リズム楽器の代表である太鼓は、言うまでもなく、古今東西のほとんどで獣皮を用います。ところが、ご存知のようにヒンドゥー教徒の多くは菜食主義者であり、インド科学音楽の担い手であった僧侶は、より厳しい菜食の掟を守る人々です。獣皮の楽器は、触ることは勿論、出来ることなら「見たくもない」という立場なのです。
では、どのようにして、太鼓を音楽に活用したのでしょうか。
このことをご説明する前に、「菜食主義」「浄不浄」「カースト制度」「禁忌(タブー)」について、改めて考えてみて欲しいと思います。
まず、俗に言う「カースト制度」は、神さまの頭から僧侶、腕から職人階級、足から奴隷階級が生まれたことに端を発する、と言われますが、これがそのまま為政者にとっては「支配の大義名分」になったわけです。しかし、そもそものヒンドゥー教の科学における分別や論理の中で、頭と足には、優劣があったのでしょうか?
また、異なった尺度で考えれば、僧侶は、そのカルマから、苦役に苦しむ奴隷階級と同じほど、必死で頭を駆使せねばならない。地位階級が上であるから、ふんぞり返って楽をしているわけではない。その意味では、これは分別、役割分担であり、優劣や差別ではない、という考えも可能なはずです。
インドおよび周辺には、自然を尊ぶ教義が豊富にあります。チベット仏教では殺生を禁じたり、人間のみならずあらゆる生き物への慈愛を説きます。インドのジャイナ教もしかり。衆生に優劣はないのです。
また古代ペルシアのゾロアスター教は、「拝火教」の俗称で知られますが、実際は「万物の四元素」である、火、水、地、空気の全てを拝し、けっして汚してはならないと教えました。ここで肝腎なことは「汚す」という概念は何か?ということですが、端的に言えば、「混ぜない」「分別する」ということです。
お酒が好きな人が二日酔いの朝、冷たい美味しい水を求めたとき、親切心でお酒を入れたらどうなるか? その水は、混ざり物が混入しているという意味では、泥水と何ら変わりがないのです。 では、「泥」は汚れているのか?というとそうではない。微生物が豊かに育つ健康な土は、あらゆる生き物にとって掛け替えの無い宝です。 しかし、そこに何か不純なもの(自然に存在しなかった化学物質など)を混入させてしまうと、「汚れた土」となる。という考え方です。
また、現代日本人には、「浄と不浄」の観念も実は分かりにくいのではないでしょうか。殆ど「清潔と不潔」程度にしか理解していないのでは?
これら「二元論」的な概念は、極端な例を挙げるならば「男性と女性」や「生と死」のようなものですから、優劣では決してないのです。しかし、観念の世界では、長年女性が虐げられて来たように、恐れも手伝って「死」を忌み嫌い考えずにいたように、何時しか「二元論」を「優劣」のように短絡的に理解する風潮が蔓延したと考えられます。
実際のインド科学音楽および古典音楽における太鼓の立場は、以下のようになっています。
まずバラモン階級の音楽家は本来太鼓に触ることをしませんでした。従って、太鼓奏者は、クシャトリア以下の階級ということになります。
また、近現代でこそ、太鼓奏者の立場やその妙技がインド内外で高い評価を受けて居ますが、昔は、太鼓奏者は、まるで黒子のように主奏者や歌手の方を向き、聴衆には横顔を見せていました。さらに、南インドでは、今日も筒型の両面太鼓を用いますが、筒に布を巻き締め皮が見えないようにしてあります。横向きですから歌手や主奏者は、鼓面さえも見ずにすむわけです。
このように、言わば徹底して禁忌な扱いであったわけです。が、それでも太鼓が無いと音楽が成り立たないのです。
かと思うと、私のバラモン階級の友人には太鼓奏者がいます。しかもベナレス生まれ育ち。生真面目で短気で自尊心旺盛な人でしたから、「皮を触って良いの?」とは訊きませんでしたが、この辺りの柔軟さもインドならではのものではないでしょうか。
(文章:若林 忠宏)
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若林忠宏氏によるオリジナル・ヨーガミュージック製作(デモ音源申込み)
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