豊穣や幸福の女神として広く崇められるラクシュミー女神には、貧困や不幸の女神として知られるアラクシュミー女神という姉がいることで有名です。その姉妹の関係は、霊性を育む教えの中でさまざまに伝えられることがあり、二人の存在は、私たちの内に誰しもが持つものであると伝えられます。
一説に、ラクシュミー女神と共に描かれるふくろうは、姉のアラクシュミー女神であると伝えられることがあります。ふくろうは、光のある日中は動き回らず、暗闇に包まれた夜に活動する動物です。それは、私たちが欲望(暗闇)にとらわれ、本質である幸せ(光)が見えないことを意味しているのだと言われます。
私たちの内でアラクシュミー女神の存在が強くなる時、その内には激質や惰質が満ち、強欲になったり、怠け者になったりと、既に持っている豊かさを忘れ、もっと多くを望んだり、少ないことを嘆き悲しみます。今ある幸せに感謝をすることすら忘れるその心の貧しさは、私たちに貧困や不幸を与えるものに他ありません。
しかし、私たちの内でラクシュミー女神の存在が強くなる時、その内には純質が満ち、私たちは本質である幸せを見ることが可能となります。その絶対の幸せを理解することは、私たちに何よりも大きな豊かさと幸せを与えくれるものに他ありません。
ラクシュミー女神は、夫のいないアラクシュミー女神を結婚させようとヴィシュヌ神に懇願し、アラクシュミー女神はあるリシ(聖仙)と結婚したと言われます。しかし、不潔で嫉妬や憎しみに満ち、争いのあるところを好むアラクシュミー女神は、清潔で愛と平和に満ちるリシの家を好きになれず、逃げ出してしまいます。それ故、アラクシュミー女神は不潔で嫉妬や憎しみに満ち、争いのあるところ見つけてはやってくると言われます。
また、ある商人のもとを訪れた二人は、どちらが美しいかと商人に尋ねたと言われます。商人は二人を悲しませないために、「ラクシュミー女神は私に向かって来る時に美しい。アラクシュミー女神は私から去っていく時に美しい。」と述べ、二人は喜び、アラクシュミー女神は商人のもとを去って行ったと言われます。
私たちは、さまざまに揺れ動く心から、日々の中でアラクシュミー女神を招きがちです。貧しさや不幸せを感じる時、身の回りを清潔にしたり、持てるものに感謝をしたり、一つ多くの仕事をしたりと、自分自身の心と行いを見つめ直し、ラクシュミー女神の存在を高めてみるのも良いかもしれません。清らかで愛と平和に満ちた心の豊かさを育むことができるよう、ラクシュミー女神の存在を常に胸に留めていたいと感じています。
(文章:ひるま)
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