感覚器官が宿る場であり、変化を繰り返す肉体という物質をまとう以上、私たちは痛みや心地よさを経験せずに日々を過ごすことはできません。心という物質も同じように、幸せや苦しみを私たちに与え続けています。しかし、痛みや心地よさを感じながらも、こうして日々を過ごすことの美しさを、ここで過ごす日常は教えてくれるように思います。
憂いもあり喜びもある揺るいだ物質界に戻らぬよう、ここでは多くの人々が精神的な修行を続け、肉体や心を越えた決して揺るがない崇高なところへと至るための探求に励んでいます。そんな人々の姿は、ただそれだけで存在の至福を表し、それは常に自分自身の心を原点に戻してくれるように感じています。
心から神の名を唱える人々、心から祈りを捧げる人々、心から神を瞑想する人々、そんな人々の姿は何よりも美しいものです。神を求めることが、目的としての手段ではないその心は、それだけで平安を生み出し至福を広めているようで、私が心の底から欲するものを常に見せ続けてくれます。
こうして肉体を持つことは、神の姿を目にし、足に触れ、その名を唱えることを可能とします。響く神の名を耳にし、溢れる神々しい香りを嗅ぐことも、私たちはできるのです。それがどんなに素晴らしいことであるのかを、敬虔な人々から溢れる喜びが気づかせてくれるように思います。
「神は人間の中に明白である」賢者たちもそう述べています。意識をもったこの存在に宿る決して変わることのない真実の姿を、私たちは日々の生活においても表現し続けることができるのです。だからこそ、人間の内、そして自分自身の内に神を見られない者は、永遠に満たされることはないのかもしれません。
人間として生きることが素晴らしいことだと実感させるこの生活は、やはり神の存在を強く感じるからです。神を見ることをこうして可能にしている肉体すらも、その心さえも、物質の次元を超えて受け入れられる意識でいられるよう、私もここで生きる修行の日々を続けています。
(文章:ひるま)
雑記帳
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