スピリチュアルインド雑貨SitaRama

雑記帳

喜びのあるところ

幸せというその甘さを味わうことは、日々の生活の中で誰もが願ってやまないことであり、人生という大きな枠の中でも至福を得るべく人々は探求を続けています。しかし、多くの人々が名前や形という永遠で、そして不変ではないものに幸せを求め、焦り、そして苛立ち、疑いと矛盾に苛まれながらその旅路を歩んでいると、ある時言われたことがありました。その道はとても苦しいものです。
インドのスピリチュアルな教えの中に「サット・チット・アーナンダ」と言う言葉があります。サット=真実、存在、チット=意識、アーナンダ=至福を意味するその言葉は、永遠であり不滅の原理を表すとても大切な教えの一つです。スピリチュアルな世界の中で究極の体験を与えるその教えは、私たち自身のその存在が純粋な意識として、そして永遠なる至福であるということを表しています。
他との比較や、名前や物へ自身を同化することは、感覚器官を持つ私たちにとって避けられない事象の一つです。幸せを求めながら、その道中で生れては消えを繰り返す落ち着かない心の動きは、自分自身の真の存在を見失い、人々を恐れや不安、迷い、不足感へと陥れていきます。
クリシュナ神は、バガヴァッド・ギーターの中で言います。「喜びの在るところに、私は居る」と。あるスワミジも、「あなた自身のその存在が、神であり喜びです。その至福に気づいていなさい。」と言いました。自分自身がサット・チット・アーナンダの現れであり、内にある神性に気づくことは、永遠で不変の至福を与えます。そこが、私たちの向かうべきところなのだとインドの教えはいつも示しています。
自身の内側には何も語らないどっしりとした沈黙があります。深い瞑想の中で近づいていくその部分、その存在に、永遠でいて不変の幸せを感じる時、サット・チット・アーナンダである自分を見ることができると、そう教えられたことも忘れることができません。
自分の中にある神性は常に幸せで輝いていること、それを覆う心の曇りは、ヨーガの行いによって少しずつ晴れていくようで、ここでもその時間を大切に過ごしています。
(文章:ひるま)

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