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「インドで最も古い声楽様式」は本当か?
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伝統の継承「Parampara」は、インド科学音楽のみならず、ヴェーダの叡智に根ざす様々な科学・文化・芸術にとって、最も大切なものであることは言うまでもないことです。
そもそも、古今東西全ての人間にとって、「自分が属する地域(邦/Des)の伝統文化」に根を生やすことは、「生きる上で最も重要な糧」であることは言うまでもありません。
それに加えて、昔から人間の中には、(たとえばマルコポーロなど)「強く引かれる外国(異邦/Bides)の文化」を徹底的に探求せんとする強い熱望を抱く人が居ましたが、今日のように前者(自国文化に根ざす)をないがしろにして、「国際人」気取りで外国文化没頭に逃避・依存しているような人間は、昔は何処に行っても相手にされなかったものです。
「自国文化に根ざす」こと、
それは枝葉は瑞々しく、太い幹の中も健康でたくましい大樹のひとつの枝葉に生きる意識と感覚の人間、地に足を着け、枝葉の回りの出来事に反応した気分・感情に支配されることはない「あるべき姿」の人間にとって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり「不可欠」でありながら「それだけで充分」の唯一のアイデンティティーでもあるのです。
しかし、近現代の人間の「殆ど」と最早言うべきかも知れないほど多くの人々は、「枝葉に執着・依存」し、外界の条件・影響・日々の出来事などに支配され、それに反応した気分・感情に支配されています。「自国/外国」にかかわらず、そのような感覚の人間に「伝統」というものが果たして正しく理解されることはあるでしょうか?
ところが、インドのみならず、世界的な奇妙な現象で、この10年の間に、「(自国の)古い文化のルネサンス」のようなことが多く興っているのです。そして、外国文化に憧れ熱中する人々もまた、現地のその風潮を「最先端」と感じて追従する傾向にあります。
これは、近年一層顕著になった「(偏った・排他的な)民族主義」の隆盛と、その根底にある「強烈なアイデンティティー願望(承認・肯定願望)」と無縁ではないでしょう。
例えば、今回の表題とテーマである、現存するインド古典声楽の中で、「最も古い」とされる声楽様式「Dhrupad(ドゥルパド)」は、私が現地修行をしていた1980年代には、風前の灯火だったのが、ここ数年で欧米・日本人でも演っていると自称する人が現れ、当然のようにインド人演唱(演奏)者も増えて来ました。
しかし、かつて英国人宣教師が世界に初めてインド音楽を大いなる敬意を持って紹介した文献などで「Dhrupadは、牛三頭を引っ張れるような男に歌わせろ」という有名文句を紹介されたように、肺活量は勿論、体力・精神力がかなり求められる難解かつ重厚な声楽様式だったのです。ところが、近年のインド人演唱(演奏)者に至っては、「猫三匹も抱き上げられない上に、難病の世話など『とんでもない!』んじゃないか?」と思うほどの人物が、マイクに頼ってブレス音さえ聴こえさせて演っている、という有り様です。「腹式呼吸」が出来ない声楽家などあり得ませんし、DhrupadどころかKhayal、Thumriは勿論、インド映画主題歌さえ歌うことが出来ない筈です。しかし「出来ている」と思い込む。
かく言う私は、器楽では、SitarでもSarodでも、当然「Dhrupad-Ank」を演らねばならない流派の一員で。同じ師匠が声楽家でもあったので「Khayal」も専門領域であり、ステージで披露することもあります。
しかし「Dhrupad」は、舞台修行の段階であると師が認めてくれていても、「まだまだとても無理」と思うほど、修行が足りません。それでも本気で練習していた頃は、八畳の教室の窓ガラスがビリビリと音を立て、吊るしてある弦楽器が勝手に共鳴してなるようなことが頻繁にありました。
