては事前に知識が不可欠です。また、その「諱」に使われる「別名」にはエピソードが必ずついていますから、それも知らないと全体的には通じていないということになります。

最後までご高読下さりありがとうございます。

You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。

Hindu Chant講座Vol.1

Hindu Chant講座Vol.2

Hindu Chant講座Vol.3

Hindu Chant講座Vol.4

Vedic Chant入門講座(基本理解編)

Ayurveda音楽療法紹介(基礎理解編)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編1)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編2)

アーユルヴェーダ音楽療法 (実践編3)

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(文章:若林 忠宏

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