今という瞬間を生きることは、幸福に留まる最もシンプルな術のように思います。究極の幸福へと繋がる道を示すヨーガに励みながら、その目的を見つめ直す時、どんな時も今を生きる意味を見せられ、自身が在るべき幸福の存在する場所をつきつけられるからかもしれません。
現在という瞬間に心を定める修練において、私にとっては、「プラティヤーハーラ」もまた大きな位置を占めるものでした。感覚の制御を意味するプラティヤーハーラは、感覚の対象物から自らを引き離し、内なる世界へと向かう修練として知られています。
見ることや聞くこと、匂い、感触、味わい、こうした感覚から一瞬たりとも離れずに、私たちは生きています。それらは喜びだけではなく、苦しみをもたらすものでもあり、人々の心から平安を奪うその感覚や対象物に、賢者は決して近づかないと、古い聖典においても度々述べられてきました。
事実、感覚を引き起こす対象物から自らを遠ざけることは、外界で起こる現象を引き離し、内なる自身の本質を浮き上がらせていきます。それは決して、自分自身を押さえつけるものではなく、また感覚を引き起こさないよう、行いを止めるものでもありません。
ヨーガの修練を通じ、そこで学ぶものは、無執着であったように思います。感覚の制御のために、世界から身を切り離すことではなく、この世界が存在する現在という瞬間に完全に留まり、手放すこと、そして身を委ねることを学ぶ修練そのものでした。
それは、今までに感じてきたこと、これから感じるであろうこと、それら感覚が生み出す幸せを求めて、過ぎ去った過去やまだ来ない未来へと動き回る心を、絶対の幸福が唯一存在する現在という瞬間に定めることに他ありません。
こうあるべき、こうしたい、これが欲しい、感覚から生じるそういった心の働きに惑わされることなく、現在というあるがままの瞬間を生きること、その真の美しさを、今日もここで享受しています。その瞬間の喜びが何よりも勝るのは、自身の本質が唯一、存在する瞬間であるからに違いありません。
(文章:ひるま)
雑記帳
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