それが近年インド内外で、まるで小唄をやっと歌えるような発声で、(実際小唄は表現が難しいですが)義太夫を吟ずる。しかも免許皆伝であるかのように人前で、がはびこっていますから驚かされます。
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勿論、そのような「思い上がり」に対しては、古代からインドでも戒めが求められた。と言うことは、何時の時代にも存在したのですが................................。
だから「Narada-Muniの逸話」がある。
「人間で初めて神(Saraswati女神)に師事した」ことで奢ったNaradaが戒められたという逸話です。 日本でも室町時代の雅楽家の残した言葉に「最近の若い演奏者には目を覆うものがある」があると言われます。
しかし、今日に至っての極めて大きく深刻な問題は、インド内外で「苦言を言う」者は愚か「眉をひそめる」者さえも、殆ど居ない状態であることです。完全に「やったもん勝ち」状態です。「バチが当たる」ということさえないのでしょう。
尤も、洋の東西を問わず「バチが当たる」と言われ続けて来ながら、実際「大して当たらない」ことの方が圧倒的に多く。「神頼みしたところで叶えられないし」「神をも恐れぬ輩の方が一生笑って暮らしていやがる」というような状態を百年前から、「どうもおかしいぞ」と気付き始め、とうとうこの10年ほどで、「神は信じない」「アテにしない」「当然『バチ』も当たらない」と考える気運が主流になって来たということなのでしょう。
しかし、もしこれが「自分自身の健康」「自分自身の心と体の正常化」の問題に於ける「健康食品や薬」の問題だとしたら。「より正しい食事や薬」の「より正しい食べ方や処方」を「いい加減で良い」とは思わない筈です。ならば、何故? 自らが熱心に修行し、学び、人に紹介せんと情熱を注ぐ「音楽芸術」に関しても「より本物をより正しく」とは思わないのか?
不思議でなりません。
まず、「Dhrupad」に限らず、インド古典音楽の情報は、ネット情報の殆どが嘘か、幼稚で安直で短絡的な理解や、その引用に終始しており、文献に至っても、最低でも十数冊、しかもより古い文献を検証し、比較して「矛盾する部分に隠された事実(つまり書かれてはいない)」を推測しない限りには、「真実・本物」には近づくことさえも出来ません。
具体的に「Dhrupad」は、「現存する最古の声楽様式」ではありますが、「インドで最も古い様式」ではとんでもないのです。むしろ、並の演唱(演奏)者よりは、Dhrupadから派生したとも言える「18世紀の新様式:Kahyal(カヤール)」の心在る流派の心ある演唱(演奏)者の方が遥かに「伝統的」であり、重厚で格式高く、本物に近いと言える例が幾らでもあります。
加えて、現存するDhrupadのみならず、既に16世紀に「完成した」とされる段階で、かなりにアヴァンギャルドな音楽だったのです。
「伝統とその継承:Parampara」には、「師弟制度と流派」が不可欠です。しかし、それ故の弊害・欠点が、「師匠が黒と言えば白も黒」な「妄信的」な姿が生み出す「疑わないことと思考しないこと」という、安直で短絡的で幼稚な「依存状態」であると言えます。
その結果「師匠が最高」「師匠の流派が最高」と、宣伝員のようなことを自らで義務付けているように見えて、実際は、「地に足も着いていなければ、幹の在り処さえ分からない枝葉人間」が、強い「自己承認願望」の為の「アイデンティティー」に利用しているに過ぎない様子も多く見られます。なので、少しでも「けなされる」と内心孟列に憤慨・拒否反応・反発心が生まれる。
「お前だって似たようなもんじゃないか!」と良く言われますが、おそらくインド人音楽家の数倍は勉強しています。事実、今や巨匠の年齢になったとある有名流派の演奏家が来日した際に色々質問しましたら(互いに20歳代でした)、殆ど返答出来ない。遂に彼はキレて、「お前にこれが弾けるか!」と、父親のフレイズ丸コピーのようなことを弾いてみせて「音楽は理屈じゃない!腕だ!」の捨て台詞を吐いていました。
