ヨーガの修練に集中した日々を過ごしています。座法や呼吸法だけでなく、日々の行いが全て、自分と崇高なものとを繋ぐヨーガとなるここでの生活において、丁寧に生きる日々の中で見える美しさにただただ心は引き込まれていくように感じます。
ヨーガの経典「ヨーガ・スートラ」は述べています。
「ヨーガ行者たちの無想三昧は、堅信、努力、念想、三昧、真智を手段として得ることができる」(ヨーガ・スートラ第1章20節)
深い三昧の境地である無想三昧は、まず根本に堅信がなければなりません。堅信から努力が生まれ、努力から念想が生まれ、三昧の境地にたどり着きます。そしてそこに、真実を見極める光である叡智が輝いていることを人は理解します。
覆い隠すことなくこの極端に聖と俗、富と貧、そして生と死をも見せる世界の中では、真実の光なくして歩みを進めることはできません。そうでなくとも、出来る限りの物を排除した中で見える真実の光は、その美しさや永遠に変化することのない揺るがない安定さ故に、それを少しでも感じる瞬間があれば心は必然的に頑なな信念を抱いていきます。
堅信があれば努力は確実に、そして容易く生み出されていきます。その努力によって、心には常に真智を想う念が生じること、その過程を痛いほどに理解するのがここでの生活のように感じます。
自然への畏敬、神が至る所に存在し、人々が祈る。そんな生活が見せる究極の至福が、今日もこの心に確かな想いを生じさせます。何かを信じ、身を任せることによって生まれる日々の流れは、否応なしに人々を解放へと導くに違いありません。
スートラは続きます。
「強い熱情を持つ行者たちの無想三昧は速やかに完成する」(1章21節)
ヨーガに没頭し過ぎ去る日々は、ただ生きることに強い熱情を生み出すように思います。それは気づくべく真実への道を歩んでいるからに違いなく、幸もあり苦もあるこの生すらも、こうして受けたことに喜びを感じ、そして生きることに日々感謝をせずにはいられません。
(文章:ひるま)
雑記帳
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