象の顔に大きなお腹、手には甘いお菓子、その愛らしい姿ゆえ、ガネーシャ神はどんな時も人々を惹きつけてやみません。神聖な存在でありながら、容易く触れることができるような雰囲気をこの象の姿をした神様は醸し出しているように思います。しかしそれは、ガネーシャ神に限ったことではありません。
インドで過ごす日々は、常に神と共にある日々です。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、頭で考えるもの、そのすべてに神聖な存在を感じます。神と言うまるでかけ離れたもののように感じる存在も、インドでは、いつもすぐ隣にいるような温かい感覚に包まれるのです。
色鮮やかに、豪華さも優しさも、時には恐ろしささえもありのままに描かれるインドの神たちは、様々な象徴を表しながら多様に存在しています。それは、私たちの持つありとあらゆる特性を事細やかに示しているかのようであり、神を見つめ瞑想することは、自分自身と向き合う大切な術の一つであるとそう実感していました。
神に心を定めることは、究極の瞑想に変わりありません。さまざまなものを見聞きし考える生活の中で、遠い昔から崇められ神聖化されてきたその存在に心が留まる時、そしてそれが言葉を失うほどに惹き込まれた時、そこには不思議な空間が生じていることに気づいたことがありました。心を惹きつける姿形を持った神聖な存在は、どんなに短い瞬間であっても、あらゆる思考が完全に停止した静寂を生みだすのだと感じたことを覚えています。
「目には見えず、しかし目が見ることを可能にしているもの―それが宇宙原理である」ケナ・ウパニシャッドはそう述べています。神と称される偉大な存在が多様に描かれ、あらゆるところに溢れるインドの生活においては、その姿形を目にする自分が、その存在との一体を通して、無条件で永遠の存在を確認するように思います。
神の姿は自分自身をありのままに映し出しています。そんな神の存在を目撃し自分と言う存在を見つめる時、その間に生じる静寂の中で、真実を経験するに違いありません。インドにはその瞬間が、いつの時も溢れているのです。
(文章:ひるま)
雑記帳
コメント