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雑記帳

至福の行い

2

聖典バガヴァッド・ギーターの舞台であるクルクシェートラの戦場。敵陣に親族の姿を見つけ困惑したアルジュナが、戦いを放棄してしまったことにバガヴァッド・ギーターは始まります。

幸と不幸 損か得か
また勝敗のことなど一切考えずに
ただ義務なるが故に戦うならば
君は決して罪を負うことはない
(バガヴァッド・ギーター2章38節)

戦わないと訴えるアルジュナに、勇ましく戦えとクリシュナが説きます。この「戦え」というクリシュナの言葉は、いかなる行為も罪は生み出さないという大切な事実を伝えています。罪を生み出すのは、欲望や期待、執着といった行為のもとにある心の作用に他ないからです。

バガヴァッド・ギーターの中で熱心に説かれるヨーガの一つに、カルマ・ヨーガ=行為のヨーガがあります。呼吸をすること、食べること、眠ること、考えること、私たちは生きる中で行為を止めることはできません。その一つ一つの行為を通じ、至福を得るのがカルマ・ヨーガです。

アルジュナのように私たちが苦悩するのは、行為のもとにある欲望や執着、また結果への期待が原因であると古くから説かれてきました。心の作用を持つ私たちにとって、それらを捨てて行為することは、決して簡単なことではありません。そのためには、真実の理解(ジュニャーナ)や神々への信愛(バクティ)が必要です。

クリシュナの教えのもと、魂は永遠であるという真実と、自分自身の義務を理解し、戦いに向かったアルジュナ。一方で私たちは、欲望、執着、期待といった敵と常に戦い続けなければなりません。そうしてあらゆる行為をヨーガとするカルマ・ヨーガの実践は、私たちを常に、本質である神々に近づけます。そこから生まれるものは、真実の理解に基づく清らかで純粋な至福です。私たちの生きる日常の一瞬一瞬の行為は、自分自身を浄化し、幸せに至るための大切な機会にも他ありません。

神の詩を中心に据え、アルジュナのように、真実の理解、本質に近づく日々の行為を全うしたいと感じています。それは、自分自身の内なる世界、そしてこの大きな世界を平安に包みこむ、私たちの義務であるようにも思います。

執着心を捨てて自らの義務を遂行し
その結果を至上者(ブラフマン)に献ずる人は
蓮の葉が水にぬれないように
あらゆる罪をはじいて よせつけない
(バガヴァッド・ギーター5章10節)

(文章:ひるま)

出典:神の詩―バガヴァッド・ギーター 田中 嫺玉 (著, 翻訳))

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