流石にひとつ「分かってらっしゃる」と感心したのが、「音楽は理屈じゃない!『心』だ!」とは言わなかったところです。何しろ彼の演奏は、何一つ「心に届かない、残らない」のですから。尤も、この問題は、彼の技量・才能・精神性だけの問題ではなく、インド(日本の伝統邦楽もしかりですが)の徒弟制度・流派制度の「やむない弊害」の所為でもあります。これについてはまたいずれ。
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Dhrupadは、かなりアヴァンギャルドだった
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Dhrupadは、サンスクリットを勉強する方なら良くご存知の、紀元前数百年~千年前から、北インドでも16世紀頃まで、南インドでは18世紀まで大流行した韻文形式「Prabandha」の「末期派生型から発した様式の簡略型声楽様式」です。
「派生型から派生した簡略型」。つまり、今日では誰が聞いても「重厚で難解」な声楽ですが、発生当時の主流の声楽から比べれば、極めて安直な軽い形式だったのです。
このことを理解をせずに「歌う」ことは勿論「分かった」も「知っている」も言えないはずです。
などと言うと、「枝派感覚」の人は「なら、お前は知っている、分かっていると言えるのか!」と返して来ます。「枝葉感覚と幹・根っ子感覚」の決定的な違いは、「論理性である」を言う以前に「分類力の有無」にあると言い尽くせます。
そうお考えになって、ヴェーダ科学に基づく様々な叡智について見回して見て下されば、果てはインドに無数な種類がある、所謂「カレー料理」に至るまで、全てに共通して「分類」が極めて重要であることがわかる筈です。
とにかく、ヴェーダ関連、ヨガ関連、アーユルヴェーダ関連には、「専門用語」が多くありますが、ほとんど全てが、「分類」の為に生じた「分別・区別用語」であるとさえ言えます。
例えば、「カレー料理」に関して言えば、大分類は「宮廷料理系」と「家庭料理系」に二分出来、それらは、「インド各地の準菜食カレー」「沿岸部のペスクタリアン(魚介OK)・カレー」「僧侶階級の純(もしくはそれに近い)菜食カレー」と「アフガン民族がもたらしたカレー料理」の四種に分類出来ます。(と説く料理本も意外にないのですが)
この「分類力」と「分類こそが論理性の第一歩」であることの価値が分かる人は、まず「知識であろうと道具であろうと玩具であろうと」、それを整理整頓する為に必要な「引き出し」の数から思考と分類の準備を始めます。
ところが、「分からない人」は、「目の前にあるもの」を取りあえず、目の前に在る引き出しにしまい込みます。
不思議と言うか、皮肉と言うか、個人的な思考性が、「枝葉」の人でも、コンビニやホームセンターに勤めた場合、極めて「論理的な分類」を強いられます。それは「扱う商品」が決まっていたならば、「売り切れ」たとしても、「その商品のスペースは残されている」という習慣・システムです。「只今品切れ中」の札が陣取って。
しかし、そのような習慣があるにも関わらず、実生活・プライベートでは、かつて1980年代に流行した「路上で勝手に不要物を売る→神社などでのフリーマーケット」のように、広げた布に適当に並べ、売れてスペースが出来れば、鞄から他の物を取り出して置く。というような感覚なのです。全て「情報」も「理解」もこの類い。
その感覚の中では、「Dhrupadのルーツ」などを知る必要は無いのでしょう。しかし、これもカレーに喩えれば、「師匠から出来上がったカレーを貰って、日々小出しに披露している」に過ぎず、自分自身で、「具材とスパイス」から料理出来るとは、到底思えません。
ルーツから理解していれば、「具材」や「スパイス」の配分や、万が一の代用も考えつく筈ですが、レトルトの切り売りでは、それは不可能です。
「Dhrupadを分かる・知る」には、そもそも5世紀以前の「Prabandha」から、どのように「Dhruva-Gana」と「Dhruva-Pada」(いずれもDhrupadの前矩形)が生まれたか? を注視せねばなりません。
