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雑記帳

常に想うべくもの

ここで日々、喜びと共に過ぎていくこの生も、生きることに関するそれはヨーガ・スートラにおいて煩悩の一つとして数えられています。アビニヴェーシャとして知られるその「生命欲」は、誰しもの内に必ず存在し、またそれは賢明な人にさえも存在していると記されています。(ヨーガ・スートラ2章9節)
ただ生きるだけであっても、人は様々な欲を経験せねばなりません。食べることや眠ること、呼吸をすることでさえ、その根本には「生きる」ことに関しての深い欲が存在しています。
ヨーガの世界において、それは過去の生で繰り返し経験してきた「死」という苦痛への恐怖から生じるものであるとされています。そして、様々な術が述べられる中、瞑想によって心が浄化されていく時、蓄積されたそれらの経験は消えていくのだと説かれます。
一方、バガヴァッド・ギーターは述べています。
アルジュナよ 人が最後に肉体を手放す時
常々思うことが心に浮かぶ
人生を通して思ってきたことを死時にも思う
そして人は その時思った通りの場所に行くのだ
故に 常にわたしを想いながら
義務である行いを遂行しなさい
心と知性を わたしに固く結びつけるなら
疑いなく君は わたしのもとに至るだろう
(バガヴァッド・ギーター8章6−7節)
常に変化を続ける物質という肉体を纏う私たちにとって、心がその物質に惹きつけられているのであれば、肉体の消滅である死時には想像しがたい恐怖と苦痛を抱くのは深く理解できる事実です。そしてそれは肉体だけでなく、あらゆる物質に関してあてはまるに違いありません。
だからこそ、この物質世界を生きる中で、心を定め揺れ動かぬよう永遠なるものに強く結びつけるのであれば、そこには恐怖も苦痛も生じることはないのだと気づかされます。そしてそれこそが、この世に受けた生における修行なのだと実感してなりません。日々の中で一瞬一瞬に永遠である至高な存在を想うことは、ただそれだけで永遠に至福に留まる事を意味するのだと感じています。
心が至上者に完全に定まれば、もう2度とこの物質世界に戻ることはないと、そう述べるクリシュナ神の言葉を、ヨーガという術を用いあらゆる行いを瞑想としながら、ここで改めて深く理解しているように思います。
(文章:ひるま)

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