強くたくましく、そしてよい加減に気が抜けているインドの人々。しかし、労働者、特に日雇いや肉体的にきつい仕事の人たちの姿を見ていると、それはやはりとても貧しい生活なのが分かります。平和な街、リシケシにも路上で生活する人々がいて、物を乞う子どもたちがいます。でも、彼らはどんなに大変な状況にあっても笑みを絶やすことはありません。
パタンジャリのヨーガ・スートラにでてくる、ニヤマの中のイーシュヴァラ・プラニダーナ。先生が以前、そんなインドの人々の生活を例に挙げて説明してくれたことがありました。「お金がなくても、寝るところがなくても、食べるものがなくても、彼らには頼る場所があります。辛い時には泣く場所があり、嬉しい時には幸せを分かち合う場所があります。どんなに辛くても、彼らは強く握るもの(=神様)を胸の中に持っているのです」と。神様との繋がりがとても深いインドの人々、彼らが笑みを絶やさない理由は、心の中にいつも神様がいて彼らを強く支えてくれているからのようです。
イーシュヴァラ・プラニダーナは、もともと「神に身を委ねる」という意味があります。物事は、自分の意思ではなく神の意志で行われるとインドの人々は考えています。神様というものに対して漠然とした感覚しかない私にとって、先生は分かりやすく、「広く言えば、心を開くことであり、エゴをなくすことでもあるかもしれません」と説明してくれました。
全体と一つとなることが究極のゴールであるヨーガの世界の中で、エゴをなくすということはとても大切な修行の一つです。心が落ち着かない時、ただ目を閉じて座ると、それまで波打っていた感情が落ち着いてくることがあります。目を瞑り、「私が」とか「僕が」というような強い思い(エゴ)から一歩引いて世界を見てみることで、とても自由なあるがままの世界が見えてくるからです。エゴをなくすという意味は、自分をなくすのではなく、この世界に調和することを意味するのかもしれません。そうすると、心が開いて、つかえは取れてなくなり、どんなものにも縛られることがなく自由で、心はとても軽くなります。
神様に身を委ねること=世界との調和。自然に起こる現象に逆らおうとする心の波を落ち着かせ、この世界の流れに身を任せることで、物事は本当に流れるように進んでいきます。「ノープロブレム」その言葉の裏側にはきっと、神様の強い支えと共に、そこに開かれた心、そして信じる力があるからに違いありません。インドの人々とその生活がまた一つ、大切な事を教えてくれました。
(文章:ひるま)
雑記帳
コメント