秋のナヴァラートリを過ごし、いつも以上に神聖な時の中で神々の存在と共にあった日々が、何気ない日常の瞬間にふと忘れてしまう大切な何かを改めて深く胸に刻んでくれたように感じます。今、その何かを思いながら、不二一元論を提唱したアーディ・シャンカラーチャーリヤの言葉を読み返しています。
「私は忘れていました。
カーシーへの巡礼の道を辿りながら、あなたが至る所に存在していることを。
私は忘れていました。
あなたのことを思いながら、あなたが思考を超越した存在であることを。
私は忘れていました。
あなたに祈りの言葉を捧げながら、あなたが言葉を超越した存在であることを。
お許しください。
どうか、この罪を。」
この人生においての唯一の勝利とは、自分自身の中心である真実、その神の存在と一つとなり常に共に在ることだと、インドの深い精神性に満ちた教えに触れる中で学んだように思います。しかし、インドの叡智が日々の様々な行いを通じ絶えず私たちにその術を伝え続ける中で、行いに翻弄され心に惑わされる私たちは神の存在をしばし忘れ、そこで生じる苦悩と言う心の波を否応なしに経験しなければなりません。
神を求め、時に険しい道を歩み、思いを寄せ、祈りを捧げることがあったとしても、その存在の在るところを一瞬でも見失えば、神聖でいて敬虔なその行いすらも自らを強く結果というものに束縛していきます。神に近づきたく生じる礼拝や献身、祈祷という行いを通じ自分自身が浄化される過程において、どれだけの深い気づきの中にいられるのか、それが何よりも大切なものとなるのだと気づかされます。
神を忘れることが罪であると述べた哲学者は、自身の深い気づきの中で、それ以上の過ちはないものだと感じたのかもしれません。事実、それほどに心が痛む事象はないことを、そして、そこにこの世界のあらゆる苦悩が始まることを、その崇高な言葉が梵我一如の意味を越えて伝えているように思います。
ナヴァラートリを終え、今この瞬間にもまた、全ての人が気づくべく事柄が記されたその言葉が、一人でも多くの人々の胸に響くことをここでただ願っています。
(文章:ひるま)
雑記帳
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