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雑記帳

シャバリーの心

ヒンドゥー教の慣習には、ナイヴェーディヤという神々に食事を捧げる行為があります。
このナイヴェーディヤは、調理をした食事を最初に神前に捧げる行為になり、これにおいて、味見をしたり、匂いを嗅いだりすることはありません。
そうして清らかな食事を神々へ捧げた後に、私たち自身が食事をいただくことが大切な作法となります。

このナイヴェーディヤについて、信仰のあり方を学ぶある有名な神話が伝わります。
ラーマーヤナに登場する老婦人のシャバリーにまつわる神話です。

シャバリーは、崇高な知識を探究する女性でした。
しかし、カーストが低く、知識を得るに値しないと、あらゆる聖者たちに拒まれ続けます。
そんなシャバリーを受け入れたのが、聖者のマータンガでした。
シャバリーは、森のマータンガのアーシュラムで慎ましく、霊的探求に勤しみます。
そして、マータンガが肉体を離れる時、マータンガはシャバリーに、ラーマ神を待つようにと伝えます。

それから、シャバリーはラーマ神に謁見する日を待ち望みながら日々を暮らしました。
いつ謁見できるか分からないラーマ神のために、毎日、森を歩きながら、ラーマ神に捧げるための果物を集め続けます。
しかし、集めた果物が甘いのか、酸っぱいのか、それとも毒があるのか、シャバリーにはわかりませんでした。
それ故、シャバリーは果物を少し味見して、甘いものだけを取り分けていました。

そんなシャバリーの前に、森を歩いていたラーマ神と弟のラクシュマナがあらわれます。
シャバリーは喜び、果物を供物として捧げようとしました。
しかし、かじられた果物を見た弟のラクシュマナは、食べてはいけないとラーマ神に伝えます。
それでも、ラーマ神は果物を食べ、これほど甘い果物は食べたことがないと、シャバリーに喜びを伝えたといわれます。

このシャバリーの神話については、さまざまな見解があります。
しかし、ラーマ神が食べかけの果物を食したように、大切なことは捧げ物の状態や価値ではなく、シャバリーに見られる神を愛する心であるということが広く解釈されています。

ラーマ神は、偉大な修行者にとってもっとも困難なことを、シャバリーは誠実な献身によって容易く成し遂げたと伝えたといわれます。
神を心から愛する者こそが最高の修行者であるといわれるように、シャバリーの姿勢が伝える価値ある意味を学ばなくてはなりません。

神々は、真心が込められたものはどのような形でも喜んで受け取るといわれます。
意義ある作法を学びながら、このもっとも大切なことを忘れることなく、日々を歩んでいきたいと感じます。

(文章:ひるま)

参照:Ramayana story: Lord Rama meeting Shabari!

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