この度滞在していたケーララ州はキリスト教徒が多く、ヒンドゥー教の寺院に加え、あちらこちらに教会が立ち並び、僧侶やシスター達が街を行き交っています。思想や宗教と言うものがこれほどまでに入り混じりながら、整然と動き続ける世界には度々ぐっと惹きこまれ、立ち止まり見入る瞬間もあるほどでした。
同じインドでありながらも、慣習や文化、信じるものが異なれば驚くほどに生活様式も異なります。そんな世界を移動しながら見たものは、異なるものの中でも、人々は笑い、悲しみ、日々を共に過ごしていたということです。信じるものが違っても、私たち人間の根本にあるものは変わらないということを、共に生きる人々の姿は見せてくれたように思います。
それはまた、宗教や信仰が、自分自身の内に存在する神性を示すためのものだということを物語っていました。異なる形であっても、祈り神を想う姿は、どんなものよりも美しい寂静を生み出していたように思います。誰しもの内に存在する神性さがこの世界にしっかりと示されるのであれば、この社会はきっと真の平和に、そして幸せに満ちるに違いないと強く感じています。
しかし、そのためには人々の内の正しさが磨かれなくてはなりません。教育水準がインドの中でも飛びぬけて高いケーララ州は、社会福祉が整い、物質面だけではない社会の豊かさが非常に高いことで有名です。啓発がなされ、また、信じるものを通じ偉大な存在と自身の繋がりを体現しながら、より良い社会を築こうとする人々の姿は、日常の生活に存在するヨーガそのものでもあったように思います。
自分自身の内にある無知、その暗闇を取り払い、光である神聖さに満ちた存在へと、その正しい知識を磨きあげるために、私たちは多くを学び、そして気づかねばなりません。闇から光へと行く道はさまざまに示されます。道は違っても、人々の神性が示され平穏で至福に満ちた世界となることは可能であることを目にし、改めてその実現をここで願いながら、またこの北の地に腰を据えています。
(文章:ひるま)
雑記帳
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