その結果、既に5世紀~11世紀の段階で、「Prabandha」が時代と用途、つまり「縦軸と横軸」でかなりのヴァリエイションが生じていたことが分かります。
イスラム文化がかつて無いほど強烈に導入された10世紀の段階で、それまでの主流13種のPrabandhaの内の「最も簡潔(簡単?)な四種」ばかりが演じられるようになっていました。 そして、その内の一種が、取り立てて大流行していましたが、ほどなく、その「重要な6要素」を具現する「4つの楽章」の或る様式の7つのスタイルの内のひとつばかりが頻繁に演奏されるようになったのです。
このこと自体は、何度か説きましたように「宇宙の摂理=自然の摂理=生命体の基本構造」と何ら矛盾しません。つまり「拡散・拡大と収束・収斂はくり返されバランスを保つ」ということです。
Prabhandaは、紀元前のヴェーダ科学音楽の実践であった、「歌曲:Gita」が、拡大して生まれた「収束・収斂」の結果だったのです。 しかし、その後また「拡散・発展」を続け、それぞれに数種のスタイルを持つ、13種(→総数は、100種近い)に膨れ上がり、現実世界では、もっぱら数種ばかりとなって、或る種その他は「自然淘汰」された訳です。
今回作成した図版で、流儀や様式が「拡大:増える」時代と、「収束:減る」時代が、百年二百年単位で交互に現れることや、消失した流儀や様式が如何に多いかが見て取れると思います。
そして、「或る種のPrabandha」つまり、「全体の百分の一」に過ぎない声楽様式をまた、更に「簡潔」にしたのが、「Dhruba-Gana」であり、それを、より実践的に簡潔にしたものが「Dhruva-Pada/Dhrupad」だったのです。
ところが、この「PrabandhaからDhruva-Gana」が生じる、10世紀から16世紀、迄の長い期間には、様々な「舞台」つまり、「用途の違うDhruva-Gana」が生じていたのですが、このことを理解している演唱(演奏)者は、私の知る限りでは皆無に近いと思われます。
ひとつは、カシミール、ヴィジャヤナガル、ヴリンダーヴァン等に於ける「科学音楽Prabandha」を基本とする「ヴェーダ科学音楽系Dhruva-Gana」であり、それと近似(しかも地域がほぼ重なる)ですが、目的と意識が異なる「ヒンドゥー寺院のDhruva-Gana」があり、後者の中の巫女(Deva-Dasi)の舞踊のためのDhurva-Ganaと近似しますが、より大きい意図(ヒンドゥー布教の為の)の「舞台芸術に於けるDhruva-Gana」があり、これを「為政者の宗教への布教」とした場合の「庶民の宗教運動(KirtanやBhajanなどのBakiti:献身歌)から生まれらDhruva-Gana」そして、巷でこれらが流行していることからの求めで開発せざるを得なかった「花柳界のDhruva-Gana」。更に、それらの師匠達である「宮廷楽師のDhruva-Gana」の最低6種の「明らかに異なる精神性と技法」のDhruva-Ganaを理解しなくてはなりません。
つまり「Dhrupadを知っている」と言う限りには、前述の「音楽的異なりの(最低でも)13種」の他に、上記の「舞台(精神性)の異なりの最低6種」の計、19種を「知っている」ことが不可欠なのです。
しかし、前述しましたように、「枝葉感覚」の人には、このことの重要性も価値も、また、「知っている」ということの概念も理解出来ないかも知れません。実際、13種の幾つかは、「総論」だけで、「実例」は、全く情報がないものがあります。しかし「引き出し」は、用意されているべきです。確かに、インド古典音楽は、「理論は極めて論理的であるが、実践は極めて合理的・現実的」であります。だからと言って、前者を割愛してしまうことは、「幹からの滋養」を断つ、極めて愚かなことであることは言う迄もありませんし、そもそも「インドの叡智」にもとるものです。
