北インドの弓奏楽器「サーランギー」が以前この連載に登場したのは、Vol.46の新音楽(声楽様式:カヤール)創造の発端を開いたターンセン一族のドゥルパディヤーのひとり、称号:サダーラングの話に於いてでした。
当時のデリー王:ムハンマド・カーンの粋狂で、「当代随一」と話題になっていたサーランギー奏者とサダーラングのヴィーナとの腕比べを固辞し、宮廷を追放になったことが全ての始まりでした。
この時の出来事の意味とサダーラングの心情は、今の世の中でどのように説明したら伝わるのでしょうか? というのも、洋の東西を問わず、人間社会はこの100年で、様々な階級、身分、差別、不条理を告発し戦って、かなり改善されてきました。しかし、Vo;81で登場した話し「サックス=ラッパ?」に見られるように、社会制度は変化しても庶民の理解はどれほどなのだろう?とか、改善される事柄がある一方で、曖昧になった「分別」もあれば、「格式、品格」という観念が捨てられてしまった部分も多いと思われるからです。
何事も「自由が一番=やりたいようにやれる筈だ」という感覚では、この「楽器紹介編」のシタールでお話した欧米ヒッピーが路上でシタール、タブラを玩具にすることも「何の問題もない」ということになる筈です。
逆に「いや、大問題だ!」としても、その「観念」を十人が十人共有出来るか?というと、それは「観念」のそもそもの限界で、まず無理な話しです。
その一方で、身分や階級的に卑下されて来た人間達の全てが今日のような「ボダーレス」を望んでいたのかどうか?という逆のテーマもあろうかと思います。例えば、歌舞伎や文楽の「黒子」や、日本にはまだまだ少なくない「職人」さんは、果たしてタレントのように「目立ちたい」「名と顔を売ってより多く稼ぎたい」だけが目標でしょうか? もちろん、生活向上は望んでいるでしょうし、家族や子や孫の安泰も大きなテーマでしょうが。
私の師匠は国立音楽院の主任教授の地位にありながら、逆に国家公務員の為に、レコードも海外公演も、徒弟制度以外に生徒を増やすことも禁じられ、州から格安の家賃で得られた家に親戚含めて十数人で暮らしていました。しかも、運悪く隣家が水牛小屋だったので、町中から師匠の家迄の道路は糞で敷き詰められ雨の日は悲惨でした。
そんな師匠がたった一回だけ、私に愚痴をこぼしたのが、「お金があれば屋上に音楽室を作りたい」だけでしたが、結局何も手助け出来ていませんが、私は「あれもこれもどうにかならないものか?」と思うことばかりでした。
そんな師匠が若い頃、一時大金を手にする機会を得ました。ネパール国境に近いと或る町の大富豪の娘の家庭教師の職を得たのでした。ところが、学び始めて二三年で父親の大富豪は「我が娘は天才であろう?」とお客を集めて演奏会を開いてしまったのです。そして、大富豪が演奏後、師匠に向かって感想を訊いた時です。師匠はお客の面前で「はて、私はこのような音楽を聴くのは初めてなので、評価のしようがありません」と言ってしまったのです。
私の感覚で申して恐縮ですが、シタール、サロード、サントゥール、サーランギーなどなどを長年弾いて来て、その難度のみならず、実際の演奏スタイルと奏者のラーガの理解のことを考えると、もしかしたらサーランギーは最も高度なインド楽器かも知れません。
が、その評価は、やっと20年程前に高まりましたが、その頃には演奏者は激減していました。
何度か述べていますが、そもそもサーランギーは、「修行僧の楽器」及び「地方の民謡楽器」もしくは「花柳界の歌姫の伴奏楽器」でした。
今日では大分減りましたが、それでもラージャスターンでは未だに数種の民謡サーランギーが世襲の音楽一族によって守られています。
その最も古いと思われるシンプルな楽器「チカラ」は、三本の主弦に4〜5本の共鳴弦しかありません。ラージャスターン及び近隣地方で発展した楽器は、主弦が三本の羊腸で、共鳴弦が20本近くあります。それらが「花柳界」で徐々に発展し、最終的に「クラッシック・サーランギー(古典音楽用の意味)」と呼ばれる今日の形になり、主弦三本(希に金属基音弦を四本目に張る)の他、クロマティック(全ての半音に調律)共鳴弦が15本前後。基音共鳴弦が楽器上部左右のサワリ駒の上に計10本程度、その他「ラーガに合わせ曲毎に調律する共鳴弦」が15本前後で、合計40本前後もの共鳴弦が付けられました。
しかし、サーランギーがその形と地位に至る迄は数百年の或る意味で虐げられた時代と歴史があるのです。が、果たしてその全てが不条理であったか?というとそうでもないようにも思えます。
(文章:若林 忠宏)
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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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