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雑記帳

世界を見つめるもの

ヒンドゥー教の哲学の中でも根源的な存在として知られるサーンキャ哲学は、プルシャとプラクリティという二元論を掲げ、ヨーガはその相反するものの間で合一を得るための手段であると述べています。
誰しもの内にある既に悟った存在「プルシャ(真我)」、そしてそこに現れるサットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(鈍質)という3つの性質をもった「プラクリティ(自性)」。これがその二元論の大本です。
3つの性質を持つプラクリティがその均衡を失った時、そこからは様々な現象が現れます。自然、物質、肉体、感覚、その全てにあたるものであり、サーンキャ哲学では、私たちがその現象世界に囚われた状態が苦悩であると述べています。
現象を生み出す3つの質の均衡を保ち、プルシャそのもので在る方法とは何か。それこそがまさにヨーガです。サーンキャ哲学の主唱者でもある聖者パタンジャリが示す経典「ヨーガ・スートラ」には、全てが錯覚であるこの幻想の世界を見るものとしての、プルシャで在る術が事細やかに記されています。
今、私はそのスートラに沿うようにここでの生活を努めています。社会においてすべきではないこと、そしてすべきこと、体を動かして瞑想に耐え得る心と体を作り、生命の源である呼吸を整え、様々な現象を見せる感覚を制御する、そして初めて辿り着く瞑想の境地、その一つ一つのヨーガの行いに日々を捧げながら見えるものは、ただ何にも動じない平穏だけのように思います。それは、私たちがただこの現象社会の中に迷い込んでいるだけだと、それを示す厄介な心の動きにはっと気づかされ、見つめながら微笑むような、そんな感覚でもあります。
好きも嫌いも、良いも悪いも、非難も称賛も、起こりうる現象全てを平等に捉え、そして悩み惑わされないのは、自分がその世界をただ見つめる存在であると気づいているからに違いありません。ヨーガの行いは確実にその境地へと導きます。私たちは既に悟っている、その真実を学ぶために、この人生が見せる様々な世界の中で今私がヨーガを続ける理由のような気がしています。
(文章:ひるま)

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