より詳しい説明と「音楽的な異なり」については、いずれ「その2」でお話しますが、上記の異なりを「Dhali(芸系)」とするならば、この後、この「6種のDhali」の幾つかから、或る種の「ステイタス」が主導し、「芸風が二の次に追い掛けた」感じの「楽派:Vani」が生まれます。定説では、Vaniは四種とされますが、これも誤りです。
そして、「次世代新声楽様式:Khayal」が台頭し、Dhrupadが、或る意味「権威的・象徴的」な存在となった(一部のKhayal流派と器楽流派にはコアな部分が継承されましたが)時代以降、或る意味「生き残り」を掛けた創意工夫と、人脈、言わば政治も絡んで生まれたのが、「次世代音楽の流派の観念:Gharana」に準じた、「Dhrupadの新興Gharana」で、最終的には、1947年の「宮廷音楽消滅」迄の間に、8種+6亜流の14流派がDhrupadに生じました。 (その2)につづく
写真のインドEMI盤LPジャケットは、Dagar-Senior-Bros.の名盤です。Dagar一族のAllah Bande Khan が宮廷音楽最後の時代の巨匠で、その息子Nasiruddin Khanも宮廷と共和国初期に名声を博しました。 Nasiruddin には、四人の息子が居て、いずれも兄弟のデュオで人気を呼びました。
上の兄弟(Senior-Bros)と下の兄弟(Young-Bros)には、取り立てて大きな条件の差があったとは思えません。強いて言えば、幼少期に祖父の姿を心に焼き付けたとは言っても、すでに80歳近い高齢でした。しかし、下の兄弟は、Allah Bande Khan没後に生まれています。恐らく、41歳で急逝した父:Nasiruddin Khanの教えを幼少とは言え十分に得ることが出来た上の兄弟と、二三歳の頃に父を亡くした下の兄弟とでは、結果大きな違いが出てしまったようです。
世界中のファンが、二つのデュオを比べざるを得なくなり、残念ながら「力と魅力が半減した」と上兄弟の一方の早世を惜しみ、嘆きました。
それでもご紹介した、解説も加わった動画
https://youtu.be/XyuFtVOiPB0
では、下の兄弟の往年の素晴らしい歌声が聞こえます。
その他にも、いくつか動画がアップされていますが、著作権問題が無難そうなものが少ない中では、秀作に思います。
尤も、ご紹介の動画にも問題があることが分かりましたら、申し訳ございません。
1950年代から,戦後共和制の新しい時代にもDhrupadが行き続ける可能性を多くの人々に提示した四兄弟ですが、今日の後継者は、末っ子の息子一人のみ。申し訳ないですが、既に中堅を超えた年齢ながら、父親の十分の一ほどの力もありません。これは、分家Ziauddin家の後継(Vina専業で名声を得たものが多い)でも同じことが言えます。
何時も、最後までご高読を誠にありがとうございます。
現在「インド音楽旋法ラーガ・アンケート」を実施致しております。
是非、奮ってご参加下さいますよう。宜しくお願いいたします。
https://youtu.be/wWmYiPbgCzg
11月も、インド楽器とVedic-Chant、アーユルヴェーダ音楽療法の「無料体験講座」を行っています。詳しくは「若林忠宏・民族音楽教室」のFacebook-Page「Zindagi-e-Mosiqui」か、若林のTime-Lineにメッセージでお尋ね下さい。 九州に音楽仲間さんが居らっしゃる方は是非、ご周知下さると幸いです。
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You-Tubeに関連作品を幾つかアップしております。
是非ご参考にして下さいませ。
「いいね!」「チャンネル登録」などの応援を頂けましたら誠に幸いです。
(文章:若林 忠宏)
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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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